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私の英国物語 Broadhurst Gardens NW6 (77) Barbican, the City of London
Andrea から電話があり、夕食に来ないかとのお誘い。
彼女は、ビジネス・コレッジでのコースを修了した後、Inken や Kathrin のようにドイツには戻らず、ミセス・マーティンのフラットを出た後はロンドンの北西 Cricklewood のフラットで一人暮らしをしていたのだが、最近引っ越したという。
今度の彼女の新居は、the City of London の Barbican。
Waitrose でドイツのワイン ZELLER SCHWRZE KATZ を購入して、Barbican へと向かった。
当時は、ワインの知識が乏しくて、ZELLER SCHWRZE KATZ は黒猫のエチケットが可愛いので選んだ。
以前、ミセス・マーティンのリヴィング・ルームでテレビを観ていて、Andrea にどこのワインが好みか聞かれた時、どこのワインも好きと答えたら、"Junko, You are diplomatic." と言われたことを思い出す。
ロンドンの北西 West Hampstead から Barbican へ、地下鉄を Finchley Road で Metropolitan Line へ乗り換えてロンドン東部 the City へと向かう。 Barbican は、Aldgate East にある大学への通学途中にある。
Barbican Station には地下鉄と鉄道が乗り入れており、駅から "the Barbican Estate" と "the Barbican Centre" へ直結している。
"The Barbican Estate" は、the City に建設された高層住宅である。
The Barbican Estate は、"the Barbican Arts Centre" "the Museum of London" "the Guildhall School of Music and Drama" "the Barbican public library" "the City of London School for Girls" "YMCA" に隣接し、"the Barbican Complex" を構成している。
消防署、医療設備、住居施設がある Milton Court 以外の the Barbican Complex は Grade II listed building (第2種指定建造物) に指定されている。
第二次世界大戦中、商業・金融経済の中心である the City は爆撃によって多大な損壊と人命の犠牲を被った。 特に Cripplegate 地域は壊滅的な被害を被ったといわれる。
"Cripplegate" は、ローマ人が築いた the Wall にある7つの門 (Ludgate; Newgate; Aldersgate; Cripplegate; Moorgate; Bishopsgate; Aldgate) の一つで、the City の北部に位置する。
"Cripplegate" とは、古代英語で "a low gate" "a gate for creeping through" を意味する。
戦後、シティの居住人口は増加し、1951年までには Cripplegate 地域の人口は、48人から5,324人にまで達した。
1952年から、第二次世界大戦の爆撃で破壊された跡地の利用について議論が始まり、そして、1957年9月19日、the City's Court of Common Council によって新しい居住用建物を建設する決定がされる。
都市再開発プロジェクトの任命を受けた "Brutalist architectures" の建築家 Chamberlin、Powell、Bon の3人は、Milan の住宅開発や Verona や Venice の劇場施設、Stockholm の住宅施設などを視察してアイデアの構想を練っていった。
Brutalist architectures は、塗装や化粧板を使わず、コンクリート打ちっぱなしなど、機能性と建材の質感を強調する建築様式。
1965年から1976年にかけて都市再開発プロジェクトは遂行され、そして、コンクリート素材をいかした斬新なデザインの43階建てのロンドン一高い高層住宅3棟 "Cromwell Tower" "Shakespeare Tower" "Lauderdale Tower" が完成する。
建物の名称は、それぞれ、Oliver Cromwell、William Shakespeare、the Earls of Lauderdale に由来する。
the Earls of Lauderdale は、スコットランドの貴族で、17世紀、彼らのロンドンの邸宅がこの地にあった。
1987年から1991年にかけて行なわれた the Isle of Dogs におけるウォーターフロント再開発地域 Canary Wharf 近くの the Pan Peninsula development の高層住宅が完成するまでは、ロンドン一高い高層住宅を誇っていた。
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The Barbican Estate と共に the Barbican Complex を構成する "the Barbican Centre" は、"the city's gift to the nation" (国民への贈り物) として£5,000,000 を投じて建設された。
1982年、Queen Elizabeth II を迎えてオープニング・セレモニーが催された。
The Barbican Centre には、コンサート・ホール、劇場、シネマ、アート・ギャラリー、図書館、レストラン、会議場、展示場、ホテル等の施設があり、"the London Symphony Orchestra" と "the BBC Symphony Orchestra" はthe Barbican Hall を本拠地としている。 また、the Barbican Theatre は、2002年まで "the Royal Shakespeare Company" の本拠地となっていた。
"Barbican" という名称には諸説あるが、アラビア語の "burgh" ("tower" の意味) と "ken" ( "see" または "watch" の意味) が結合した言葉 "burgh-kenning" (a watch tower of the City) であるとされる。また、この斬新なデザインの "a concrete ziggurat" (コンクリートの神殿) は、常に芸術性に物議をもたらして賛否を分けていたが、壮大なプロジェクトに携わる建築家の志の賜物であり、1960年から1970年代を象徴する興味深い建物として、今日認識されている。
待ち合わせの時間15分ほど前に地下鉄 Barbican 駅に到着。改札口前で待っていると Andrea が現れた。
懐かしい再会!
彼女のフラットは、the Barbican Estate の北側、Barbican 駅から Aldersgate を通った Beech Street 沿いの "John Trundle Court" というシンプルなコンクリート造りの高層住宅の12階にあった。
アンドレアは、ドイツ企業で事務の仕事をしながら、日系企業でもドイツ語を教えて生計を立てているという。
料理上手な彼女は、珍しい食材を求めて、時々ロンドン南部 Brixton のマーケットにも出かける。アフリカの芋も売ってるのよ、と言っていた。
彼女の創作家庭料理とワインを楽しみながら、お互いの近況報告をし、旧交を温めた。
キッチンとバスルーム付きの広い one bedroom flat は、一人暮らしには申し分ない。交通の便も良く、賃貸料週£60というのは、光熱費が別としても破格の値段だ。
この貸しフラットの情報は、よく通う the German Centre の掲示板で見つけたという。大家は教師で、ガールフレンドと暮らすので、このフラットは貸すことにしたそうだ。
夏のシーズンが始まろうとした頃、時々、ミセス・マーティンから今日はフラットの内見に人が来るから部屋の鍵を開けておいてと言われることがあった。
「大きなフラットは、なかなか買い手がつかないのよ。」とミセス・マーティンは言ってたけれど、とうとう買い手が決まったようだと夕食の準備に来ていたジョアナが言っていた。
「気に入る部屋に出合うには時間も労力もかかるよ。」と、アンドレアは言う。
来年早々にはフラット探しを始めなくちゃ。。