嘉門達夫は嘉門タツオになり、TakamineからK.YAIRIに変えていた件
火曜日は音楽ネタの日。
今さらですが、『月曜日はキャリアについて語る日』はよいとして、何故、『火曜日が音楽関連の日』になったのか、自分でも思い出せずずっと不思議だったんです。
今、ふと思い出しましたよ。
火曜 ⇒ かよう ⇒ 歌謡という流れでした。なるほど、そうだったんだ!(他人事(笑))
シンガーソングライターの、というか替え唄の大御所、嘉門タツオさん(63歳)が、急性膵炎を発症し、緊急入院していたようです。
記事を見て最初に驚いたのは、嘉門達夫ではなくて、嘉門タツオなんだ!
2017年3月、58歳の誕生日に改名されたそうです。存じ上げませんでした。
病状についてネットニュースから要約するに…
7/30のコンサート終了後から腹部に違和感を覚え、8/4にかかりつけ医に相談して都内の大病院を紹介される。
翌7/5にCT検査等を受けた結果、即日入院との模様。
その後、1日3リットル!の点滴など10日間の治療を受けて容体が回復し、昨日8/15に退院されました。
体重は入院中に4kg減、医師からは禁酒を厳命されているようです。
今後、1日も早く回復されることを祈りつつ、皆さんに彼の意外な経歴を紹介させていただきます。
(Wikipediaからの丸写しになる点をご容赦ください…)
●略歴
・中学時代にギターを演奏し始め、『あのねのね』に影響を受けてテープに自作曲を録音する生活を送った。
・1975年、高校在学中の16歳で、憧れのラジオパーソナリティだった落語家・笑福亭鶴光への弟子入りを決意。
・高校卒業後は鶴光邸へ住み込む内弟子となり、笑福亭笑光の名を授かる。
・1978年より、『MBSヤングタウン水曜日』(ヤンタン)にレギュラー出演するも、1980年に師匠の鶴光から破門を宣告され担当番組も全て降板した。
・破門の際、『人生経験を積むために旅に出ろ』と一門の先輩である笑福亭鶴瓶にアドバイスを受けたことから日本放浪へ旅立ち、与論島やスキー場でアルバイトをしながらコミックソングの面白さを認識した。
・1981年、作った曲がアミューズの大里洋吉会長に評価され、アミューズの契約社員としてサザンオールスターズの『チャコの海岸物語』を関西地区の有線ラジオなどへ売り込むことになった。この縁でサザンのコンサートの打ち上げなどに参加し、桑田佳祐と親しくなる。
・所ジョージの芸名は宇崎竜童が命名したことを聞き、桑田に自らの芸名を考えて欲しいと依頼すると、桑田は『カメリア・ダイヤモンドという芸名はどうか?』としたが嘉門が拒否し、桑田が別の活動時に使用していた『嘉門雄三』の苗字を譲り受け、以降、嘉門達夫を名乗ることになった。
・1982年10月、『寿限無No.1!』(森雪之丞プロデュース)で歌手デビュー
・1983年に自作の『ヤンキーの兄ちゃんのうた』をリリース
・1984年、『水曜スペシャル川口浩探検隊』(新田一郎プロデュース)のヤラセ演出を皮肉った『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』を発売しヒット
・1991年にリリースした『替え唄メドレー』(新田一郎プロデュース)が82万枚を売り上げて自身最大のヒット(1992年『NHK紅白歌合戦』出場)
・2000年、トレードマークのオールバックを黒髪から金髪へとイメージチェンジ
・2009年、所属の代官山プロダクションが倒産し、個人事務所『さくら咲く』を設立して独立。この頃よりギターをTakamineから、K.Yairiのカスタムメイドギターへ変更。
・2013年、芸能生活30周年を記念して万博記念公園で『真夏のカモン!EXPO!歌と笑いと食のワンダーランド』を開催。明石家さんま、桂雀々、北野誠、ワハハ本舗の久本雅美と梅垣義明、スターダストレビュー、きたやまおさむ、押尾コータロー、ET-KINGら芸人や歌手仲間が多数出演。
駆け足でしたが、以上となります(笑)
今夜は20時から『京都五山送り火(大文字焼き)』中継、20時半から『関西プロティアン・ウェビナー』があります為、と~っても手抜きとなりました(苦笑)
ただ、これで嘉門タツオさんに興味持っていただける方が1人でも増えれば本望です!
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