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人をダメにする〇〇
「人をダメにするソファ」みんな知ってますよね?
細かいビーズがぎっしり詰め込まれた大きなクッションになっていて、自分の身体に合わせて形を変えてくれる。自分の望む体制を包み込んでくれる。柔らかく自分のコンフォートゾーンを守ってくれる。高校生の時これを買ったのだけれど、1週間使ってみてから友達にあげることにした。本当にソファから動く理由がなくなってしまって、ダメになってしまうことに危機感を感じたからだ。
当時は受験勉強の真っ只中で、勉強の効率をあげようと買うことにしたのだ。僕が思うに勉強というものは、考え続けるための思考体力も重要ではあるが、どちらかと言うと、考えるための姿勢をキープするためのフィジカルな意味での体力が重要になってくる。それが下支えして思考体力を養うのではないかと基本的には考えている。
受験勉強が立て込んでくると、毎日机に向かうことになる。毎日机に向かっていると段々と背中や腰が悲鳴を上げるまでのスパンが短くなってくる。慢性的な疲労が溜まってしまうことで、思考体力の余力はあるが、身体が先に疲れてしまって別のことをしてしまう。
これが勿体なく感じて、好きな姿勢をキープできるソファを買って、単語帳や教科書を読み続けようと考えたのだ。
体勢が楽になったことで、慢性的な疲労を抱えていた部分の負担を分散しながらインプットすることができたという意味では正解だったが、別の問題が浮上した。姿勢が快適になったことでインプットはやりやすくなったが、当然、問題を解くアウトプットの効率が劇的に下がる。というかほとんどできない。完全なトレードオフだ。
姿勢が快適になったことで別の問題も浮上した。これも当然と言えば当然だが、単純に眠くなる。詳しいことはわからないが、快適な体勢になることで副交感神経が優位になるのだろうか。
そんなこんなで色々と検証・検討した結果、受験勉強の補助を目的とした時に負の側面の方が強いと判断して、惜しみながらも強い気持ちでこれを手放すことにしたのだ。
「人をダメにするソファ」の事例から学んだことは、モノにはそのモノとしての固有の性質があり、そこに人がある程度適応する必要性がある(余白がある)方が結果的に、モノとして有用な場合が多いのかもしれないということだ。
黒川雅之氏は、著書『DESIGN PARADOX』で、「物のデザインとは違和感の設計なのである」と提起し、以下のようなことを述べている。
人間の肌のような感触のテーブルは気持ちいいだろうか?椅子が、まるで人間の膝のように暖かく馴染んでいたら気持ちいいだろうか?それも間違いである。道具や家具は人間への刺激であり、相違がいいのである。よくいう環境や道具との「一体感」や「融和感覚」はとんでもない間違いなのだ。
「人をダメにするソファ」のダメなところがあるとすると、人に迎合しすぎるところにあるのかもしれない。"休む"にしても"作業する"にしても、いずれの目的にせよ、モノというのはやはり人間が適応の必要性に迫られる余白があって然るべきなのかもしれない。
それと似た話で、
「付き合った人をことごとくダメ男(女)にする人」というのも存在するが、これも本質的には似たような構造なんじゃないだろうか。
相手の意向を汲み取り、それに応え続けることで、相手にとっての違和感を消し去り、自らが相手の感性に融和していくことで、どんどんその人の感性が歪なものになってくる。
何を言っても受け入れてもらえた実績が「どこまでわがままが許されるのだろう?」と普通の人間関係では口にしないような言葉を口にさせる。そういうことが繰り返されることで、本来在るべき人としてダメになってしまう。
「この商品は私に合ってる」「あの人と私は合ってる」などと言うことが多いように、あまり目を向けられないことではあるが、人とモノにしても、人と人にしても、適合することも当然重要であるが、適合しないことにより生じる違和感の設計というものが、主体と客体の関係の良し悪しを決める重要な要素だったりするのかもしれない。