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(備忘録)自身の仕事経歴を語る件

月曜日はキャリアについてあれこれ。

今日は、お読みいただく方になんら役に立たない情報で恐縮です。
2,900文字に及ぶ長文で、個人情報の開示に過ぎませんので、今日に限ってはどうぞお読み飛ばしください(苦笑)

近々、音声配信で自己紹介しなければならない機会がありそうで、整理と振り返りの為、自身の『仕事経歴』について書き下ろしてみます。

端的に言うと、新卒で就職した企業(いわゆる就社)に34年目の現在も勤め続けておりますが、『転勤族』・『出向族』としていろいろ経験していますので、同じ境遇の方に少なからず共感いただければ幸いです。

1988(昭和63)年(23歳)、大手食品メーカーに新卒で入社

最初の配属は、大阪本社の財務部。
研究部門など専門職以外の多くの同期が各地の営業支店に配属されるなか、私は希望どおりスタッフ部門でした。
京都市生まれの京都市育ちの自分にとっては、自宅(実家)から電車通勤(1時間強)できてラッキーでした。

1990年(25歳) 大阪秘書部

秘書といえば聞こえはハイソですが、役員のカバン持ちではありません。
当時、大阪で『花と緑の万国博覧会(EXPO’90)』が開催されており、各方面からVIPが来場されるのをアテンドする為に、フットワークの軽い若手として起用されました。
実際、毎日やっていた仕事はツアーコンダクターですね。
世はバブル期真っ盛り、楽しい時代でした(笑)

1992年(27歳) 京都支店

『EXPO’90(花博)』が終了すると、『スタッフ部門の若手は全員営業現場に出よ!』との大号令が掛かり、営業拠点へ。
『せめて地元で』と配慮いただいたのか、京都支店で業務用(飲食店担当)担当を命じられました。

1993年(28歳) 新潟支店

京都支店での慣れない業務用営業で得意先と揉め事を起こし、追い出されることに…
28歳、しかも大阪の女性との結婚が決まっていたなかで、初めて親元を離れる異動となりました。
尤も、多くの人が大学進学や就職で親元を離れて独立するなか、遅過ぎる転居ともいえますが…
在任6年間、温泉やスキー、ゴルフとレジャー三昧(笑)

1998年(33歳) 福岡支店

新潟から福岡へは、3歳児を抱えての家族での長距離転居となりました。
九州と聞いて温暖な亜熱帯を想像していましたが、福岡市は新潟市と同じく日本海に面しており冬は寒い街でした。
都会(繁華街)と自然(海・山・川)のバランスが良く、教育環境も申し分なく子育てには最適の街です。

1999年(34歳) 長崎支店

特に何か失敗した自覚はありませんが、福岡着任から僅か1年での転勤辞令。高校の修学旅行で訪れて以来の長崎市。
すり鉢状の狭い平地と斜面に住宅が密集し、また出島文化など異国情緒溢れる独特の匂いがする街でした。
つい先日には西九州新幹線も開通し、あの頃とは激変しているかと思います。

2000年(35歳) 九州支社(福岡市)

長崎支店でもポンコツで、上長から怒鳴られる日々が続きメンタルを病みかけた為、1年で福岡市に呼び戻されました。
ここから営業職を離れ、拠点販促企画の内勤仕事になります。

2002年(37歳) グループ会社に出向(福岡市)

長い出向生活の始まり。
同じグループとはいえ企業文化が全く異なるなか、周囲にうまく溶け込みきれず、ストレスフルな日々が始まりました。
先に出向していた先輩達がどんどん出世していきましたが、自身はなかなか昇格できずキャリアプラトーに悩んだ時期。
ただ、在任中に鹿児島県・宮崎県・熊本県・佐賀県と、各地に家族旅行できたことがせめてもの楽しみに…

2008年(43歳) グループ会社の中国四国支社(広島市)

43歳、自身の理想から3年遅れての課長昇格です。
管理職に就いて多少は自分のやりたい事ができるようになったものの、相変わらず周囲からは異質な扱いを感じながら仕事をしていました。
事務職で数名の契約社員が居ましたが、私と同じく周囲とうまく溶け込めない人やローパーフォーマーに退職を勧奨する面談を経験し、自身の面談力のなさに酷く落ち込みました。
この在任中にも、家族で鳥取県・島根県や四国旅行を楽しめたことはささやかな想い出に。
ただ、出向先プロパー上長から激しいパワハラを受けてメンタルを病み、数ヶ月の自宅療養を経験しました。

2012年(47歳) グループ会社の京都支店

20年振りの京都でしたが、家族は学校の都合で広島市に残して、自身は単身で実家に居候となりました。
着任して聞かされたのは、『半年後に京都と神戸を閉鎖して大阪に集約するので、支店を畳むように』とのミッション。
京都市北部や滋賀県から通っていた契約社員は大阪への通勤が難しくなり、泣く泣く数名の雇用契約を打ち切る面談をしました。
ここでも、結論を急ぐあまり彼女らの話しを充分に傾聴することができず、後味の悪い面談体験でした。

2013年(48歳) コールセンター運営会社に出向(東京)

グループ会社からさらにその傘下の別会社に出向。48歳にして、人生初の東京生活です。
部長になりたくてなりたくて、その一方で会社からは干されている事にも気付いていて、二度目のキャリアプラトーに悩んだ時期。
渋谷と沖縄市で計70名ほどのオペレーター(全て契約社員)の労務管理をすることになりました。
コールセンターですが、自身は電話対応することなく、ひたすらメンバーとの面談を繰り返す日々で、ここで傾聴力が大いに鍛えられたと振り返っています。

2015年(50歳) ラウンダー派遣会社に出向(名古屋市)

親会社をクライアントとし、その要請に従い量販店に派遣されるラウンダー(店舗巡回者)の労務管理マネジャーとして着任し、現在8年目となります。
昨年、56歳で本籍会社の役職を勇退し、給与もダウンしましたが、出向先では継続して『マネジャー』と呼ばれています。
役職者への『さん付け』が当たり前の企業も増えているなか詰まらない話しですが、同じ部下からある日突然に『さん付け』されるよりは、この会社に居る間は『マネジャー』と呼んでもらえます。

ここでは約70名の契約社員の労務管理を担当し、入退社から契約更新、正社員転換、考課査定、就労管理や健康管理をしながらメンバーとの面談を実施しています。
2019年にキャリアコンサルタント資格を取得し、メンバーとの面談力もかなり向上したと自負しています。

ただし、名古屋で7年半、単身赴任歴も10年目となり、慣れが馴れとなり、飽きたわけではありませんが毎日の仕事に新鮮味がなくなってきました。

上記に書き綴ってきた自身の『キャリア』ですが、これは過去の、今時点までの狭義の『キャリア』です
プロティアンキャリア理論では、『キャリア』は過去の軌跡のみならず、これから自身が歩んでいく未来も『キャリア』と呼んでいます。

あと2年半で60歳=還暦ですが、勤め先の会社では早くに定年が65歳となり、60歳は通過点に過ぎません。
ただし、社内資格は『勇退者』から『エルダー』となり2段階目の給与ダウンが待っています。
そのダウン分を少しでも補う為、60歳で『週末起業』することが夢です。
いや、夢ではなく、それに向けて僅かずつですが動き始めています。

今回のブログは、いつもと較べてかなり趣向の異なるものとなってしまいました。
近いうち、ブログ以外の場で発信する機会を与えていただき、自身の経歴を紹介することになろうことを想定して、整理かたがた書かせていただきました。
ここまでお読みいただいた方には、時間の無駄となってしまいましたことをお詫びします。

明日火曜日の音楽ネタ、また来週月曜日のキャリアネタは、1000文字の通常版でお届けします!

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