過去の私に注ぎ足し継ぎ足しして、 今日の私がある。 鰻のタレみたいなもんだ 美味いかどうかは別として
あなたは、 私が薦めた映画『愛と哀しみのボレロ』を観ないまま死にました。 私は昨日、あなたに薦められた本『夜と霧』を読み終えました。 間に合って良かった、と思いました。 その日、何について話していたかは覚えていない。 私が「10年を1単位としたら、人生は8単位ほどよ」と言うと、 「10年って、1単位にするには長過ぎなんじゃないかな」と笑った。 そして、しばらく窓の外を眺めていた。 オレンジ色に染まる東京タワーが見えた。 「うん、そうだな。そうかも。たいして長くないかもしれな
その日、待ち合わせの場所に向かう足取りは重かった。 今日会わなければ、終わりの日を少し延ばすことができるのではないか、そんな思いを抱いていた。 潮の香りがする駅に着くと、私は柱の影に隠れるようにして、彼を待った。 改札口は一つ。 姿勢良く悠々と歩いてくる長身の影。 彼は、私と話すときには背を屈め、頭を少し傾げるようにする。その様が動物園のキリンのようだと笑った日のことを思い出した。 昨日図書館で読んだ本に、「生きているものは全て崩壊へと向かう」とあった。人を好きになる気持
階調の織りなす細やかな襞によって、 単色の世界は豊かに彩られている。 色の数々に溺れそうになっているときは、見上げてみるといい。 そこには、 果てしないモノクロームの空が広がっている。
風が大きなユリノキの葉を揺らしていた。 師と友と私と、 川の字になって芝生に寝転がった。 雲の中に白い太陽が見えた。 師が話し始めた。 人生は山登り。 霧の中を歩くことになるときもある。 その時は、何も見えない。 行く道も来た道も。 でもそれは、道がなくなったということではない。 道はある。 そして、霧はやがて晴れる。 友が「私、今日が最期の日でもいいな」と言って笑った。
久しぶりに再会した人に、 「君はね、やっぱりどこか危うい感じがするんだよ」と言われた。 「そうして身なりを整え、まともなことを言い、他人を思いやるような行いをしていても、いつ、何をしでかすかわからない、そういう危うさがある」というのだ。 四十を過ぎた今、私がそんな気配を漂わせているとすれば、それはただ自己の統制がとれていないだけのことであり、恥ずべきこと以外の何ものでもない。 私は惨めな気持ちになった。 男は「そこがいいんだけどね」と言ってニヤリと笑った。 この人
エイプリルフールの日、友達が死んだ。 飲み会ではたいてい一番端の席に居て、静かに酒を飲んでいた。だが、いったん話をふられると、洒落た言葉を紡ぎ出しては皆を大笑いさせた。あまりに辛辣な人物批評やどぎつい下ネタを披露して、困惑させるようなところもあった。 私は、彼の鋭さを避け、近づき過ぎないようにしていた。 一度だけ、二人きりで話しをしたことがある。 彼も私も人見知りする性質だったので、会話は弾まなかった。ひょんなことから、互いに物を書いていることが分かると、やっと
会社から帰ると、母が玄関で待ち構えていた。 「ああ、やっと帰ってきた。疲れてるところ悪いんだけど、ちょっと着替えてきて。手伝ってちょうだい」 家のそばのグリーンベルトの上で猫が死んでいる。 それを埋めに行きたいと言う。 ジーンズとカットソーに着替えて外に出た。 母は、大きな紙袋を持って立っていた。 ほら、と母が指差す先に、古びたタオルのような茶色い塊があった。 近づいて見ると、それは確かに猫だった。 アッと言ったように口が開かれ、目はギラリと天を見ていた。 自分が死んだこ
その教師は、公立校の受験を薦めてきた。 私学に進学したいと言うと、 「あっ、そ。じゃあ、こちらとしては何もしないから」と言った。 はい、と言うしかなかった。 ある日、 「受験校に提出する書類をお願いしたいのですが」と声をかけると、教師は「はぁ?めんどくせーなー」とニヤニヤ笑いながら言った。 不快だった。 だが、ふざけているのだと思って 「えー、そんなこと言わないで、お願いしますよ~」と、私は笑いながら書類を差し出した。 教師は急に真顔になって、低い声で「え?いやだよ」と言っ