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ピンチをアドリブで乗り越える技 74/100(独創)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


『The Stick』エキササイズのご紹介も、今日で3日目です。

このエキササイズで、前の人たちの真似をするためには、『傾聴』が欠かせないという話をしました。つまり、洞察力と、受け取った情報を処理する解析力、この双方が求められるのです。

正解の棒の持ち上げ方と置き方を、正確に読み取り、それを正確に再現する能力って、意外と難しいものです。

観察して、その情報を正確に読み取るには、こちらの感度も高くなくてはいけません。ハイレゾのデータを読み込むには、それ相応のスペックが必要なわけで、解像度が劣っていては、それ以上に高度なコピーも出来ません。

さらには、それを再現、つまり再生する時にも、それに見合った能力が備わっていなくては、完コピには至りません。

問題は、その自分の解析力と再現力の乏しさには、なかなか自分では気がつけないということです。

自分がどれだけ物事を見れていないのか(傾聴が不十分)、またそれを再現する能力があるのかどうか、これってなかなか自身では判断できないことだと思います。

録音や録画で、自分の声を聴いたことがありますよね?

とっても変に聞こえませんか?

でも、実はそれがあなたの実際の声質なんです。

いつもは、自分の頭蓋骨に反響した自身の声を聴いているので、いつもの聞き慣れた自分の声と、第三者たる録音器具の拾った声質には、どうしても違いが生まれてしまい、私たちは違和感を感じます。

かくいう私も、近頃自分の声が、思ってたよりも鼻にかかっていて、衝撃を受けました。

こうじゃなかった筈なんですけどね、少なくとも英語では。鼻に抜ける高い声を使いがちな狂言の影響ですかね?

『The Stick』で正解の所作を再現しようとしている時、そこには自分を俯瞰して見る、冷静さが必要な気がします。

コピーをしている、つもり、になってしまっていませんか?それを防ぐことが出来るのが、自己客観視であり、
『離見の見』ですね。(7/100参照)

以前お話しした『螺旋』の学び的には、この、出来ているつもりだけど出来ない部分が、どうしても取り落とす部分が、個性として定着するというお話をしました。(50/100参照)

似たような話としては、この『The Stick』、順を重ねるにつれて、気をてらった独創的な、持ち上げかたと置き方をしたくなります。

棒一本の扱い方なんて、限られていると思うと、独自の一風変わった方法をで注目を集めようとする人が必ず現れます。

でも、これは不必要なエゴではないでしょうか?

逆に、どうしても所作が似てきてしまい、覚えるのが難しくなってくるので、特徴を持たせて記憶を辿りやすくしてくれるのは、ありがたいことです。

ここの違いはどこにあるんでしょうか?

非常に難しい違いなのですが、だんだんと見分けがついてくるように思います。

自慰行為的か、深化か?(17/100参照)

平たく言えば、自分が自ら目立つためにしているか、他の人たちの為にしているか?ということになるのでしょう。

ピンチ禍においても同じです。

そこで実力を見せつける必要はないし、悲壮感を持って、打ちのめされなくていいんです。まして、ピンチを救うヒーローになる必要もないし、ピンチであるということを騒ぎ立てるのもおかしなものです。

ピンチと真摯に対峙し、それを乗り越えていく。求められているのはそれだけなはずです。

イギリスの演劇学校の一次入学試験に、

子供になって、おもちゃ屋のショップウィンドウの前に立つ
という課題があります。

あなたなら、どうしますか?




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