愛するということ
外は2.2℃
この寝室は22.1℃湿度46%
花粉のない、浄化されたこの上なく快適な空間で愛する家族の存在を感じながら布団に沈む
新しい住居はとにかく静かで、夜は些細な物音まで気にかかってしまう。空気清浄機が不浄な花粉を吸い上げる音、なっちゃんの規則正しく穏やかな寝息。
みかんさんへの愛と、なっちゃんへの愛は少しベクトルが違う。最近そんな気がしている。
自分にとってパートナーへの愛は、そっくりそのまま信頼と言い換える事ができるし、それは性愛とは全く別の領域にある。(別に性愛が不用とは思わないが)
信頼というのは、自分の心を丸裸にする事だ。
マジシャンなら相手からナイフを投げられ、
犬なら腹を見せて横たわり、
精神的にノーガードであれること。
これがみかんさんと自分との間の人間関係であり、その実は信頼であり、自分が愛し合っていると強く実感する部分。
元々他人として生まれた人間に対して、限りなく薄皮一枚ギリギリまで心と心を近づける事。生理的欲求の様な醜悪さが垣間見えるギリギリまで。さぁ首筋にナイフを突きつけて、一緒にワルツを踊ろ。
こんな事を成し遂げた相手は、これまでの人生でみかんさんの他に1人たりとも存在しなかった。
誰しも皆、他人との間に壁を作る事で「万が一」の衝撃に備えて予防線を張っている。
優しい嘘、なんてその最たるものだ。
今日初めて愛し合った君に、その色は似合わないよ だなんて、言えないよねきっと。
仮に性愛に何か意味を見出すなら、それは2人が心を極限まで近づける事を試す機会になり得るということだろう。ただ、この話をこれ以上展開する事はない。
自分はみかんさんを故意に傷つけようとする言動は取らないし、みかんさんも自分を故意に傷つけようとする言動は取らない。
これは絶対的に揺らがない世界の理。
何か、ざらりとしたものが残ったときには、コミュニケーションのミスか、体調が悪いとか疲れていて余裕がないか、そもそもの人としての考え方の違う部分が露呈したか そんな事を考えるだろう。
そもそもみかんさんの嫌いな部分?嫌な部分?あるのだろうか。嫌いとか、嫌だとか、そういう感情は許せない事という線引きで区分できそうだ。そういうものがあるかと問われれば、ないのだ。だから、好きな人の嫌な所をどう処すかという問いに自分は答えを持たない。
いや、そんなことはありえないだろう。
赤の他人同士が密接に絡み合って暮らしているのに、その個々人のボーダーラインが全て互いに許容範囲に収まるなどありえないことだ。
ここにはきっと未確認問題が眠っているし、その鍵はきっとこのノーガードの心にあると確信めいた気持ちがある。
なっちゃんへの愛は、確かな存在の流れをもって日常にあり、それが自分達を親へと誘う原動力となっている。みかんさんへの愛とは今のところ全く別のベクトルを持つ。2年のうちに激しく変化し、定まるところのない感情。咀嚼し、受け入れる事も出来ないまままた変化していく愛の様な何か。
そう、こんやも。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?