「行きつけたい」病
多くの人間が患っている病について、誰かがそろそろ語らねばならないのではないだろうか。そう、厚生労働省が指定難病に挙げようと動いているとか動いていないとかいう噂の「行きつけたい」病についてだ。
人間というものは、少し金を持つとほとんど必ずこの病を発症する。例えば、1,000円を気兼ねなく使えるようになると用もないのに喫茶店に行くし、3,000円だと居酒屋、5,000円だと洒落たバーに行きつけたりする。
人生のステージが変わると装いが変わるのとほぼ同じ感覚で、人はそれぞれの人生のステージに合わせて行きつけたくなる。クローゼットに気に入りの服を詰め込んでおき、TPOに合わせて装いを変えるように行きつける。
やっかいなことにこの病は金がかかる上に、一度発症するとほぼ一生治ることはなく、何とかうまく付き合っていくしかない。太ったり、場合によっては痛風になったり、散財したりする、紛れもない難病だ。
地方都市で育った僕の最初の行きつけは、高校生の頃、塾の近くにあったたこ焼き屋だった。昔懐かしいレトロなつくりの店内には漫画本やゲーム機が置いてあり、約3年ほど通っていたのにほとんど喋った事のない無愛想な店主が毎日毎日たこ焼きを焼いていた。それがありえないほど美味しくて、当時の僕が抱いていたたこ焼きの概念をひっくり返された。学校が近くにあったわけでもないし、閑静な住宅街に隠れるようにひっそりと佇んでいたおかげで通っている学生などもほとんどおらず、仲の良い友達やその近くのコミュニティの人間だけが知っているお店だった。初めての「行きつけ」に相応しい、ひっそりと佇み、知る人ぞ知る、最高のたこ焼きを出すこの店のせいで僕は病を発症した。
ちなみに、僕の指す「行きつけ」というのは、多くの人がイメージする店主と仲良くなってコミュニケーションしながら飲み食いできるようなインタラクティブなものではなく、自分が好きで通っていることをラベリングしておくというもっと一方的で象徴的なものだ。
社会人になって東京に住み、たくさんの店を知った。
恵比寿駅から10分歩いたところにある小料理屋は女将が気さくで美しくて通い詰めたが、ひょんなことから同業者の旦那がいることを知り、勝手にバツが悪くなって行かなくなってしまった。勝手に行きつけ認定しておきながら、勝手に来なくなるなんて、本当に一方的で勝手だなあと我ながら思う。東京に来たばかりの当時の寂しかった僕は、そんな些細な出来事でさえショックだったのだろう。日替わりの夜定食を1,500円で出してくれる最高の店だった。あの女将さん元気かなあ。
マーケ業界の重鎮が連日連夜集まる『八百長BAR』は、大昔に先輩に連れてきてもらって以来、たまにお邪魔するようになった。西麻布の雑居ビルの中にあるという隠れ家感は今でも地方から出てきた自分の気持ちを高揚させる。高いスーツに袖を通したときのパリッとした感じや社会にとって少し重要な人間になったような、そんな感覚になる。装いとしての「行きつけ」とでもいうべきだろうか。そんなことを感じているようじゃ、本来は「行きつけ」とは言えないかもしれないけれど、一歩的で象徴的な意味合いでいうと僕にとっては重要な「行きつけ」だったりする。重要な人たちがいっぱいいる場所なんだから人生の先輩たちにありがたいお話を聞くチャンスなのだけれど、毎回3軒目とか4軒目とか、アルコールが血液でサーフィンし、体内を全力疾走している時にいくので重要な話はほとんど覚えていない。いつも翌朝手元の名刺を見て、こんなすごい人と一体何を話したんだっけと首を捻る。アルコールが体内をサーフィンしている昨夜の僕は、社交の場でうまくやっていたのだろうか。
随分前、下北沢に住んでいたときは、しょっちゅう『都夏』と『ととしぐれ』に通っていた。住む場所も変わってしまい、最近はめっきり行かなくなってしまったけれど、あそこは本当に大好きな店だった。ザ・居酒屋メシをジョッキの生ビールとともに夜な夜な胃袋に注ぎ込む、あのジャンキーな快楽を貪るようになってからが中年太りの始まりだと思う。そういえば、家の近所だったからか、あの一帯には心底好きな友達や先輩/後輩としか足を踏み入れていない。好きな人と来ていたから好きな店なのかもしれないし、好きな店だから好きな人としか行かないのかもしれない。懐かしい友達を連れてしこたま飲み食いしに行きたいものだ。
少なくない金を吸い取られているし、健康被害だって被っているのだけれど、「行きつけ」を考えることで、少し懐かしく、いい気分になってきたのはどうしてだろう。近頃は、ふらっと立ち寄った店に入るなんてことも少なくなってしまって、全然「行きつけ」られていないなあ。万が一この病が治ってしまうなんてことがあったら、残りの人生がとても健康的で味気ないものになってしまうだろう。そんな健康的な毎日は、ある意味コロナ禍よりもずっと悲惨なんじゃないかなと思うなどする。
「行きつけたい」病、しばらくは完治しなさそうで少しだけ安心した。