Ain't Nothing Like THIS Real Thing-ABC

※ 20240829ver.

※ 本件はカバー曲ではありません(そもそも音楽案件ではありません)。

※ 邦題「自我持参/自画自賛」

※ 初出:
「Ain’t Nothing Like This REAL THING–ABC」
(The Shynamites' blog "the_shynamic_memorial_worx", 2009/03/29, 改訂2009/4/20-21)


[F mix]

※ 引用符なし出典なし

(1) LineAlpha: One extreme line of 《ABC》

昨日の省察から壮大な疑いの数々のなかへぶち込まれつつ推測のようなことまでさせられている私は、
もはやそうした諸々の疑いを忘れることなどできそうにないし、
奥底に足を据えることさえもできそうにない。

昨日私が立ち入ってしまった途以外には、もしかしたらほかに何もないかもしれない、
と私は認識することになるだろうが、
希望され得ることもまた大きいのである。
私の想定するかぎり、すべてのものは偽である、と私は見ているのであって、
物体や身体も、そして場所も、キマイラじみた幻であり、
何も確実ではないのである。
ところで、ここに挙げたすべてのものとは別個のものとして存在するものは何もない、ということを、
どこからともなく知っている私が、
それらについて疑う機会というものは、じつにきわめて僅かとはいえ、有るには有るのではないか。
これらを思惟そのものとして私に送り込んでいるのが誰なのかはともかく、
ああいう思惟のような考えやら思いやらを作って促す者自身がおのずと存在するというのであれば、
それくらいのことならおそらく私にもできるのではないか。
いかなる身体も物体もなしで居るようなだって、私にはできるはずではないか。

しかし精神も何もないとか何とかを私に対して説得したり納得させたりしたのが、そして、そのせいで信じ込んだのが、
もし私自身なのだとしたら、
そのように引っ掛けて誑かす者が居るのであって、それが誰なのか私は知らないが、少なくとも狡くて巧妙たる点では最高なのだから、
そいつが欺いて誤らせることなどいくらでもできるはずだ。

そうすると最後に、宣言なり予報なりされて定まるべきなのは、このことであるはずだ。
すなわち、精神でもって把握される、というのが必然的に真なのである。

(2) LineBeta: The moderate line of 《ABC》

昨日の省察から壮大な疑いの数々のなかへぶち込まれつつ推測のようなことまでさせられたのは、私である。
にも拘わらず、それらの疑いがいかなる根拠でもって解かれ得るのか、
それを見るのは、もしかしたら私ではないのかもしれないし、
たとえどんな理由であれ、そうした疑いは解かれ得るはずだが、
やはりそれが私には見えそうにない。

こうして動転していたのが私であり、
それでもやはり再び私が力ずくで立ち向かうべく試みようとするのが、この途だ。少しでさえも疑いを許容するものについてはすべてさっぱり取り除くことによって、
そして何かが確実になるまで、
さらに私は前進するだろう。

とはいえ確実であることは何もない。
というより、何もない、というのが、むしろ確実なことである。
それこそもしアルキメデスか誰かしらが捜し求めていたはずの地点がもしなければ、何もない場所から土地や地域全体を退かしていたの如くになるはずだ。
たとえ少しでも何かを私は見いだしたことになるだろうが、もしそうだとしても、
私の想定するかぎりで、すべてのものについては、
私にしてみれば、まったく何の感覚も何の意味ももっていないし、何も平易には感じない。
たかが形が動きだしたところで......

それだったらいったい何が真なのであろうか。

ところで、ここに挙げたすべてのものとは別個のものとして存在するものは何もない、ということを、
どこからともなく知っているのが私だ、
となると、
神だか何だかはともかく、何かしらが存在するのか。
それならば、この私自身だか誰だかはともかく、少なくとも誰かしらが私として存在しているのか。
私のもっているのが感覚や意味や感じとしていかなるものであっても、私は何かを感じているのであって、
やはり固執するのが、私だし、
こうして身体やら物体やら感覚やらに縛られてきたのが私である......ということですよね。
なるほど世界には何もないほうが平易である、ということを私に対して説得したり納得させたりしたのも、そのせいで信じ込んだのも、
私自身だが、
何もないはずの土地や地域に、そして何もないはずの物体や身体に、
居たのはこの私自身だ、というのがむしろ確実である。
そんな私の知らない誰かが引っ掛けて誑かす者として存在していて、
そいつが私を欺いて誤らせるときは常に虎視眈々としているが、
もしそいつが欺いてきても、私のことをそいつが作りだすことは、やはり決してないだろう。

そうすると、あらゆることで充分すぎるくらいにあなたがたの重んじるのは、
すなわち、存在しているのがこの私だ、ということであり、
私によって運用される度に、
真なるものは、必然的に存在する、ということになる。

(3) LineGamma: The other extreme line of 《ABC》

昨日の省察から壮大な疑いの数々のなかへぶち込まれつつ推測のようなことまでさせられている私は、
予期せぬことからあたかも渦の深みへ滑り落ちてしまったかのようだし、
泳いで逃げる先は頂点ではないようだ。

ところで、もしかすると凡そ偽であるかもしれない、ということを、
私は確認したことがあって、
それ以外には別に何もないならば、
少なくともこのことそのものは確実となる目前であり、
堅固で不動であったはずだし、
確実で揺るぎなきことであるはずだ。

私の想定するかぎりでのすべてのものについては、
如何わしい記憶が表象して再現するところのもののうちで、かつて実在したことのあるものは何もないのであって、
そのように私が信じるかぎりで延長しているという、
おそらくこのこと一つとなる。
ここで延長ということだけで挙げられたすべてのこととは別個のものとして存在するものは何もない、ということを、
どこからともなく私は知っているとはいえ、
たった今それらを延長として再び挙げた私が、今からどんな名称であの神とやら何とやらを呼ぶにせよ、
じつに、どうしてなのかはともかく、どうしても思惟の送り主のことを私は思い込むはずだ。

しかし今さら私が否定したところで、だから何なのか。
というのも、何もないはずの天空に居るのだったら、それはもはや私でさえもない...…ということではないのですかね、
というように引っ掛けて誑かす者が居るのであって、それが誰なのか私は知らないが、
なるほど有能たる点では最高だ。
しかしそれだったら、この私自身が存在することも、疑わしくなりようがない。
たとえ、あたかも何もないかの如き私であるにしても、
何者かが私として存在する、
ということをいつまでも思惟したり考えたり思ったりするのは私だろう。

そうすると、
実在するのはこの私であり、
真なるものが存在するのは、必然的だ。

produced by K.masamix as the SHYNAMITES.
(ダーシャイノマイ/謝意乃舞 謹製)

#デカルト #省察 #第二省察

[凡例]

※ 引用・参考文献

Med.:Meditationes de Prima Philosophia.(AT.VII)(『省察』)
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

[SB mix]

※ 引用符なし出典あり

(1) LineAlpha: One extreme line of 《ABC》

昨日の省察から壮大な疑いの数々のなかへぶち込まれつつ推測のようなことまでさせられている私は(2.A101:AT.VII,23.22-23)、
もはやそうした諸々の疑いを忘れることなどできそうにないし(2.A102:AT.VII,23.23)、
奥底に足を据えることさえもできそうにない(2.A106:AT.VII,24.02)。

昨日私が立ち入ってしまった途以外には(2.A202:AT.VII,24.04)、
もしかしたらほかに何もないかもしれない(2.A206:AT.VII,24.08)、
と私は認識することになるだろうが(2.A209:AT.VII,24.09)、
希望され得ることもまた大きいのである(2.A304:AT.VII,24.11)。
私の想定するかぎり、すべてのものは(2.B101:AT.VII,24.14)偽である、
と私は見ているのであって(2.B102:AT.VII,24.14)、
物体や身体も(2.B105:AT.VII,24.16)、そして場所も、キマイラじみた幻であり(2.B109:AT.VII,24.17)、
何も確実ではないのである(2.B302:AT.VII,24.18)。
ところで、ここに挙げたすべてのものとは別個のものとして存在するものは何もない、ということを、
どこからともなく知っている私が(2.C101:AT.VII,24.19)、
それらについて疑う機会というものは、じつにきわめて僅かとはいえ、有るには有るのではないか(2.C103:AT.VII,24.20-21)。
これらを思惟そのものとして私に送り込んでいるのが誰なのかはともかく(2.C213:AT.VII,24.22-23)、
ああいう思惟のような考えやら思いやらを作って促す者自身がおのずと存在するというのであれば、それくらいのことならおそらく私にもできるのではないか(2.C222:AT.VII,24.23-24)、
いかなる身体も物体も(2.C323:AT.VII,24.26)なしで居るようなだって、私にはできるはずではないか(2.C422:AT.VII,25.01-02)。

しかし精神も何もないとか(2.C434:AT.VII,25.03-04)何とかを私に対して説得したり納得させたりしたのが、そして、そのせいで信じ込んだのが、もし私自身なのだとしたら(2.C502:AT.VII,25.05)、
そのように引っ掛けて誑かす者が居るのであって、それが誰なのか私は知らないが(2.C601:AT.VII,25.05-06)、少なくとも狡くて巧妙たる点では最高なのだから(2.C603:AT.VII,25.06-07)、
そいつが欺いて誤らせることなどいくらでもできるはずだ(2.C703:AT.VII,25.08-09)。

そうすると(2.C801:AT.VII,25.10)最後に、宣言なり予報なりされて定まるべきなのは、このことであるはずだ(2.C803:AT.VII,25.11-12)。
すなわち、精神でもって把握される、というのが(2.C807:AT.VII,25.13)必然的に真なのである(2.C808:AT.VII,25.13)。

(2) LineBeta: The moderate line of 《ABC》

昨日の省察から壮大な疑いの数々のなかへぶち込まれつつ推測のようなことまでさせられたのは、私である(2.A101:AT.VII,23.22-23)。
にも拘わらず、それらの疑いがいかなる根拠でもって解かれ得るのか、
それを見るのは、もしかしたら私ではないのかもしれないし、
たとえどんな理由であれ、そうした疑いは解かれ得るはずだが、
やはりそれが私には見えそうにない(2.A103:AT.VII,23.23-24)。

こうして動転していたのが私であり(2.A105:AT.VII,24.01-02)、
それでもやはり再び私が力ずくで立ち向かうべく試みようとするのが、この途だ(2.A201:AT.VII,24.03-04)。
少しでさえも疑いを許容するものについてはすべてさっぱり取り除くことによって(2.A203:AT.VII,24.04-06)、
そして何かが確実になるまで、さらに私は前進するだろう(2.A205:AT.VII,24.07)。

とはいえ確実であることは何もない(2.A208:AT.VII,24.08-09)。というより、何もない、というのが、むしろ確実なことである(ibid.)。
それこそもしアルキメデスか誰かしらが捜し求めていたはずの地点がもしなければ、何もない(2.A301:AT.VII,24.09-10)場所から土地や地域全体を退かしていたの如くになるはずだ(2.A303:AT.VII,24.10-11)。
たとえ少しでも何かを私は見いだしたことになるだろうが、
もしそうだとしても(2.A305:AT.VII,24.12)、
私の想定するかぎりで、すべてのものについては(2.B101:AT.VII,24.14)、
私にしてみれば、まったく何の感覚も何の意味ももっていないし、何も平易には感じない(2.B104:AT.VII,24.16)。
たかが形が(2.B106:AT.VII,24.16-17)動きだしたところで(2.B108:AT.VII,24.17)......

それだったらいったい何が真なのであろうか(2.B200:AT.VII,24.17-18)。

ところで、ここに挙げたすべてのものとは別個のものとして存在するものは何もない、ということを、
どこからともなく知っているのが私だ、となると(2.C101:AT.VII,24.19)、
神だか何だかはともかく、何かしらが存在するのか(2.C211:AT.VII,24.21)。
それならば、この私自身だか誰だかはともかく、少なくとも誰かしらが私として存在しているのか(2.C311:AT.VII,24.24-25)。
私のもっているのが感覚や意味や感じとしていかなるものであっても、私は何かを感じているのであって(2.C322:AT.VII,24.25-26)、
やはり固執するのが、私だし(2.C411:AT.VII,24.26)、
こうして身体やら物体やら感覚やらに縛られてきたのが私である......ということですよね(2.C421:AT.VII,25.01)。
なるほど世界には何もないほうが平易である、ということを私に対して説得したり納得させたりしたのも、そのせいで信じ込んだのも、
私自身だが(2.C431:AT.VII,25.02-03)、
何もないはずの土地や地域に(2.C433:AT.VII,25.03)、そして何もないはずの物体や身体に(2.C435:AT.VII,25.04)、
居たのはこの私自身だ、というのがむしろ確実である(2.C501:AT.VII,25.05)。
そんな私の知らない誰かが引っ掛けて誑かす者として存在していて(2.C601:AT.VII,25.05-06)、
そいつが私を欺いて誤らせるときは常に虎視眈々としているが(2.C604:AT.VII,25.07)、
もしそいつが欺いてきても、私のことを(2.C702:AT.VII,25.08)そいつが作りだすことは、やはり決してないだろう(2.C704:AT.VII,25.09)。

そうすると(2.C801:AT.VII,25.10)、あらゆることで充分すぎるくらいにあなたがたの重んじるのは(2.C802:AT.VII,25.10-11)、
すなわち、存在しているのがこの私だ、ということであり(2.C804:AT.VII,25.12)、
私によって運用される度に(2.C806:AT.VII,25.12)、
真なるものは、必然的に存在する、ということになる(2.C808:AT.VII,25.13)。

(3) LineGamma: The other extreme line of 《ABC》

昨日の省察から壮大な疑いの数々のなかへぶち込まれつつ推測のようなことまでさせられている私は(2.A101:AT.VII,23.22-23)、
予期せぬことからあたかも渦の深みへ滑り落ちてしまったかのようだし(2.A104:AT.VII,23.24-24.01)、
泳いで逃げる先は頂点ではないようだ(2.A107:AT.VII,24.02-03)。

ところで、もしかすると凡そ偽であるかもしれない、ということを、私は確認したことがあって、
それ以外には別に何もないならば(2.A204:AT.VII,24.06-07)、
少なくともこのことそのものは確実となる目前であり(2.A207:AT.VII,24.08)、
堅固で不動であったはずだし(2.A302:AT.VII,24.10)、
確実で揺るぎなきことであるはずだ(2.A306:AT.VII,24.12-13)。

私の想定するかぎりでのすべてのものについては(2.B101:AT.VII,24.14)、
如何わしい記憶が表象して再現するところのもののうちで、かつて実在したことのあるものは何もないのであって、
そのように私が信じるかぎりで(2.B103:AT.VII,24.14-16)延長しているという(2.B107:AT.VII,24.17)、
おそらくこのこと一つとなる(2.B301:AT.VII,24.18)。
ここで延長ということだけで挙げられたすべてのこととは別個のものとして存在するものは何もない、ということを、
どこからともなく私は知っているとはいえ(2.C101:AT.VII,24.19)、
たった今それらを延長として再び挙げた私が、今から(2.C102:AT.VII,24.20)どんな名称であの神とやら何とやらを呼ぶにせよ(2.C212:AT.VII,24.21-22)、
じつに、どうしてなのかはともかく、どうしても思惟の送り主のことを私は思い込むはずだ(2.C221:AT.VII,24.23)。

しかし今さら私が否定したところで(2.C321:AT.VII,24.25)、だから何なのか(2.C412:AT.VII,24.26-25.01)。
というのも、何もないはずの天空に(2.C432:AT.VII,25.03)居るのだったら、それはもはや私でさえもない......ということではないのですかね(2.C436:AT.VII,25.04-05)、
というように引っ掛けて誑かす者が居るのであって、それが誰なのか私は知らないが(2.C601:AT.VII,25.05-06)、なるほど有能たる点では最高だ(2.C602:AT.VII,25.06)。
しかしそれだったら、この私自身が存在することも、疑わしくなりようがない(2.C701:AT.VII,25.07-08)。
たとえ、あたかも何もないかの如き私であるにしても、
何者かが私として存在する、ということをいつまでも思惟したり考えたり思ったりするのは私だろう(2.C705:AT.VII,25.09-10)。

そうすると(2.C801:AT.VII,25.10)、実在するのはこの私であり(2.C805:AT.VII,25.12)、
真なるものが存在するのは、必然的だ(2.C808:AT.VII,25.13)。

produced by K.masamix as the SHYNAMITES.
(ダーシャイノマイ/謝意乃舞 謹製)

[HPML mix]

※ 引用符あり出典あり

(1) LineAlpha: One extreme line of 《ABC》

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