【め #6】「いずれ見えなくなる」を生きる怖さ
阿部 央美さん(前編)
阿部さんは小学校5年生の時に「網膜色素変性症」と診断を受けた。遺伝子のキズが原因で光を感じる組織である網膜が少しずつ障害を受ける病気である。最初に現れる主な症状は、暗いところでものが見えにくくなる「夜盲(やもう)」。その後、視野が狭くなって見えない部分が出てくる「視野狭窄(しやきょうさく)」が少しずつ進行すると言われている。
3歳児健診で目の動き方がおかしいと指摘され、ご両親に色んな眼科に連れられるも、理由は判然としない。小学校1年の時に、暗いところや夜にものが見えにくいことに気づく。「昔は、夜に子供会で「火の用心」って拍子木を鳴らして村を回るのよね。私だけ遅れちゃうの。拍子木持ってるから手も繋げないし。暗闇の中を進んでいる感じで、みんなの声を追いかけていくような感じだった」。
その後、中心の視力は残るも、その周りから徐々に見えなくなっていく。「ドッジボールするでしょ、急に眼の中にボールが入ってくる感じ。跳び箱飛ぶでしょ、近づくと踏切版が視界から消えちゃう。跳び箱に正面からぶつかっちゃって唇切って怪我したりね」。
日中に友達と自転車で遊びに出ても、暗くなってきた帰り道は自転車のライトだけでは帰宅できない。3人組で仲が良った友達が手をつないだり、自転車に乗りながら歌を歌って誘導してくれた。仲良しこそが「(私が)どこから見えないかをわかってくれた」。
「いずれ見えなくなる」。そのため、中心視力がまだ0.3あるにもかかわらず、中学校から盲学校に入学した。「全盲や弱視など色々な視覚障害を知った」一方で、逆に「自分の見え方を理解してもらえない」経験もした。それでも将来に備えて「見えているうちから点字も学んだ」。
その後、あん摩鍼灸師の資格を取得して病院のリハビリ室に勤めるも、視界は徐々に狭まっていく。「車椅子って音を立てずに進むでしょ?だから私にとっては突然出てくる。よくぶつかったわよ」。
小さい頃からずっと付き合ってきた視覚はその後、40代後半になって全て失われた。
振り返って話してくれた。「田舎の由緒ある家だったからか、親戚づきあいの会合がある時はいつも留守番だった、周囲から隠す感じで。昔は周りに障害のある人がいないし、表にも出さなかったのね。別に見えにくかっただけなのにね」。
そんな雰囲気が変わった出来事として、長野パラリンピックを挙げられた。聖火ランナーの募集など障害のある人を目にする機会が増えた。街の中にも点字ブロックが敷設されたり、駅の案内が変わったり、「大きなイベントって大事」。
(後編に続く)
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