「こだわりは人を小さくするからね」
洗濯が終わったら30分以内に干したい。湿ったままで置いておいて雑菌が繁殖するのが嫌だから。あと、脱水まで終わってギュッてなってる状態の洗濯物は一枚一枚「パンパン」ってやってからハンガーにかけたい。せっかく洗濯したのにシワになったら本末転倒だし、タオルは硬くなるから。
チノパンの裾に変なラインが入ってるやつとか、変なところにポケットがあるアウターとか、そういう実用性のない装飾がある服が嫌だ。同じ理由でTシャツは基本的に無地のものを着たい。スーツを着るならベルトと革靴の色は揃えたいし、ネクタイをするときはきちんとディンプルがついてないとみっともない。
ハンバーガーを食べるときはコーラを一緒に飲むって決まってるし、お好み焼きと白いご飯は絶対に一緒に食べない。缶コーヒーは保存料?の変な匂いがするから苦手だし、カップ焼きそばの"かやく"はフリーズドライの野菜が苦手だから、お湯を入れる前に捨ててしまう(ごめんなさい)
こういう「自分ルール」ってありますよね?
僕は大学を卒業するまで両親と住んでいたのだけれど、思春期の頃からこういう細かいルールが少しずつ、そして強固に確立されていった。そして、ひとり暮らしを始めた事でそのルールブックの厚みと厳格さは一気に増すことになった。
実家にいるとなんだかんだ言って両親に甘えてしまっている部分も多く、立場上文句を言うことが叶わないことがあるものだ(洗濯カゴに入れたTシャツがシワになって戻ってきても文句は言えない)。しかし、ひとり暮らしを始めるとそういった全ての物事の決裁者は自分になる。オペレーションマニュアルを自分で確立し、それを遂行する。
東京で働いていた僕は、長期休みを利用して数日間地元に帰ることにした。働き始めてから一度も帰っていなくて、およそ2年ぶりの実家だ。両親とは割とさっぱりとした関係だったので、久々に帰っても「あ、久しぶりー」くらいのノリかと思っていたら、想像以上に歓迎された。子供が家を離れるというのはやはり親にとっては寂しいものなのだろうか。実家で飼っている猫たちは一匹残らず僕のことを忘れていて、滞在期間中ずっと侵入者扱いされ続けた。僕がリビングに行くと慌てて二階に行くし、僕が二階に行くと彼らはリビングで寛いでいる。悲しい。
夕食の時間になると、前日くらいから下味をつけていた肉料理や、切ったり和えたりが面倒そうな前菜的なものなど、昔からしたら信じられないくらい凝った料理が出てきた。僕の母親は料理は下手ではないのだが、作ることが好きではないらしく、あまり凝ったものが食卓に並ぶことはなかった。食後に3種類くらいのフルーツがあって、アイスもお菓子もあったように覚えている。祖母の家でよく使用していた「そんなに食べないから」コマンドを実家で初めて使用した気がする。
掃除や洗濯など身の回りのことをしてもらうのも、実家にいたときは当たり前だったのに、ひとり暮らしを挟むと当たり前ではなくなり、そういうのって王様になった気分になる。ただ、人にやってもらうというのはオペレーションの決済権を相手に委ねるということだ。「自分ルール」を確立しつつあった僕は、「パンパン」されないまま干されたTシャツに少し首を傾げる。
3日目の朝、祖母の家に行くことになっていたので朝から用意していると、グレー地になぜかカラーにトリコロールがあしらわれたジャケットを父親が着ていた。僕は他人の装いにはほとんど興味がないし、それについて口を出すとロクなことがないことも知識として知っていたので、基本的には関知しないのだけれど、グレーにトリコロールの配色がなんだかおかしなものに見えたのと、父親が身内だったことからいつものルールから逸脱してしまった。
僕は、「そのカラーのトリコロールってなんの意味があるん?なんでそのジャケットを選んだん?」と父親に尋ねてみた。
「そんなこと気にしてなかったなあ。グレーのジャケット買ってきてってオカン(僕の母親であり、父の妻のことだ)に頼んだらこれを買ってきてくれただけやからなあ」とのこと。
僕の記憶する限り、我が家は取り立てて裕福というわけではなかったから、豪華な服を選んで買うということは誰もしていなかったが、少なくとも父親に関しては、買える範囲の服を主体的に選んで買っていたし、センスも悪くなかった気がする。その父親が誰かに服を買ってきてもらって、よくわからない意匠が施されたものを気にせず着ている事に驚いた。
「そんなよく分からん配色の服着たの見たことないで。昔はもうちょっとこだわってた気がするけど、どうでも良くなったん?」ともう一歩踏み込んでみた。
「こだわりかあ。確かにそういうのってなくなってきたかもしれん。」
「歳とったんちゃう?そういうのなくなったらつまらん人間になる気がするで。」と余計なことを言ってみる。そういうことを言えるのって今の僕だと限られた友人を除いては両親くらいしかいない。
「まあなぁ。でも、こだわりは自分の色出すのには悪くないけどな。一方でこだわりは人を小さくするからね。取扱注意やで。」
こだわりは人を小さくする。
こだわりは自分の人生を豊かにするものであり、アイデンティティを作る要素として考えていた。こだわりがあることで人生の豊かさを損なったり、人としての器を小さくするなんて考えたこともなかった。しかし、確かにそういうふうに言われてみると思い当たる節はある。
シワになったTシャツに少しムッとしたり、ディンプルをつけずにネクタイを結ぶビジネスマンをみると「スーツの着方をちゃんと調べたりしないのかな」と思う自分は確かに存在した。思い返してみると確かにそれは、紛れもなく不寛容の前兆であり、人としての器を小さくする思想だ。
BRUTUSとかPenに出てくるような、こだわりのルーティーンを持ったダンディなおじさんをかっこいいと思っていた僕は、東京で1人暮らしをしながらせっせとそういうこだわりをコレクションしていたのに、気付かないうちに不寛容という副作用に犯されていたみたいだ。
"こだわりは用法容量をよく守ってご利用ください"ということなのだろう。
かっこよく生きるって難しいなあ、というお話でした。