
【イベントレポート】「第8回なぜ青梅でアートなのか 」(ゲスト:八野好洋)
こんにちは。
合同会社ARTの地産地消は、「アートの力でクリエイティブで豊かな市民生活を実現する」をビジョンに掲げ、地域住民の皆様と地域で活動するアーティストの交流を積極的に推進していきます。
その一環として、「なぜ青梅でアートなのか?」というテーマのもと地域で活動するさまざまなアーティストと代表の井上がお話しするトークイベントを定期的に開催しています。
今回は、8月24日(土)に開催されたトークイベントの様子をまとめました。青梅の写真文化を長きにわたって牽引してきた八野好洋さんのお話を、どうぞお楽しみください。
写真との出会い
井上正行:それではよろしくお願いします。初めに簡単な自己紹介からお願いします。
八野好洋:はい。「はちのよしひろ」と申します。
漢字では数字の「八」に 野原の「野」で、よしは好き嫌いの「好」き。ひろは太平洋の「洋」です。1961年生まれの63歳で多摩川沿いの地域である青梅市大柳町で生まれました。
子供の頃から写真と触れ合ってきました。中学生になると、青梅市立第一中学校の写真部に入部します。1970年代当時の青梅一中は、写真の盛んな中学でして、同級生の男子120名いるうち60名が一眼レフを持っておりました。
参加者:ええー!!!
八野:そして、そのうちの40名が写真部におりました。こういう特異な環境の中で本格的に写真を始めました。
このような環境は、高校に行ってもないんですね。(一眼レフを持っている人は)クラスに1人いるかいないか。いても気が合わない(笑)。
それで、もう1度みんなで集まろうよということで、写真団体、「OPC」という写真のクラブを立ち上げまして、 今年で47年間続けております。
井上:青梅にはこうした写真団体が他にもあったのでしょうか。
八野:1980年代の中頃、青梅市には5つの写真団体がありました。
実際には1990年に立ち上がりますが、「大多摩写真クラブ」、これが実質1番老舗の団体です。
そして、「JRP」という全国組織の青梅支部ですね。 それから「青梅写真愛好会」、「青梅写友会」この5つの団体が集まりまして青梅写真連盟を結成しました。
当時はこの段階で120数名いました。35年ぐらい経ちまして現在は、「OPC」、「青梅写友会」、「JRP青梅市部」、これらに加えて新たに「青梅フォトクラブ」が参加をしています。
井上:私も青梅一中の生徒だったので、八野さんは先輩ですね。
ちなみに私は理科部でした。ひたすら理科の実験をやってたんですが、最初は5、6人しかいなかったですね。
ですから、写真部が40人もいたというのは驚きです。男子生徒120人中40人が写真部に入るというのは、当時としては当たり前ではないですよね。
八野:当たり前ではなかったと思いますけれども、ただ、ちょうどスーパーカーブームがありまして、子どもたちがカメラを持ち始めた時期でした。
ちょうど今の子どもたちがスマホを持ち始めたのと同じように。それまでは、 カメラって子供はいじっちゃいけないみたいな時代でした。
参加者:修学旅行などで、クラスで何人くらいカメラを持ってきましたか。
八野:修学旅行は希望が多かったので、クラスで2人とか3人と決められていました。みんなが持ってきてしまうと、無くなったり、盗難が発生したりして、学校側も困りますからね。
井上:もし知ってたらでいいんですけど、青梅二中のカメラ事情はどうだったのでしょうか。
八野:どうだったのでしょう。わからないです。
参加者:私は二中出身です。 年齢は八野さんより10歳ぐらい上ですが、多分そんなことはなかった。私が思うに、青梅の町では青梅一中に通っているお父さんやお母さんが金持ちだったのではないでしょうか。そうでないと、子どもたちに一眼レフなんて買ってあげられなかったと思います。
八野:ボディーだけで5万円ぐらいしましたね。多分1970年代っていうと初任給ぐらいになると思います。
「持ってきたよ」と言って実は父親の持ち物だったということはあったかもしれませんが、みんなで写真を撮りに出かける時に持ってこれるような子どもたちが多かったですね。
参加者:私は高校で一眼レフを買いましたけど、やっぱり1年以上貯金しましたよ。
参加者:現像はどうしてたんですか。
八野:現像は、小遣いを貯めて現像タンクを買いました。現像液も当時のフィルムメーカーから買いましたね。いろんな薬品を買ってきて、自分で調剤するというのことも、当時はしていましたね。
井上:中学生でやっていたのでしょうか。
八野:それはさすがに高校、大学ぐらいになってからですね。
参加者:実際の現像はどのようになされたのでしょうか。
八野:暗室を持っていないですから、現像タンクに入れていました。「ダークバック」という、黒い袋があって、袖がついていたんです。両端が輪ゴムになっていて、そこから腕を通して中でセットします。
それで、薬品だけを入れる口があって、 そこから薬品を入れてということですね。引き延ばしは、自分の部屋で行っていました。雨戸閉めて、目張りして、カーテン閉めて、ドアのとこに「入ってくんな」と表示して、それでやってましたね。
ただ、子どもの頃はまだいいんですけれども、1番困ったのが子どもが生まれた時ですよね。 現像液などは毒ですので、子どもが寝静まってから部屋を片付けて、目張りをして、 引き延ばしをして、水洗して、ある程度乾燥させて、また部屋をセットし直して、目張りを外して、子どもが起きてくるまでに終わらせなきゃいけなかった。
参加者:そうすると部屋の中は酢酸の匂いがするでしょうし、銀も使うでしょうから危なそうですね。
井上:八野さんが高校に通っていた時はクラスの男子生徒たちで、一眼レフを持っている人はほとんどいなかったのでしょうか。
八野:私の場合は1人だけです。
井上:ちなみに、今でも青梅一中には写真部はありますか。私の理科部は卒業と同時に廃部になってしまったのですが・・・。
八野:多分ないと思いますね。
参加者:当時の写真部は顧問の先生の面倒見が良かったのでしょうか。
八野:人気のある先生でしたね。後に、二中の校長先生をやったり、保育園の園長先生をやったりされた方ですが、その方が写真をやっているから決め手になった生徒たちがいたと思います。
2人の師匠
井上:以前お話をした時に、29歳あたりで二人の師匠との出会いがあったとお話されていましたよね。このあたりのお話をしていただけますか。
八野:はい。まず、「OPC」というクラブができて、写真連盟ができたというお話はしましたね。設立の準備をしているその間に、市役所に勤務されており、教育長もされた、宮崎廷(ただし)さんという青梅の写真界の大御所にお世話になりました。
3年くらいかけて準備をしました。その時に、「お前も手伝え」と宮崎さんに声をかけていただきました。当時宮崎さんは50代の前半で、私は25歳ぐらいでした。連盟ができた後、「次はお前の時代だ」と言われ、副会長に指名されました。そして、私が42歳になった時、後継指名され会長となったんです。
井上:お話に出てきた宮崎さんの写真は、今青梅駅でみれますよね。
八野:そうですね。青梅駅の通路沿いのガラスケースの中に、青梅の古い写真が数点飾ってあります。2人の作家さんが出してるんですけど、そのうちの1人が宮崎さんです。
井上:宮崎さんは、どうして八野さんを指名したのでしょうか。それまでにどのような関係性が、築かれていたのでしょうか。
八野:そもそも私の父親と宮崎さんが知り合いだったんですね。
ある時、私が市役所行った時に、宮崎さんと偶然会いました。名札を見たら宮崎と書いてあり、私はなぜこの人のことを知っているのだろうと思いました。振り返ってみると、宮崎さんは私が小さい頃に家に来たことがあり、その記憶から名前と顔が一致したのだと思います。
井上:宮崎さんとの出会いのきっかけはわかりましたが、「写真連盟を引っ張っていきなさい」となるにはまだ他にもエピソードがありそうです。
八野:宮崎さんと父は交流がありましたので、私に対しても何か親しみを感じていたのではないかと思います。また、私は20歳ぐらいの時から、OPCで写真展をやっていましたので、 宮崎さんは写真展に足を運んでくれていたんですね。若い集団を率いていましたし、昔からのご縁もあったので選ばれたのではないかと思います。
参加者:司会さん、度々すいません。ご本人は自分で言えないと思うんですけど、宮崎さんは、八野さんの撮る写真の素晴らしいところをちゃんと見抜いていたんだと思う。お父さんとの関係だけではやっぱり後継を任せられないので、宮崎さんは写真のセンスに気づいていたのだと思います。
八野:ありがとうございます。
井上:若くして、青梅の写真連盟を引っ張っていくことになったわけですが、この経験についてどんな思いを抱いていますか。そして、それは現在どのようなところで活かされていますか。
八野:やはり先輩に育ててもらったという思いが強いですね。当時、宮崎さんは昭和9年生まれの50歳代で、写真連盟の中には明治生まれの方もいましたので、 私を後継指名できたのは、宮崎さんが他の先輩たちを説得してくれたからだと思います。私と、宮崎さんの間にも27年の年の差がありますから、その間のメンバーたちも説得してくれたと思いますね。
パーティがあると市長の前で挨拶をさせられたり、新しい写真クラブができると来賓の席に座らされて、挨拶をさせられたりと、大変なこともたくさんありましたが、育てていただいたという思いが今は強い。
それで、自分はどうやって恩返しをしようかと考えましたが、先輩にはしづらいんですね。そうなると、後輩に対して思いを伝えていくことが恩返しになると考えています。
今は、若者が写真クラブに入って技術を磨いていくという時代ではなくなってきているため、なかなか後輩と出会う機会がありません。そのため、これから写真を発表していきたいと考えている人たちに、発表の場を提供するなどしています。
例えば、八王子にある東京造形大学では、学生たちに青梅で撮影した写真を青梅で発表するエリアスタディを数年前まで実施していました。そこで私は。青梅側のスタッフとして生徒さんを何人か預かり、創作活動のお手伝いをさせてもらいました。

他には、都立多摩高校の写真部でもお手伝いをしています。昨年、100周年を迎えましたので、記念誌や学校案内のパンフレットに写真提供をするなどして、若い人たちへの支援をしています。
井上:ありがとうございます。そしてもう1人、写真の先生がおりますよね。
八野:はい。青梅写真連盟ができた当時、「文化活動促進費」が青梅市役所から支給されていました。教育委員会とタイアップをして、毎年、写真家を呼んで、 写真家の講演会をやっていたんです。
佐々木崑さんや野町和嘉さんといった人気作家をお呼びしてきた中に、秩父の写真を撮っている南良和さんという写真家がおりました。
ある時、講演会の質疑応答で、「最近、たくさんのアマチュア写真家が秩父の写真を撮っていますが、競合して困りませんか」という質問がありました。
その時に南さんは「そういう人たちは玄関の外を取ってます。でも、私は玄関の中を取っている、だからライバルではないんだ」とおっしゃったんです。
彼は、お嫁さんの地位が低い秩父の農村社会を写真に収めています。例えば彼は、お姑さんは畳の上にいて、そこの娘はすぐ横でミシンを踏んでいるのに、お嫁さんは2段下の土間にゴザを敷いて作業をしている写真や、21歳の花嫁さんのすごいあかぎれの手を撮った写真などを撮っていました。
この「玄関の内側で写真を撮る」というキーワードが、私の作品作りの中で大きなポイントになっているんです。直接お話をしたわけではないですが、その一言が大きな影響を与えてくれました。
井上:こうしたエピソードが、八野さんの代表作になる『際-KIWA-』につながってくるのでしょうか。
八野:いえ、それよりも前に『アジアからの花嫁』があります。さっきの話が30代前半の頃でしたので、言葉に直接的な影響を受けて、『アジアからの花嫁』というシリーズで10年近く写真を撮りました。
それが1990年代の初頭です。この頃は、ちょうど日本に海外から花嫁さんが来始めた時代だったんですね。花嫁さんたちのお家に行って、家の中の生活を撮り始めました。撮っていくとだんだん、玄関の中だけでは済まなくなってきたんです。
どうしても幸せな家族だけではないんですね。離婚してしまったり、死別してしまったり、旦那さんの暴力に耐えかねて飛び出してしまったりして。そうなってくると、玄関の中でもいろんなドラマ、世界が出てきて、表から見ると幸せそうに見えるけども、実際中に入って取ろうとするとそうでもないということが見えてきます。
そうすると、だんだん撮る側はそこも撮りたくなるわけですよね。撮られる側は絶対に嫌なんですけれども、そこを知りたくなってくるんですね。
代表作『際-KIWA-』について
井上:こうした経験が、後に『際-KIWA-』へと繋がってくる。
八野:はい。そして、次のテーマが「際」です。「死際」とか「窓際」とか「水際」、「山際」の際ですね。ある世界と違う世界の狭間。
これがキーワードとして浮かび上がってきたんです。外と内の際で幸せそうに見える家族も実際には違う。そこの際ですよね。これを撮りたいという思いが50歳を過ぎたあたりからどんどん強くなってきました。
『際-KIWA-』は、こうした私の心象風景を表現した写真集となりました。
例えば、限界集落を撮りに行き、「人間の力の及ぶ範囲と及ばない範囲」、「人間のやることの限界と自然の力強さ」、これらの境目や、「時間だけがどんどんどんどん過ぎていくのに風景は何も変わってない」、そこのずれみたいなもの。あとは、「昼の世界と夜の世界やあの世とこの世の境界」といったものを表現したんです。
『 際 - KIWA - 』 写真集発刊 数年撮り続けたテーマ写真を纏め、『 際 - KIWA - ...
Posted by はちの よしひろ on Friday, July 23, 2021
井上:「際」、でふと思ったのですが、八野さんはずっと青梅で暮らしていますよね。青梅という場所は山際、川際にあるし、東京の都市部と山間部との際にありますよね。なにかそういう土地のイメージが、八野さんの心象風景に影響を与えていたのではないかと思いました。
八野:そうですね。青梅の人たちって結構怖い話が好きで、御岳のトンネルにオートバイの亡霊が出るとか、 沢井駅前の木から木魚の音がするとか。あとは、雪女の伝説もありますね。そして西に行くと狼の神域ですよね。それから住吉神社も、元々は神社脇に稲荷神社があったので狐の世界ですよね。そういった、神域と人間の営みが入り組んでいる世界が青梅の人たちの関心の的になっていると思います。そのため、今お話ししたような内容は写真集『際-KIWA-』の最後の章で表現しています。
井上:『際-KIWA-』の後はどのような写真をとっていますか。
八野:次にできた作品は『魚屋人生75年』です。中学を卒業して、15歳で茨城から上京してきて、新宿御苑の近くの魚屋さんに婿入りして75年間営業している男性を撮影させていただきました。
新宿のビル街の中で1軒だけ2階建ての木造の小さな魚屋さんがあります。お店の中は4畳くらいしかないんですね。普通の魚屋さんとは違って、たくさんお魚があるわけではないんです。
聞いてみたところ、歌舞伎町や青山などの料理屋さんに卸しているようです。でも、行けば千円単位で色々なお魚をいただけます。こういう魚が好きだって言えば、適当に見繕ってくれる。ここのお店は、90歳の男性が1人、年中無休でやっているんです。
「休みたいと思ったことないんですか」と聞いたら、「仕事が好きでね、仕事をしていたいんだよ」とおっしゃいました。私などは休むことをよく考えていたので、勉強になりましたね。
横丁空間「雪守」とは
井上:ありがとうございます。ところで、6月に開設したばかりの横丁空間「雪守」についてもお話しいただけますか。「雪守」では、先日開催した「黒田康夫写真展 土方巽最後の舞踏」でも展示協力をしていただきました。場所は、2021年に閉店した老舗の文房具店「間坂屋」さんの隣ですよね。
八野:まず、自分の作品を見てもらいたいと思って開設しました。大きな写真展だと出展が噛み合ってしまってるので、 もっとたくさん発表したい。そのためには常設で使えるところが欲しいなと思ったんです。
だけど、途中で自分だけ使うのはもったいないよなと思い、発表したい人がいれば、どんどん使っていってもらいたいと考えました。7月は黒田さんの写真展を実施し、8月以降も出展者が決まっています。絵を展示したい方がいれば、絵でもいいし、版画でもいいし、いろんなことに使っていただければという思いでいますね。


井上:こちらを立ち上げられたのは、間坂屋さんの社長と同級生だったというご縁もあってのことですよね。
八野:そうですね、最後の社長さんが同級生ですね。もともと、間坂屋さんの店舗跡地で写真展を開くことになっていたんです。そのポスターを、お店脇のガラスケース内に貼ってもらいました。こういった経緯もあったので、このガラスケースを展示スペースとして貸していただきたいとお願いしたんです。それで今年の6月から「雪守」をオープンしました。
路地ですので、最初は1日10人くらいが前を通ればいいなと思っていたんです。そうすれば、30日で300人になりますから。でも、思った以上に人が通ることがわかり、300人どころじゃないということがわかりました。
井上:あの場所は、青梅駅に行くときによく利用しています。それこそ、今日も通りました。
私にとってあの路地は、日常と仕事の世界をつなぐ場所でした。路地を抜けると駅がパッとあらわれますから。そういう意味で、「雪守」は境界的な場所なのかなと思います。トンネルを抜けると、そこは・・・のように。
あっという間にお時間です。本日はどうもありがとうございました!
八野:ありがとうございました。
お知らせ
『へんなほんてん』開催中!


■へんなほんてん会期
2024年8月25日(日)〜9月13日(金)
時間 10:30ー18:30(会期中は無休)
料金 入場無料
場所 THE ATELIER(青梅市本町130−1ダイアパレスステーションプラザ青梅204)
連絡先 lplc.of.art@gmail.com/0428-84-0678(喫茶ここから内10:00-18:30/担当:風間真知子)
『APOホリグチ 三次元回顧展』開催決定!
「ニューギニアの精霊と対話するAPOホリグチの、儀式的ライブパフォーマンスに刮目せよ!青梅の御朱印アーティストが提示する未来のアート。」


■APOホリグチ 三次元回顧展
会期 2024年9月28日(土)〜10月5日(土)
時間 10:30ー18:30(会期中は無休)
料金 入場無料
場所 THE ATELIER(青梅市本町130−1ダイアパレスステーションプラザ青梅204)
連絡先 lplc.of.art@gmail.com/0428-84-0678
(喫茶ここから内10:00-18:30/担当:風間真知子)
土方巽、畢生の舞台。〈疱瘡譚〉上映決定!
《土方巽燔犧大踏鑑・四季のための二十七晩》より〈疱瘡譚〉
2024年10月4日(金)〜10日(木)までシネマネコにて上映決定!


映画のポイントは、〈疱瘡譚〉が土方巽の舞踏作品として唯一全編が映像記録された点です。この映像は、彼の身体表現の真髄を捉え、舞踏の歴史を語る上で欠かせない第一級の資料となっています。この貴重な映像を通じて、彼の独自の世界観と身体表現の魅力を大スクリーンで体験できることは、現代の観客にとっても新たな発見と感動をもたらすでしょう。
また、10月6日(日)13時35分より、スペシャルトークイベントも開催されます。
〈疱瘡譚〉上映終了後、土方巽アーカイブ 慶應義塾大学アート・センターより森下隆氏をお招きし、土方巽とは何者だったのか?舞踏の魅力とは何なのか?などについて語っていただきます。要鑑賞チケット。
■《土方巽燔犧大踏鑑・四季のための二十七晩》より〈疱瘡譚〉
上映期間 2024年10月4日(金)〜10月10日(木)
上映時間 11時45分〜13時20分(90分)
料金 https://cinema-neko.com/information.php
場所 シネマネコ(〒198-0044 東京都青梅市西分町3丁目123)
連絡先 lplc.of.art@gmail.com
アトリエ利用者募集中!
現在、「THE ATELIER」の利用者を募集しています。2024年の8月1日以降から利用可能です。見学するだけでもとても嬉しいです!
随時募集を受け付けております。
トークイベント「なぜ青梅でアートなのか?」
9月14日、28日には青梅で活動するチョークアーティストの茂木あかねさんとニューギアカフェ店主であり、御朱印アーティストであるAPOホリグチさんが登壇されます。
そして、10月12日にはシネマネコ代表の菊池さん、27日には青梅の写真家奥村さんがいらっしゃいます!
THE ATELIERで開催しますので、見学も兼ねてぜひいらしてください!
■第9回ゲスト:茂木あかね氏
日付:2024年9月14日(土)

■第10回ゲスト:APOホリグチ氏
日付:2024年9月28日(土)

■第11回ゲスト:菊池康弘氏
日付:2024年10月12日(土)

■第12回ゲスト:奥村よしひろ氏
日付:2024年10月26日(土)
いずれも
時間:14:00開始 15:00終了予定
場所:THE ATLIER(青梅市本町130−1ダイアパレスステーションプラザ青梅204)
定員:15名
参加費:1000円(資料代)当日お支払い
主催:合同会社ARTの地産地消
https://lplcofart.wixsite.com/art-chisanchisyo
lplc.of.art@gmail.com
0428-84-0678(喫茶ここから内10:00-18:30/担当:風間真知子)
奉納舞踏開催!
そして、2024年10月6日(日)の16時頃からは武州青梅金刀比羅神社にて「奉納舞踏」が開催されます。参加費無料なので、ぜひ足を運んでくださいね!


【お問い合わせ】
0428-84-0678 /lplc.of.art@gmail.com(喫茶ここから/担当風間)
おわりに
イベントのご案内はもちろん、その他会社の詳しい内容は直接私たちにご連絡いただけると幸いです。
会社の拠点となりますTHE ATELIERには、同じフロア内に喫茶店を併設しております。基本的には定休日なしで営業しておりますので、お気軽にご来店いただき、お話出来たら嬉しいです。