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私の英国物語 Broadhurst Gardens NW6 (71) The Old Black Lion, West End Lane

学期の中間休みにイングランド北部 Leeds の実家に戻っていた Richard が、ガールフレンドの Anne と一緒にロンドンへ戻ってきた。 
Job Centre に勤めているという彼女は、有給休暇を利用して Richard とロンドン観光をするそうだ。Job Centre は、日本の「ハローワーク」のような機関。
前日に Nardy もルーマニアから戻って来ていて、再びフラットも賑やかになった。
夕食後に、パブに行こうということになり、Richard、Anne、Nardy と一緒にフラットの近くのパブに出かけた。

Broadhurst Gardens から West End Lane を北へ10分ほど歩いて行くと "the Old Black Lion" というパブの灯りが見えてきた。Richard と Nardy は、時々ここに来ているという。
扉を押して中に入っていくと、大きなテレビのスクリーンが目に入ってきた。フットボールやラグビーの試合中継は、大勢でビールを飲みながら観戦する方が盛り上がる。

1階のカウンターでビールを買い、Richard が2階に行こうというので、それぞれにパイント・グラスを片手に2階への階段を上がっていった。
2階にもテーブル席があり、そこからも1階のスクリーンが観られるようになっている。フロアの中央には a dartboard や a pool table が設えてあった。Richard と Nardy はグラスをテーブルに置くと、Snooker を始めた。
"Snooker" は billiard sports で、19世紀後半、インド駐留の英陸軍将校たちの娯楽となっていた。
英国では人気の Cue sports で、テレビでも試合が中継されている。

英国では、エールやビールを "a British ("imperial") pint of 20 imperial fluid ounces (570 ml)" で販売しなければならないと法律で定められている。 
計量認定されたパイント・グラスには最近までグラスの表面に王冠マークと番号がエッチングされていたが、EU の指導でEU 域内と同調して CE の文字と共に "PINT" の文字をエッチングしなければならないようになった。
他の計量認定されていないグラスでビールを販売することは違法とされる。 ハーフ・パイントや1/3パイントのグラスも同様の法律で規定されている。
※Brexit 以前
 
イングランドでは青銅器時代からエールを飲んでいたといわれる。 
その後、ローマ人が渡来し、ローマ街道網を創設したことにより、旅行者に宿泊と軽食や飲み物を提供する "Tavern" (ラテン語で「小屋」の意味) が登場し始めた。
ローマ人の撤退後、アングロ・サクソン人は、家内醸造から発祥した "alehouses" を設立した。

伝統的な英国のエールは、発酵した malt だけから作られた。
15世紀初頭、ホップを加える醸造法がオランダからもたらされる。
それぞれの酒場は独自のエールを醸造していたが、17世紀の後半には独立した醸造所が現れ始め、今日、ほとんど全てのビールは、醸造会社によって醸造されるようになった。
 
古代ローマでは、酒屋が酒神 Bacchus の神木、キズタの枝束を店先に掲げたといわれる。
サクソン人の酒屋の女店主は、ポールに "a green bush" をつけて人々に新酒の準備ができたことを知らせた。 
日本酒の造り酒屋では、杉の穂先を集めて球状にした「杉玉」を軒先に吊るして新酒ができたことを人々に知らせる。吊るされた緑の杉玉は、やがて枯れて茶色くなってくるが、その色の変化は新酒の熟成の度合いを語る。
もともとは、酒の神様に感謝を捧げるものであったといわれるが、東洋でも西洋でも同じような風習があるというのは興味深いものだ。

中世初期、旅行者は修道院で宿泊を得ることができたが、巡礼や旅行の人気が高まり、宿屋が必要になってきた。そうして、居酒屋と宿屋が一緒になった "Tavern" や "Inn" が登場する。
"alehouses" は、地元の人々が集まって酒を飲みながら噂話をしたり、情報交換をしたりする「コミュニティの集会所」のような役割をしていた。これが "a public house" (公共の家)、略して "a pub" の始まりとなる。
パブは人々の間で大変人気となり、965年には King Edgar が、一つの村に一つの酒場しかあってはならないと定めるくらいになった。

1393年、King Richard II は、販売されるエールの品質を検査する the ale tasters や inspectors に判りやすくするために酒類販売の許可を得た landlords (パブの主人) に "the pub sign" (看板)を掲げるように命じた。
看板にはパブの公式名を書く必要はなく、パブであることが判ればよかった。 当時は読み書きのできる人が少なく、イラストなどの絵で十分だった。 看板には、自然や宗教を象徴する "the Sun" や "the Star"、"the Cross"、後世には、地元に縁のある人物や戦いの英雄、王族、トンチやイメージを利かせた名称が付けられた。 
近年は、ビール会社の名を掲げているパブも多い。
 
18世紀になると "a gin palace" (ジン酒場) が急激に増加する。
"gin" は、1688年の "Glorious Revolution" (名誉革命)後、オランダからイギリスにもたらされた。その後、醸造に適さない穀物の市場をつくるために無免許のジンの生産を許すという政策によって、ビールよりも安いジンは貧困層の間で爆発的に人気となった。 
1740年までにジンの生産高はビールの6倍にもなり、ジン・ブームは、庶民の健康を蝕み、犯罪事件が多発する世を生み出していった。
国家の荒廃を重くみた政府は、ジンに課税し、ジンより健康的なビールへの課税と販売規制の緩和を行なう "the Beer Act 1830" を施行する。それにより "a beer house" が増えていった。 

1829年にアイルランドで始まった "temperance movement" (禁酒運動) の影響を受け、英国でも国民の間に節酒を奨励する運動が起こる。 
Queen Victoria は、飲酒の代替に紅茶を奨励。 
"the Sale of Beer Act 1854" が制定され、パブの営業時間が設定された。 1869年、"licensing law" の改正により許可の取得が厳選されるようになる。

18世紀後半頃には "the saloon" という、歌やコメディ、ゲームなどのエンターテインメントを供する部屋を設けたパブが登場する。 
20世紀になると、パブの内部を壁で仕切って、中産階級用に "the saloon" または "the lounge bar" を設け、労働者階級用には "the public bar" または "the tap room" として区別するパブも現れた。 
1960年代頃に「仕切り壁」は撤去され、カウンターとテーブル席という内装になる。
 
英国の文化の一つともいわれるパブ。英国には、53,500件ものパブがあるという。
近年、パブは転業や廃業で減少傾向にあるといわれるが、17世紀に活躍した英国官僚で日記作家の Samuel Pepys が日記に書いているように、"The pub is the heart of England"、パブが人々の心の拠り所であるのは今も変わらない。

"The Old Black Lion" は、その後 Greene King Pub Company の傘下に入って店名が "The Lion" に変わり、そして今は "The Black Lion" と変わっている。 

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