家族と国家は共謀する
一昨日何となく朝のテレビをつけると、山田洋二監督がインタビューされてるのが映っていました。なんだか、新作映画を作るのでどうやらそのプロモーションみたいです。NHKで。
そこで例によって「今の人は忘れてしまった下町の人情」について話してました。昔は良かったそうです。
私は「昔は良かった」とか思ったことは一度たりともありません。今の方が良いに決まってるやん!とか思います。
山田さんという爺さんは、「自分が良かった時代」が誰かにとって酷い時代だったことに全く気付いていません。その感性のなさからしても、ずいぶん前からもう「家族」を描く作家としては終わってるんじゃないかと思います。
「家族と国家は共謀する」(角川新書 信田さよ子著)
というから、私はてっきり今の自民党の旧統一教会とか、日本会議とかの宗教右派な話かと思ってしまいました。
どうもそんな話ではないみたいでした。信田さんは臨床心理士で長年にわたってカウンセリングをしてきた人ですが、その相談に来た人たちの困難の原因を探る作業をしてらっしゃるようです。
その中で、家族間の暴力(身体的ばかりでなく精神的にも)について、例えばそれがもし「家族」でなければ間違いなく「犯罪」となることを家族間でなされる場合、犯罪として告発できない状況が長らく(今でも)続いている、と指摘しています。
児童に対する暴力は、だれもが「暴力」と認めるし、そこに対立はありません。一方でその暴力が「成人女性」に向かう場合、その女性の「自己責任」を問われる場合が少なくありません。
関係性が「非対称」なら、つまり強弱があるならそれは明らかに「暴力」なのに、しばしば加害男性のみならず、被害女性自身も「その原因は自分にある」と思う場合が少なくないと。
(被害男性もいるだろう、とかいう人が時々居ますが、現実的には圧倒的に力の弱い女性が被害を受けています)
ところで、私個人のことを言えば、カウンセリングの学習会に1年くらい通ったことがありました。
心理学を学んだり、スーパーヴィジョンを受けたりするんですけど、そこでは常に「共感」が一番大切である。とか教えられました。とにかく、人々の話を傾聴して、それに共感していくことが重要だ。という風に。
まあ、確かに生半可な素人が個人的な考えを人にアドバイスをしたところで、ろくな結果にならないし、言わないほうがマシだ。てな考えはわかります。しかし、一方で、たぶんこれって「話をする人」にとってはただの「気休め」だし、何の解決にも向かわないだろうとは思いました。
本に戻ると、副題に「サバイバルからレジスタンスへ」とあります。例えば何等かの暴力を受けてるのであれば、自分自身で「自分は被害を受けている」と自覚しろと、それが「レジスタンス」の始まりであると。
時に「暴力」を受けていても、それを暴力と自覚しないで「自分が悪かったから」とか「そうされて当然だった」とか考えて被害者自身が暴力を肯定する場合がありますが、そうして内包された「暴力」は時としてトラウマの神経症状となってしまうことがあります。
「内包」するのではなくて「自覚」せよ。自覚して抵抗せよ、ということだそうです。
それにしても「傾聴」の無力感からすると、これは本当に力強いと思いました。しかも、「被害者」ばっかりをいくら「治療」したところで、問題の解決にはならない。っていうのも。
そもそも「加害」がなければ「被害」もないのだから、加害者を治療せよと。
日本って「家族に乾杯」とか「こども家庭庁」とかやってる国ですけど、要するに色んな不都合に目をつむり、昔は良かった人情があって。とかやってるクソジジイが幅を利かせる国なんだよなあ~とかつくづく思いました。
どうにかならんのか!
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