DM1.F

※ 20220905ver.

[F mix]

(1) One extreme line of 《F》-LineAlpha-
私の幼少期から養われてきたのは、私にとっては、教養として身につけられた人文学、というよりむしろ、素養として積まれた文字列であった。
べつに誰とは謂わないが、そんな私を説得していたくらいだから、
なまじ慣習やら習慣やら習わしが有るせいで、末には学者たちの序列だか地位だかに受け容れられているにすぎない者が、誰からともなく、私を教え込むべく努めているうちに、それでも私の居た学校は、欧州でも極めて称賛されたうちの一つになっていたようだ。
ところで他の人たちがその学校で習得していたもののすべてを、その学校において、とっくの昔に習得してしまっていたのが私だ。
なにせ私が走査して読破してしまっていたあらゆる書物については、誰かがそうした書物を見積もるところによれば、極めて奇妙で極めて稀なのだそうだが、私でもそれらの書物を取り扱いながら入手できたどころか、そうした書物は私の手中に陥ることもあり得てしまっていた。
それはともかく、既に学友のあいだに、そうした他人からの判断として有ったところによれば、若干名については、我々の師匠という席なり立場なりを埋め尽くすべく、誰かしらがそうした若干名の学生を運命づけていたという。
そうしたことが私に捉えさせていたところによれば、自由になっているというか、解放されているのは、あくまでデカルトをとおして判断することからなのであって、他の皆についても、私をとおして判断することにする。

(2) The moderate line of 《F》-LineBeta-
私の幼少期から養われてきたのは、私にとっては、教養として身につけられた人文学、というよりむしろ、素養として積まれた文字列であったが、
それは、その生活に有益であり、その生涯で有効であり、その生命に有用であるかぎりのものすべてについての文字列である。
学業のこうした講座なり課程なりのすべてを早々に修了してしまったのは私だし、修了するや否や、全面的に意見を変えたのも私だ。
どうやら私にとっては、遣ったことの有るのは有益たることにほかならないとされていた、ということだ。
そうでなければ、とっくの昔に私の疎さを、どんどん私自身が発見して暴露してしまっていた。
但し、有識者なる人間については、何処かしらに居場所が有るはずだった、ということを、私は考えたり思ったりしていたし、同じく、
今述べたそうしたこととともに、他の方々が私について為していたところの諸々の判断を、私は知っていたのであって、
誰かしらが運命づけていたせいで、若干名の学生が、我々の師匠という席なり立場なりを埋め尽くすことになっていた。
とはいえ吾らが今世紀も、やはり私にしてみれば、どうやら華やかに興りつつあるのも同じらしいし、肥えて精神なり才気なり気質なりが良くなるのも同じらしい、とされていた。そして、ついに、そうしたことが私に捉えさせていたところによれば、自由になっているというか、解放されているのは、誰からともなく予め私に望んだり願ったりさせてしまってきたところのものからなのである。

(3) The other extreme line of 《F》 -LineGamma-
私の幼少期から養われてきたのは、私にとっては、教養として身につけられた人文学、というよりむしろ、素養として積まれた文字列であった。
文字列というそうした手段によって誰でも獲得できていたような認識なり認知なりであれば、そのうちの一つくらいは、明晰で保証されたものだろう、ということで、
人文学や文字列を習得することについて私のもっていた欲望は、或る意味で極端なものになっていた。
私の見いだしていたかぎりでは、ただでさえ私としては、あまりの疑り[うたぐり]と誤りだか過ちだかとで惑わされて辱められたようなものだから、
ましてや、有識者なる人間として地上の何処かに、どんな位置で有り続けていたかどうか、それはともかく、
諸々の学問だか知恵だかについては、私には充足させられないまま、誰かしらがそうした学問だか知恵だかを我々には教示していたし、私には少しも見えずにいたとはいえ、誰かしらが私のことを、私の学友たちに比べて劣位な者として見積もっていたはずなのであって、それもそのはず、
我々の師匠という席なり立場なりを埋め尽くすべく、誰かしらが若干名の学生を運命づけていたのである。
それでも、従来に存在してきたはずのいかなる先例よりも自由になっているというか、解放されている、と私に捉えさせていたのは、以上のそうしたことであり、
そしてどんな教義や教理や学説や主義も、世間に有り続けたからには、嘗てのあんな教えのままで在ったはずはない、ということを考えたり思ったりするようにもなった。

produced by K.masamix "KIXAN" as the SHYNAMITES.
(ダーシャイノマイ/謝意乃舞 謹製)

[引用・参考文献]

DM.:Discours de la Methode.(AT.VI)(『方法叙説』)
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

[SB mix]

(1) One extreme line of 《F》-LineAlpha-
私の幼少期から養われてきたのは、私にとっては、教養として身につけられた人文学、というよりむしろ、素養として積まれた文字列であった(1.F101:AT.VI,4.21)。
べつに誰とは謂わないが、そんな私を説得していたくらいだから(1.F102:AT.VI,4.21-22)、
なまじ慣習やら習慣やら習わしが有るせいで、末には学者たちの序列だか地位だかに受け容れられているにすぎない者が、誰からともなく(1.F202:AT.VI,4.26)、私を教え込むべく努めているうちに(1.F303:AT.VI,4.30)、それでも私の居た学校は、欧州でも極めて称賛されたうちの一つになっていた(1.F401:AT.VI,4.31-5.01)ようだ。
ところで他の人たちがその学校で習得していたもののすべてを、その学校において、とっくの昔に習得してしまっていたのが私だ(1.F501:AT.VI,5.03-04)。
なにせ私が走査して読破してしまっていたあらゆる書物については、誰かがそうした書物を見積もるところによれば、極めて奇妙で極めて稀なのだそうだが、私でもそれらの書物を取り扱いながら入手できたどころか、そうした書物は私の手中に陥ることもあり得てしまっていた(1.F504:AT.VI,5.06-08)。
それはともかく、既に学友のあいだに、そうした他人からの判断として有ったところによれば、若干名(1.F603:AT.VI,5.11-12)については、我々の師匠という席なり立場なりを埋め尽くすべく、誰かしらがそうした若干名の学生を運命づけていた(1.F604:AT.VI,5.12-13)という。
そうしたことが私に捉えさせていたところによれば、自由になっているというか、解放されているのは(1.F801:AT.VI,5.15-16)、あくまでデカルトをとおして判断することからなのであって、他の皆についても、私をとおして判断することにする(1.F802:AT.VI,5.16)。

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