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演劇人コンクール2020『お國と五平』演出プラン

劇団なかゆび代表・神田真直が演劇人コンクール2020応募時に提出した谷崎潤一郎『お國と五平』の演出プランを、原文そのまま掲載します。


1.コンセプトと構成

本戯曲の登場人物は、セリフやシチュエーションからも察せられるように「徳川時代」という古い時代の価値観や倫理的規範に基づいて行動しています。そのイメージから適切な距離を取り、作品を普遍化するべく、三人の出演俳優は、仮面をつけて舞台に立ちます。そのうえでお國の「邪淫」や狡猾さが際だつよう「控え目であること」などといった「女性らしさ」なるものとはどんな姿かを稽古において議論しつつ、戯画化するようにして形作ります。五平は一見すると、強く逞しくつまり「男らしく」思えるけれども、実はお國に支配されているように描写します。具体的には、お國と五平には、どちらが主人でどちらが従者かわからないように互いにロープなどの両端を持たせます。両者が筋に合わせてひっぱったり、ひっぱられたりすることで、その関係を表現します。これは、お國はあまり動かず、五平は前に出て激しく動くことで、谷崎作品の特徴である、マゾヒズム・女性拝跪を印象づけようという意図のものです。また、友之丞については、舞台の中心に置かれたドラム缶に入り、裁判所で自己弁護するように演技させます。登場前はドラム缶に隠れています。ここには、友之丞を法廷に立たせ、情状酌量の余地があるかどうかなどを現代の法秩序に生きる観客に判断してもらいたいという意図があります。終盤では、五平が友之丞を斬ってしまいますが、その場面は、五平が金属バットで友之丞が入っているドラム缶を叩くことで表現します。友之丞はドラム缶のなかに隠れますが、五平はドラム缶を叩き続けます。まるで除夜の鐘が悪人ごと煩悩を打ち払うようにして、大きな打撃音が響くなか、お國と五平は「南無阿弥陀仏」を唱えながら、本作は終演します。

2.陰翳と仮面

谷崎の随筆「陰翳礼賛」は発表当時も一世を風靡しました。作家の視覚における美意識を示すここでの主張は、現在でも興味深く、とうてい無視できません。そこで、とくに照明効果について、照射範囲を極限にまで絞った演出を施します。仮面は陰翳によって表情が変化するようこれまでの劇団なかゆびの作品の仮面を製作した専門の作家に依頼します。能面などの構造を研究したうえで、専門の作家とデザインを追究します。また、俳優の身体にのみ観客の意識を集中させるため、可能なかぎり舞台に見える要素は少なくします。ブラックボックスの特性を活かし、仮面をつけたこの世ならざる者が舞台に浮かび上がっているように密度を高める演出はたいへん困難かもしれませんが、挑戦する価値があるものと、そして何より観客にとって魅力を秘めるものと信じています。

3.ことばと音

「お國と五平」の上演は谷崎本人でさえ「冗長と感じた」と述懐しています。どちらかといえば、岸田國士のような上演を強く意識した戯曲というより、読むための戯曲=レーゼ・ドラマとしての性格が強いということは認めざるをえません。それが証拠に、戦前の上演台本でも大幅に削除されている痕跡が見つかっています。テキストレジができない以上、この問題と俳優がぶつかることは必定です。この問題は、俳優との稽古を通じて検証するべきものです。そこで、俳優とともに「冗長さ」を作る原因と思われるセリフを抜き出し、そのセリフの扱いを思案することから稽古を始めます。このセリフの問題を無視せずに、削除するのではない方法を模索することは、日本の演劇史が向かわなかった別の可能性を模索するほどの意義があると信じています。つまり舞台芸術でしか実現できないような発話は、岸田國士が否定的であった所謂「戯曲時代」において、すでに可能で「あった」ことを本戯曲の演出で示すことができれば、日本の戯曲の新たな広がりを見出すことにつながるように思えてなりません。
 またスピーカーなどを用いた音響効果は使用しません。俳優の発語やドラム缶を叩く金属バットの打撃音といった生々しい物理現象のみで作品を構成します。「陰翳礼賛」は視覚と、漆器の手ざわりなど触覚における美意識に着目したものですが、聴覚への言及も少なからずあります。「話術にしてもわれわれの方のは声が小さく、言葉数が少なく、そうして何よりも「間」が大切なのであるが、機械にかけられたら「間」は完全に死んでしまう。そこでわれわれは、機械に迎合するように、かえってわれわれの芸術自体を歪めて行く」。この谷崎の嘆きに金属=機械に迎合するのではなく、機械を芸術のなかに組み込む転回によって応答します。 (以上、1853文字)

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