議論することの難しさ:お國と五平の稽古場での思案(1)後編
芸術学系の少人数の講義で、一人の学生が自身の関心に基づいてプレゼンし、更にそれについてみんなで議論するという時間があった。小生の性格的な部分もあったかもしれないが、議論というからにはある程度はファイティング・ポーズで臨むことにした。議論の対象となる芸術ジャンルの成立史、研究史を踏まえたうえで、発表者自身はどのような「次」に進もうとしているのか。そうではない可能性はないか。あまりに独断論的すぎないか。自分が詳しくない分野でも、論理の飛躍があれば指摘しなければならない。この姿勢こそが正しく、「いいじゃないですか、私自身はこの分野に詳しくはありませんが、面白い観点だと思います」は真剣に取り組む者に対してかえって失礼にあたる。そう思っていた。ところが、それは全体の雰囲気とは違った。「そういう解釈があるなんて知らなかったけど、そういう読み方もできるというのは面白いね」。やはりまず切り口はこのような柔らかい物腰だ。作家へのリスペクトさえ忘れなければ、解釈は自由である。同様に発表者へのリスペクトさえ忘れなければ、解釈は自由である。「相手の意見を尊重する」。闘争の場に似たものになりがちな議論の場に立ち合うことが多かった小生は肩透かしを食らったような気持ちだった。
ところが、今小生が身を置いている稽古場では「相手の意見を尊重する」に留まってはならない。何かを生みださなければならない。答えを導かなけばならない。日本には対話の言葉が必要だと繰り返し言っているのは、平田オリザである。彼の説明では、対話とは主張Aと主張Bが対立しているところに、合意=結論Cを形成するための営みである。ところが、これがほぼ幻想に近いことは一人でも他者と関わればわかってしまう。結局のところ、結論Cの内実は、主張Aと主張Bの発話者同士の力関係の和に過ぎない。そのようななかで強引に結論Cを生もうとすれば、最悪の事態になるか、議論以上に重要なことが忘れ去られることになる。
沖縄に行きたい A 北海道に行きたい B
→ 名古屋に行く結論 C1(誰も損をしないが、誰も得しない最悪の事態) → 両方行く結論 C2(ゆっくり休みたいという旅行の意義の放棄)
このような事態に陥らないためには、参加者が議論そのもの、対話そのものについて予め思考しておかなければならない。終わりなき争いの場にしてはならないが、お花畑でもいけない。相対主義=みんな違ってみんないいでもいけない。一つの、秩序立てられた解を導かなければならない。小生のように、ミニひろゆきと遭遇しやすい場にいると、議論のときどうしても身構えてしまうし、他者を蹂躙しなければ自分が蹂躙されるという強迫観念に駆られる。しかし、演劇になるとやはり傾向としては人文科学系の学部出身者が多くなってしまうから、「そういうのも面白くていいね」に安住してしまいがちである。一緒に考えてもらえそうにない、信頼関係を構築できない、情けない演出家に慣れてしまった俳優たちは、議論することを諦め、自らのうちに完結させてしまうこともあるかもしれない。場合によっては、コミュニケーション自体諦めてしまうこともあるだろう。
この諦めはかなり厄介だ。議論しつつ、コミュニケーションすることはかなりしんどい。双方に作法があるとは限らないし、作法があっても小生のような攻撃型と人文科学系によく見られた守備型のようにフォームが違うことがある。バイリンガルだと、言語によってもスタイルが変わることがあるようだ。「文化の違い」と表現すると、とても大きな構図の問題に聞こえるかもしれないけれども、実際には誰とだって文化の違いはある。友達が多い人と少ない人、両親健在の人とそうでない人、厳しい野球部に所属していた人と緩い野球部に所属していた人・・・・・・多様な環境要因が折り重なってその人のコミュニケーションのフォームを形成する。当たり前のことかもしれないが、議論するときに聞こえてくる言葉は、その人の人生のうちの氷山の一角でしかない。しかし、この途方もなさを認識し続けること、自覚し続けることは至難の業である。俳優だろうと、演出家だろうと、その氷山の一角を見ただけなのに、それが全てであると決めつけ錯覚する。あるいは、あまりに少ないその情報からできるはずもないのに人となりを推論し、彼/彼女はこういう人だと思い込む。議論すること、対話することとはとても危険で同時に魅力的な作業である。ところが、近年は魅力のほうばかりに注目して、その危険性に目を向けられていないような印象がある。人間はそもそもコミュニケーションなんかとりたくない。いちいち言葉で伝えなくても言いたいことが伝わる仲間内の「ハイコンテクスト」な場で、効率のいい、楽ちんな生活を送りたいのだ。そして、孤独な人間ほどよくしゃべるようになる。あるいは先ほど述べた、コミュニケーションを諦めてしまう人が現れる。「すべて自分で抱え込んじゃう人」である。それに加えて、「察するを愛する」日本的コミュニケーション文化だと、諦めた人が寡黙な職人的気質と誤解されることもある。これまでの演出家としての個人的な反省として、俳優同士の議論の場、コミュニケーションの場を作ることができてこなかったということがある。どれだけ小生が必死に俳優と向き合おうとも、俳優間でのやり取りができるような信頼関係がなければ、演出従属的な作品にしかならない。これまで、仮面をつけたり、全身黒いつなぎで統一したりと、「その作品でしか機能しない」形式を志向してきた。それは自然主義的でもリアリズムでもないために、何一つオブラートに包まない。演出の不備が即作品の不備になる。ごまかしがきかない表現方法をあえて採ってきた。絶対に俳優にも戯曲にも依存したくなかったからである。もちろん、俳優に何一つ助けてもらわなかったというわけではない。彼らは恐るべき存在である。小生が愚かにも見落としている点を、気もつかないうちに拾って回収し、作品に、表現に接続している。それでも、粗があれば誰が見てもすぐわかるように仕向けてきたつもりである。こんな若造が俳優たちにおんぶにだっこで甘やかされるべきではない。そして、この小生のイズムそのものに課題があることがわかった。俳優に依存しないと息巻いたところまではよかったが、稽古場で断ち切るべきではないものまで断ち切ってしまっていたかもしれない。縦横無尽に繰り広げられる盛んな議論。小生は俳優それぞれにしか目を向けておらず、俳優間の信頼関係を足掛かりに立ち上がるものの価値を見落としていた。
太田省吾は、沈黙劇の人だが、稽古場ではよくしゃべったらしい。しかし、喋っているのは太田省吾だけだったという(真実かどうかは定かではない)。この逸話の示唆に早く気がつくべきだった。当時の『水の駅』の身体に何かが決定的に欠けていると感じていた者はいたようだ。暗黒舞踏に感じられて、太田省吾にないもの。小生は、ファシリテート的な操作が必要であると感じた。今後も結局「言葉をやり取りする」作品をこれからも作り続けるだろう。たとえ台本通りだったとしても、発話されたセリフには発話者の身体の情報がこびりつく。物理世界で言葉や身体をやり取りしつつ、形而上の世界でも何らかのコミュニケーションを行う次元がある。その次元こそ舞台芸術の価値であり、その次元をどう観客に伝えるべきかを思案し、議論し、表現に結実させねばならない。それならば、このような高度なコミュニケーションを実現する前の段階、目に見える/耳に聞こえる段階でのコミュニケーションを積極的に行う必要がある。目に見える/耳に聞こえる段階での俳優間のコミュニケーションならなんとか促すことができる。演出不在の時間もとるべきである。議論の中で疑問を呈するとき、すでにセンスが試されている。なぜ?と問うた時点で、ほとんどのことが決定されてしまうといってよい。切り口がすべてである。議論は、気軽にできるものではない。そう言ってしまうと、恐れおののいて何も言うことができなくなる人もいるかもしれないが、その恐怖は演出家だろうと大ベテランの俳優だろうと、ともに抱えるべき恐怖である。稽古場でともにこれを乗り越えてこそ、ようやく強度ある表現が実現できる。それだけではない。小生の考えでは、助成金制度の整備に伴い、芸術にもアカウンタビリティが求められる時代になったために、議論・対話のさいには自身の主張を説明する能力が求められる。それができなければ、単なるワガママと区別がつかなくなってしまうからである。
話さなければならない。話すためには、言葉やコミュニケーションに通じていなければならない。稽古場で良いコミュニケーションができない集団が、発表の場で観客と良いコミュニケーションができるはずがない。 以上が、現段階での仮説である。稽古という実証実験のなかで、この仮説もまた変容を余儀なくされるだろう。運ゲーでなんとか乗り切るようなクリエイションはしたくない。稽古ではアレコレ事前に考えていたことがほとんど役に立たない。思いもよらなかった観点からの問い。つい先程まで浮かびもしなかった新しい着想。繰り返される同じ失敗。しかし、すべてが役に立たなかったわけではないということに希望を持っている。事前に立ち止まって考えておくことは重要だったし、これからも重視する。そしてまたうまく行かないことにめぐりあうけれども、だからといって考えるのをやめない。