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二つの絶望 ミステリ好きこそ気づかない鮮やかなどんでん返し 夕木春央『方舟』書評

巷で話題の『方舟』があまりにも話題なので、読むつもりはなかったが手に取ってみた。
すると驚いた。間違いなく今年一番のどんでん返し。思わず感想記事を書きたくなっちゃうほどの。2年ぶりのnote更新を決意させた夕木春央『方舟』を解説する。

あらすじ
9人のうち、死んでもいいのは、ーー死ぬべきなのは誰か?
大学時代の友達と従兄と一緒に山奥の地下建築を訪れた柊一は、偶然出会った三人家族とともに地下建築の中で夜を越すことになった。
翌日の明け方、地震が発生し、扉が岩でふさがれた。さらに地盤に異変が起き、水が流入しはじめた。いずれ地下建築は水没する。
そんな矢先に殺人が起こった。
だれか一人を犠牲にすれば脱出できる。生贄には、その犯人がなるべきだ。ーー犯人以外の全員が、そう思った。
タイムリミットまでおよそ1週間。それまでに、僕らは殺人犯を見つけなければならない。(講談社HPより)

この本を読んでいる最中、極限状態で一人を選ぶという構造は見覚えがあるなと感じた。記憶を探れば、ああそうだ。去年の話題作、浅倉秋成『6人の嘘つきな大学生』だ。あちらは就職試験の最終段階、ただ一人の合格者(生き残り)を決めろというストーリーだった。こちらはただ一人「犠牲者」を選ぶ作品。この一年で真逆のシチュエーションの物語がヒットするとはなんと皮肉なことか。

 そして読み終わって改めて感じた。これはあらゆる意味で『6人』と真逆の作品なのだ。『6人』の(これもネタバレになるが)テーマは人間賛歌だった。作者の幻想的ともいえるほどの性善説は読んでいる私を苦笑させるほどだったが、あまりのすがすがしさにこちらも希望を持てる作品だった。

 『方舟』は真逆。自分が生き残るために何でもしてやる。その執念には恐ろしさを超えておぞましさを感じるほどの強い感情で、ページを繰る指が震える。しかし2作を比べると登場人物に共感してしまうのは『方舟』の方なのだ。人間は結局命のかかった状況では自分のことしか考えられない。そんな当たり前のことに気づかされ、自分も同じ状況なら登場人物と同じ行動をとるのかと考えた後、「とる」と結論付けてしまうことに、また絶望する。

そんな絶望の話なのに、その絶望を感じさせるのはわずか10ページほどのエピローグのみ。
鮮やかなどんでん返しに私は読み終えた後、言葉を継ぐことができなかった。気づかない。気づくべきなのに気づかなかった。推理小説読者であればあるほど気づかない盲点。

察しのいい読者ならこれから綴る内容でオチに気づいてしまうので読まないほうがいい。ただ私はこれを書かずにはいられない。

 推理小説において明かすべき要素は3つある。「誰がやったか(犯人)」「どうやってやったか(トリック)」「なぜやったか(動機)」の3要素だ。
 この小説で主眼となるのは最初の「誰がやったか(犯人)」。当然だ。犯人を犠牲にしてその他の全員が助かることを目的にしているのだから。そのために本作品では「どうやってやったか(トリック)」を解明しながら犯人に迫っていく。その過程で「なぜやったか(動機)」はひとまず脇に置いておくことになる。
 これは通常の推理小説などでも同じことだ。よく見るだろう、2時間ドラマの最後で犯人が崖っぷちで愛人がどうとか、遺産がどうとかくだらない動機を話して号泣しているシーンを。動機なんて本人から聞かないとわからない。だからとりあえず放っといて犯人を解明するのが筋だ。この小説においてもそう。犠牲になる一人を決めるために犯人を捜す。動機なんて後回し。

 しかし本当にいいのか?
 考えてみろ。この状況で人を殺す理由なんて決まっているじゃないか。
 この状況で平凡な登場人物たちが殺人鬼に変貌する理由なんて一つしかないじゃないか。
 
こんな当たり前のことに読者は気づかない。気づけないのだ。いつだって動機は二の次だから。

この小説は「絶望」の小説だ。その対象は二つに向けられている。一つは自分本位にしか行動できない「人間」への絶望。もう一つは人間を殺す、その許されざる行為でいの一番に研究すべき対象である動機を軽視する、倫理を忘れた「推理小説」への絶望。

 この二つを認識したとき、この小説は単なるどんでん返しの小説から現代社会、現代文藝への強烈なアンチテーゼを放つ文学作品に仕上がるのだ。

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