群像劇的視点で生活をつなぐ~Modern Love・逆ソクラテス~
コロナ禍で大学はなお封鎖状態、自宅での研究を強いられること早2か月
大学に登校することもなく、いつの間にか修士2年という肩書を得ていた
すっかり自宅に引きこもり活動をしているわけだが、十分な時間が与えられると、なにかを他人に発信して共感を得たい、という気持ちは発現しない性格らしい
図らずも用意されてしまった二か月という膨大な時間を使って、研究の傍ら、映画や小説といったエンタメの教養を身に着けておこう、という気持ちが先行し、5月は”おうちエンタメ”を悠々自適に楽しんでいる
しかし、かくいう私はひねくれた東大生なわけであり、ただただエンタメを楽しみ、その良さを紹介できるほど、真直ぐな人間ではない
”なぜ人はエンタメを見るのか”
十分な時間の弊害である、その問いがずっと頭から離れないでいた
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話は前後してしまうが、エンタメについて考えるより前に、コロナ禍で先行していた疑問があった
”人はなぜ専門知をリスペクトしないのか”
ここでいう”人”とは、いわゆる一般大衆であり、ここでいう”一般大衆”とは、このコロナ禍で無知を認識せずに堂々たる文言を構えてSNSやテレビを使って発信行為をしていた一般大衆に限られる
いわば、逆ソクラテス、なる存在である
大学院という専門知の集積所に在籍する私から見れば、専門性をもたない大衆が、なぜPCRや免疫等の分野に口出しができるのか、甚だ理解しがたかった
甘んじて専門知を受け入れろ、というわけではないが、それに対抗しようとする姿勢を見せるならば、偽陰性・偽陽性くらいの言葉は、木の棒レベルの基本ウエポンとして腰に据えてほしいところである(ただ、私的に発信している人間の多くは、そもそもの統計学の勉強すらできていなそうな人間ばかりなのだが)
無論、私もウイルス学や免疫学の専門ではないが、理系として最低限の(それでも専門知に対抗しようとは思えない)知識はもっているつもりではある
そうした、専門知を度外視する大衆への漠然としたストレスからの回避方法を、追い求めていた4月であった
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自粛当初は、哲学書を手に取ることから始めた
漠然とした”人間の思考と態度”に対する疑問に、少しくらいは太刀打ちするための武器が隠されていると思ったからだ
結果から言えば、"哲学と宗教全史"と、"ホモサピエンス全史"の二冊をさらい、あまり大きな答えを得ることはないだろうと判断してしまった
個人的なストレスの源泉への対処を考えたとき、哲学や歴史はあまりにも巨大すぎ、なんなら、この数百・数千年の人間の愚かさに対して失望すらしてしまった
結局、教養の雨の中に更なるストレスの粒子が混じり、降りかかってきた
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5月、その答えを、本格的にエンタメに求め始めた
もちろん、ただストレス解消のため!というわけではなく(ストレスに対してそこまで思いつめるタイプの人間ではない)、Amazon Prime Videoで映画の教養を増やそう、という流れから派生したものだ
様々な名作映画を見て、俳優や監督、技法、プロット等の映画の教養を着々と増やしていっているが、その中でも、上記の”なぜエンタメをみるのか”という疑問に直に訴えかけてきたものがあった
Modern Loveというオリジナルドラマだ。
ニューヨークタイムズの”Modern Love”というコラムをもとにしたドラマで、全8話、各30分ほどと見やすい構成である
オムニバス形式のドラマで、各々のエピソードがとても素敵でどこか心地よい余韻が残るようなエピソードたちである
各々独立しているが、最終回8話で、各エピソードの繋がりが、ほんの少しわかる構成になっている
そのため、”Love actually”や”Valentine's day”ほどではないが、
”群像劇的な視点”で鑑賞することもでき、そこが個人的にたまらなかった
群像劇は、様々な視点を提供してくれるし、かつその繋がりをとても情緒的に示してくれる
なぜエンタメを見るのか、という疑問への答えは、
人と人の繋がりを再確認しつつ、それぞれの背景にも目を向けること
なんて、クサい言葉にはなるが、そんな漠然とした答えが導き出された
浅はかな一般大衆へ向けられていた私の個人的なストレス
いや、もはや敵意に変貌していたものは
そうした匿名不特定多数に対しても各々の背景を想像し、少しでもよい帰結を想像することで、なんとか抑え込まれていった
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こうしてコロナ禍の敵意を多少克服し、緊急事態宣言が解かれた5月末
散歩がてら書店へ赴くと、一冊の本が目に留まった
いわずと知れた群像劇の巨匠、伊坂幸太郎氏の新刊である
元来伊坂氏の作品は集めて読んでおり、私が群像劇というものを好きになったきっかけでもある、ような気もする
それに、特筆すべきはその題名である
”逆ソクラテス”
すぐに手をとり、レジへ向かった
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短編の中に”スロウではない”というエピソードがある
その中で、転校してきた冴えない風の女子生徒・高城が、前の小学校でいじめっ子であったことがわかり、そのことについて主人公の2人の少年が先生に尋ねる場面がある
そんな2人に対して、先生の磯憲はこう言う
”転校してきて、やり直そうとしているんだったら、やり直させてやりたくないか”
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漠然と芽生えていた一般大衆への敵意が、どことなく昇華された気がした
敵意をもって、ストレスを抱えてもしょうがない
無知には知を与えればいい
無知からくる多少の言動の間違いも許そうではないか
こうして、コロナ禍の悪の私は、二つの群像劇のエンターテイメントに救済されつつある
現実の自分の問題意識と、小説や映画におけるテーマが織り重なっていく
そういう繋がりもまた群像劇的だな
なんて考えて、自分も物語の一部になったかのような気分にすらなる
エンタメの役割は、こうして生活を繋げてくれるところにあるのかもしれない
”スロウではない”において、主人公二人の会話中、映画ゴッドファーザーを元にしたやりとりが繰り広げられる
ならば、映画の教養として、ゴッドファーザーを鑑賞するほかない
こうしてエンタメが生活を繋げていってくれる
そんな大学院生活である。