【小説】感想『1Q84』~見えないものを信じること~
作品情報・あらすじ
作者:村上春樹
なお、ナカムラクニオ・道前宏子(2018)『村上春樹語辞典』によれば、『1Q84』は「総合小説」の系譜にある作品であり、同じモチーフを共有する作品に『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』がある、とのことだ。
あらすじ:
ごく簡単に言ってしまえば、十歳の頃の互いの記憶を胸に抱えた一組の男女が、1984年のもう一つの世界、二つの月が空に昇る「1Q84年」の世界に入り込み、再びめぐり逢おうとあがく物語である。
ここでは青豆と天吾の「信仰」をテーマに、作品の感想を述べたい。
青豆の信仰
連絡先も知らず、互いに顔を合わせることもなく二十年過ごしてきた二人である。そのような中で再会を夢見て生きるということは、今も相手が存在すること、そして今後この広い世界と短い人生の中でまた接触できるかもしれないこと、その限りなく奇跡に近い可能性を信じて疑わないということだ。作中ではただただ、青豆のひたむきで一途な思いに胸を打たれる。十歳のあの日、放課後の教室で、天吾と手を握り合った記憶。たったそれだけの出来事が、彼女にとっていかに大きなものであったのか。人はほんの数分数秒の交流を、しかし一生を生きる理由にできるほどの大切な思い出として、色あせないよう守り続けられるのだろうか。
再会できる確証などどこにもない。しかし、青豆はその可能性がわずかにでもあるのなら、それに賭けると決めた。これは一つの信仰とさえ言えるのではないか。可能性は目には見えず、存在するかどうかもわからない。しかし絶望的な状況の中で生きる理由にするほどに、青豆は強い希望をそこに見出した。
「信仰」や「宗教」は明らかにこの作品のキーワードである。大きな宗教団体の存在が物語全体に大きな影を投げかけているし、青豆は宗教によって幼少期とそれ以降のいわゆる「普通」の人生を失っている。それでもなお、彼女は信仰心を持ってしばしば神に祈りをささげている。
しかしここで取り上げたいのは、特定の宗教や対象に限定されない、見えないものを信じるという、より広い意味での信仰である。
天吾の信仰
天吾もまた青豆の存在と記憶を確かなものとして信じる。
もうそこにはない温もりだが、確かにあったものとして信じ、ともに生きていく。それはとても難しいことのように思う。
筆者個人も、自身が経験したはずのことさえ、真実かどうか疑ってしまうことがある。あるいは当時は事実だったかもしれないが、現在はもう事実として存在していないのではないかと、時の経過を理由に不変を信じることができなくなることがある。物体として目に見える形で存在しないのならなおさらだ。
〈希望=見えないもの〉を信じる
今ここにないもの、見えないものの存在を信じることは、現実からの逃避かもしれない。現実を直視できず、自分の見たいものを見ようとするような、無様で醜いありようかもしれない。しかし、喪失や絶望に苦しむ人間にとっては救いでもある。救いと言っても手放しで喜べるような救済ではない。信じる気持ちに疑念が入り込んでしまえば、骨が軋むほどに苦しくなるような、真っ暗闇の中にごく細く射し込む一筋の希望なのである。
確かなものがあると信じることができなければ、そこに向かう希望も意欲も生まれない。人生はいつでも、一寸先は闇の状態だ。それでも、自分の努力や過去に、未来につながるような意味があると信じたい。むしろそれを信じられないのなら、生きる希望や意欲をどうして抱けるだろう。不確かなことばかりの世界で、希望となる何かを信じて生きることの大切さを考えさせられる作品であった。
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