キーボードえらび
「弘法筆を選ばず」という。「文字を書くのが上手な人は筆のよしあしを問わない。本当の名人は道具のよしあしにかかわらず立派な仕事をする」(『広辞苑』)ということわざである。「転じて、自分の技量の不足を道具の所為にしてはならないという戒め」(“Wikipedia”)だという。後者のほうは、あまり信じるべきではないと思う。弘法大師は“つねに”筆を選ばないわけではない。むしろ、自分にあった筆を選べるようになることも上達のために重要な要素である。少し前、作家の柳美里氏がツイッターで、「スマホで小説を書いている」と仰っていた。それが彼女にとって書きやすいものなら、なんの問題もない。「手書きじゃないと集中できない」という人もいるだろう。とある劇作家のための指南書には、「手書きのほうが人間の思考のスピードに近いからいい」みたいなことが書いてあった。そういう人もいるだろう。自分にあった道具を見つけること。鴻上尚史氏は、書くときの身体の状態も大切だと説いていた。うつむいて、平面に向かって首を下に曲げ続けるのは、身体によくないから、モニターの位置は目線に対して真っすぐになるところに置いたがいいとのことである。あと、椅子は良質なものを買え、とも。
「書く」ということを表現するジェスチャーが、一本の手に三本の指でペンを持つというものに限るという時代は終わりつつある。もう数十年、ひょっとすると十数年もすれば、二本の手を出して、五本の指を拡げてみせるというのが、「書く」ことを表現するジェスチャーとして、一般的なものになるだろう。いや、もしかすると柳氏のようにスマホへの入力のほうがよりポピュラーになるかもしれない。
小生は、このテキストも二本の手を出して、五本の指を拡げて書いている。まれにペンで書くこともある。ペンで書くときは、何と何がどうつながっているかわかっておらず、思考がまとまっていないときが多い。ある程度、落ち着いていて、しっかりものを書きたいというときは、キーボードに向かう。ある時、もっといいキーボードはないものか、考えた。そして、「キーボード」を学部生時代の卒論のテーマにしようとしたのである(結局、違うものになったが)。
「キーボード」(keyboard)といっても今はほとんど通じると思うが、この道具にもいろいろな呼び名があり、歴史がある。最古のものは「タイプライター」である。当初(本格的市販は1870年代のアメリカ)は、医者や弁護士といった多くの文章を作成する専門業種へのニッチな需要への供給だったのが、19世紀末になるまでには米国およびヨーロッパで一般的な文書作成に使われるようになった。以降、「タイプライター」は欧米圏では文書の作成において必要不可欠なものとなる。「タイピスト」という職業も聞いたことがあるかもしれない。1980年代~1990年代に、プリンターの性能向上と相まって、パソコンのワープロソフトの仕様が普及しはじめるまでこの状況は続いたという。日本ではというと、評判を呼んだジャストシステムのワープロソフト「一太郎」が1985年に発売された。「印刷を前提とした書き方」という意味でいえば、欧米圏と比較すると、普及までおよそ100年を経ている(家辺勝文『活字とアルファベット 技術から見た日本語表記の姿』法政大学出版局、2010年)。
ニーチェも、眼病のために、ある時期からタイプライターで執筆するようになったらしい。タイプライターはもともと視力などが原因で文字を書くことができない人のために開発されたところもあるという。書く道具が変わったことで、彼の哲学、文体が変化したと主張する人もいる(F.キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター(下)』筑摩書房、2006年)。
そして、小生は大学生のころは自宅以外でものを書くことのほうが多かった。講義のノートも手書きではなく、ラップトップパソコンに打ち込んでいた。ところがラップトップとはいえ、重かったので、途中からタブレットになる。そしてタブレットにつけるキーボードを探すのだが、その時はどうしても「携帯性」を重視していた。ブルートゥースで接続する、折りたたんで小さな鞄に入るようなものがよかった。しかし、そういうものはエンターキーがとても小さい。慣れればどうということもないけれども、タイプミスもよくあったと記憶している。何かちょうどいいものはないか、ヨドバシカメラに寄って、あれこれ試し打ちしたものだった。大学三回生のころだったか、キングジムが販売している、「ポメラ」(DM100)に出会うことになる。文字の入力のみに特化したもので、これぞといった商品だった。DM100で、卒論やら第三劇場時代の戯曲やらを書いた。
大学も卒業した今も、DM100を動かすことはある。しかし、今はデスクトップパソコンにメカニカル形式のキーボード、FILCO Majestouch2をつなぎ、このテキストを入力している。「キーボード」もピンキリがあるようで、2,3万円以上の高級なものになると、ノートパソコンに備え付けてあるものや小生が大学生のころ使っていたモバイル性重視のものに比べると、段違いに打ちやすく、手も疲れにくい。しかも、打鍵感やタイプ音も、スイッチの種類を変えることで調整できる。茶軸、赤軸、青軸とあり、青軸が重く、赤軸が軽い、茶軸がそのあいだである。ガンガン音を鳴らしたい人や、古いワープロに慣れている人は青軸、あまり手の力が強くない人は赤軸といったところだろうが、まずは店頭で試してみたほうがいい。先日、友人にこのFILCOのメカニカルキーボードで文字を打ってみてもらったが、「文章を書きたくなるね!」と感動していた。やはり、筆は選ぶべきだ。そういえば、日本劇作家協会の新人戯曲賞の副賞に、ジャストシステムの「一太郎」があった。これは勝手な推測なのだが、今なお現役のベテラン作家の人たちは「一太郎」で戯曲を書いているのかもしれない。きっと若手の大多数はマイクロソフトの「ワード」だろうが、小生が小学生のころ、パソコンが授業に導入され、そのときはじめていじったソフトは「一太郎」だったと思う。そして、「一太郎」に欠かせないのが日本語自動変換ソフト「ATOK」である。国産の「ATOK」の人気には今でも根強いものがある。マイクロソフトの日本語入力ソフト「IME」のほうはといえば、IME2010の時点で6万人の顧客が使った9億語の用例をベースに用例辞書をつくり、現在にいたるまでこれを更新している。同様にネットで言葉を集めて、つくられてきた「グーグル日本語入力」もある。なかなかすぐに変換が出ないと、作家としては作業効率にかかわるところがあるから、入力ソフトもこだわらねばならないのだろうが、小生はまだその域の弘法に達せていない。入力ソフトが気になるくらいには、語彙を豊かにせねばなるまい。