あなたが必要な理由。
戦前の小学校の国語の教科書に載せられていた
『小さなねぢ』というお話です。
暗い箱の中にしまい込まれていた
小さな鉄のねぢが、
不意にピンセットにはさまれて、
明るいところへ出された。
ねぢは驚いてあたりを見廻したが、
いろいろの物音、いろいろの物の形が
ごたごたと耳にはいり目にはいるばかりで、
何が何やらさっぱりわからなかった。
しかし、だんだん落着いて見ると、
ここは時計屋の店であることがわかった。
自分の置かれたのは、
仕事台の上に乗っている小さなガラスの中で、
そばには小さな心棒や歯車や
ぜんまいなどが並んでいる。
きりやねぢ廻しやピンセットや
小さな槌やさまざまの道具も、
同じ台の上に横たわっている。
周囲の壁やガラス戸棚には、
いろいろな時計がたくさん並んでいる。
カチカチと気ぜわしいのは置時計で、
かつたりかつたりと大きいのは柱時計である。
ねぢは、
これ等の道具や時計をあれこれと見比べて、
あれは何の役に立つのであろう、
これはどんな処に
置かれるのであろうなどと考えている中に、
ふと自分の身の上に考へ及んだ。
「自分は何という小さい情ない者であろう。
あのいろいろの道具、たくさんの時計、
形の大きさもそれぞれ違ってはいるが、
どれを見ても自分よりは大きく、
自分よりは偉そうである。
一かどの役目を勤めて世間の役に立つのに、
どれもこれも不足は無さそうである。
ただ自分だけがこのやうに小さくて、
何の役にも立ちそうにない。
何という情ない身の上であろう。」
不意にばたばたと音がして、
小さな子どもが二人奥からかけ出して来た。
男の子と女の子である。
二人はそこらを見廻していたが、
男の子はやがて仕事台の上の物を
あれこれといじり始めた。
女の子はただじっと見守っていたが、
やがてこの小さなねぢを見付けて、
「まあ、可愛いねぢ。」
男の子は指先でそれをつまもうとしたが、
余り小さいのでつまめなかった。
二度、三度。やっとつまんだと思うと
直に落としてしまつた。
子どもは思わず顔を見合わせ。
ねぢは仕事台の脚の陰に転がった。
この時、大きな咳払いが聞えて、
父の時計師が入って来た。
時計師は、
「ここで遊んではいけない。」
と言いながら仕事台の上を見て、
出して置いたねぢの無いのに気が付いた。
「ねぢが無い。
誰だ、仕事台の上をかき廻したのは。
ああいうねぢはもう無くなって、
あれ一つしか無いのだ。
あれが無いと町長さんの
懐中時計が直せない。探せ、探せ。」
ねぢはこれを聞いて、
飛上るように嬉しかった。
それでは自分のような小さな者でも
役に立つことがあるのかしらと、
夢中になって喜んだが、
このような処にころげ落ちてしまって、
もし見つからなかったらと、
それが又心配になって来た。
親子は総掛かりで探し始めた。
ねぢは「ここに居ます。」
と叫びたくてたまらないが、口がきけない。
三人はさんざん探し廻って
見付からないのでがっかりした。
ねぢもがっかりした。
その時、
今まで雲の中にいた太陽が顔を出したので、
日光が店いっぱいにさし込んで来た。
するとねぢがその光線を受けて
ぴかりと光った。
仕事台のそばに、
ふさぎこんで下を見つめていた
女の子がそれを見付けて、
思わず「あら。」と叫んだ。
父も喜んだ、子どもも喜んだ。
しかも一番喜んだのはねぢであった。
時計師は早速ピンセットで
ねぢをはさみ上げて、
大事そうにもとのふたガラスの中へ入れた。
そうして一つの懐中時計を出して
それをいじっていたが、
やがてピンセットでねぢをはさんで
機械の穴にさし込み、
小さなねぢ廻しでしっかりとしめた。
龍頭を廻すと、
今まで死んだようになつていた懐中時計が、
たちまち愉快そうに
カチカチと音を立て始めた。
ねぢは、自分が此処に位置を占めたために、
この時計全体が
再び活動することが出来たのだと思うと、
うれしくてうれしくてたまらなかった。
時計師は仕上げた時計を
ちょっと耳に当ててから、
ガラス戸棚の中につり下げた。
一日おいて町長さんが来た。
「時計は直りましたか。」
「直りました。
ねぢが一本痛んででいましたから、
取りかえて置きました。
具合の悪いのはその為でした。」
と言って渡した。
ねぢは、
「自分も本当に役に立っているのだ。」
と心から満足した。
このお話は明治時代~昭和初期に
小学校の教科書に載せられていたお話です。
このねじは小さな存在の自分が
一体何の役に立つのだろうかと
周りと比べて嘆いています。
しかし、
たった一つのこの小さいねじがなければ、
時計が動くことができませんでした。
その姿は、わたしたちの国、
日本に生きる一人一人の姿に重なります。
わたしたち一人一人も小さな存在ですが、
その一人が欠けることで、
全体が動かなくなってしまう
ことだってあります。
自分の価値は人と比較して
自分で決めるものではありません。
どんなに小さく、
何の役にも立っていないように思われても、
全体から見たときに
一人一人は、
大事な大事な存在なのだという人格教育が
昔の日本ではこのように成されていました。
個人主義を前面に出している
今の日本教育に足りないことを
教えてくれているように思います。
綺麗ごとではなく、
ひとりひとりがかけがえのない存在です。
その日本の素晴らしい人格教育を取り戻し、
美しい日本人精神を取り戻します。