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色々な戦いを繰り広げたウズベキスタン🇺🇿紀行〜後編〜【DAY58-60】|働きながら世界一周

前回のウズベキスタン前編に続き、今回は後編。

サマルカンドから列車に乗って3時間ほどで、ブハラに着く。

今回の中央アジア全体の移動については、地図の中の星を結んで移動したみたいな感じ。日本人に限らず世界中の旅人がよく使うルートだと思う。
カザフスタン、アルマトゥイ→(バス)→キルギス、ビシュケク→(マルシュルートカ)→キルギス、イシククル湖→(マルシュルートカ)→キルギス、ビシュケク→(バス)→ウズベキスタン、タシケント→(列車)→ウズベキスタン、サマルカンド→(列車)→ウズベキスタン、ブハラ ※いまここ

ちなみにブハラから、今度は列車でウズベキスタンのヌクスにいき、さらにカスピ海の沿岸の街、カザフスタンのアウタウまで列車でいく。

(こうやってみると、ブハラからアウタウまで結構な距離、、列車が地獄に感じても仕方ないかもしれない、、、)

今回はそこまでの旅行記を書きたいと思う。

中央アジアの行った街には星マーク!今回船が動いてなくてアゼルバイジャンはいけなかった、、

1.ブハラに着いた!

ブハラに着いたのが夜の22時ごろ。日の入りが遅い中央アジアにおいても、さすがに暗い。

ブハラ駅

ブハラはメインの旧市街と、駅や空港の距離が少しあるため、タクシーで移動しないといけない。
列車から降りて駅のプラットフォームを歩くと、多くのタクシーの客引きの人たちが待っていた。いつも、こういう客引きの人たちは無視をして、Yandexでタクシーを呼ぶようにしているのだが、今回結構しつこく話しかけてこられたのと、携帯の充電が切れそうだったので、Yandexだといくらでいけるけど、その値段でいけますか?と聞いてみた。

若い運転手のお兄さんが良いよというので、その車に乗ることにする。
日本人だというと、弟が日本にいると言っていた。

ウズベキスタンの人で日本と関わりがある人は多いと思う。サマルカンドで、タクシーに乗ったときも、確かそのドライバーさんは3ヶ月間だけ北海道の東川町というところに留学していたと言っていた。そのまま日本に住みたかったけど、親に反対されちゃったんだって。だから今タクシーの運転手をやっているけど、やっぱり日本が恋しいって言っていた。その運転手さんには、記念に綺麗なウズベキスタンの1000スムコインをもらった。客で日本人を乗せたのは初めてで嬉しい、と言っていた。そんな風に言ってくれてありがたい。ありがとう。

話はもとに戻るが、乗ったタクシーは、旧市街に向けてスピードを上げて進んでいく。このお兄さん、運転は上手だと思うけど、なかなか荒い運転をする。車線の真ん中を結構なスピードで走るものだから、隣の車にぶつからないかどうかヒヤヒヤした。

それでも30分かからないくらいで、車はホテルについた。
辺りが真っ暗で、最初ホテルの入り口がわからず、全然知らない人の家に入り込もうとしてしまった、危ない。

ホテルのフロントの方はとてもフレンドリーで優しかった。そして、ウズベキスタンらしい壁画が描かれていたり、螺旋階段があったり、素敵なインテリアだった。今回も個室ホテルに泊まった。

ホテルの雰囲気
素敵な壁画
部屋の中

2.ブハラという街

ブハラという街は、ウズベキスタンの中でも、古代より栄えたオアシス都市で、旧市街地全体ががユネスコの世界遺産に登録されている。

そんな街だけあって、歩いているだけでタイムスリップしたような気分になれる。これまでウズベキスタンで訪れた中で1番好きかもしれない。(同じように、ウズベキスタンのヒヴァという街も、世界遺産に登録されているようだが、今回は日程が合わなくていくことができなかった。)

旧市街全体がコンパクトで、暑くなければ歩いても回れると思う。でも相変わらず太陽は燦々照りつけ、ちょっと歩くだけでもダメージが大きかったので、15分以上歩くところはタクシーを使うのが良いかもしれない。私は今回タクシーをつかまえられなくて、結局歩いたのだけれど。

午前中ホテルで仕事をした後、まずはホテルの近くにあったアルク城と、ボロハウズモスクというところに行ってみた。

アルク城は、歴代ブハラハーンの居城で、現在ののブハラの最も古い建造物の一つ。チンギス・ハーンによって城は破壊され、1920年のソビエト赤軍による爆撃でほぼ崩壊し、現在は一部分しか残っていない。

アルク城。全体が要塞ののようになっている

ボロハウズモスクは、1712年建立の王族専用のモスクとしてアルクの近くに建立された。立ち並ぶ20本のクルミの木柱は長さ12mで中央アジアのモスクで最長らしい。クルミの木の模様と天井の色合いがなんとも美しかった。

ボロハウズモスク。中はお祈りしている人もいた
モスクの中

その後お昼ご飯を食べようと、地元の人もよくいくようなご飯屋さんに行った。ウズベキスタンでよく食べられているシャシリクという串刺し肉を食べてみたくて、それを頼んだ。とにかく喉が渇いていて、ジュースを頼んだら、紙パックがまるまる出てきて笑った(笑)

紙パックまるまるジュース。160円くらい

シャシリクはとてもお肉が大きくて、そして見た目以上にお肉が柔らかくてジューシーで、とてもおいしかった!ちなみに普通のお肉とつくね肉みたいなやつの2種類を食べたのだけれど、どちらも本当においしかった!(小学生みたいな感想文でごめんなさい。でも本当に嘘なくおいしかった)

シャシリク。でかい!

ただ、頼む量を間違えて、合計4本の特大串刺し肉を食べたので、最後の方はお腹いっぱいで泣きそうだった。ここらへんの出てきたものの量と向き合わなければいけない問題は1人旅の永遠の課題な気がする。でも、全部食べ切った私、えらい!

その後暑すぎるので、ホテルに戻って一旦休憩した後、夕方の少し暑さが落ち着いてきたタイミングでまたお出かけをした。

カラーン・モスクとカラーン・ミナレット、ミル・アラブ・メドレセなど数々の有名遺跡が集まっている観光地エリア。ここもホテルから歩いて20分くらい。

ミナレットが見える有名なエリア
カラーン・モスクの中心に凛とそびえたつ1本の木

周辺にはお土産屋さんが立ち並んでいるが、お昼間の暑い時間帯はあんまり人がおらず、夜になると賑わってくる。私は17時過ぎくらいに行ったけれど、まだまだ暑い時間帯で、少し行くのが早すぎた。それでも、遺跡等は美しかった。

歩いていると、日本人の2人組男子に出会った。今回中央アジアで出会う日本人男子2人組は2回目。日本人ですかって言われて、はいって言って、差し障りない話をした(笑)

3.新種の押し付け売りおじさん

お土産屋さんのエリアを歩いて抜けると、ウルグベク・メドレセなどのモスクが並ぶエリアがある。エリア全体の景色が本当にタイムスリップしたみたいで、歩いているだけで楽しいなーと思いながら歩いていたら、ウズベキスタン人のおじさんに話しかけられた。

ウルグベク・メドレセ

最初無視していたら、「日本人ですか?うちで奥さんがいま美味しいピラフをふるまっていて、他の日本人も3人くらい来るから、来ない?うちの家は歴史ある家屋でとても良いところだよ」と言われた。

私本当にバカだと思うんだけれど、その言葉を信じてしまったのだよね。

結果、行ったら他に日本人なんていなかったし、まあ普通の家だったし、娘が作ったウズベキスタンの刺繍を買わされて、ピラフ代まで払わせられた。合計で3,000円くらい。せめてピラフはごちそうしてくれ!(笑)

いただいたピラフ

というかやっぱり、小学校で教えられた「知らない人にはついてっちゃダメだよ」という教え、当たり前だけど、本当にそうだと思う。おじさんはこうやって常套手段で商売をしているのだろうけど、娘や息子に対して恥ずかしいと思わないのだろうか?そういうものなのだろうか?

ただ、まあそこまで根が悪い人ではなかったし、奥さんとの馴れ初めを聞いたり、ウズベキスタンのお茶文化の話を聞けたり、話は面白かった。だけど、やっぱり嘘つかれたり騙されたりするのは気分があんまり良くないなって思ったし、ピラフも普通だった(笑)

おじさんの家を出て、もう1回観光地エリアに戻ったら、陽が傾き始めていて、空が赤く染まっていた。

陽が傾き始めるブハラの旧市街
ミナレットのエリアも少し暗くなってきた(ライトアップもきれいみたい!)

あー綺麗。この景色が見れたのだったら、まあ騙されたのも悪くないか、と前向きに考えようと思った。

4.ブハラからヌクスへの地獄列車

ブハラ3日目の早朝に、またもやブハラ駅に向かい、ヌクスという都市まで列車で向かう。ヌクスには何があるわけでもない(美術館は面白いらしい)のだけれど、アウタウという街に行くための中継地点。

ヌクス駅

朝8時くらいの列車に乗って、ヌクスにつくのが夜の20時くらい。計12時間の長旅だ。

列車は寝台列車になっていて、4人のコンパートメントと、狭い廊下を挟んで、列車の進行方向向きの2段ベッドが1セットある。私は4人のコンパートメントにすると、隣の乗客と話さなければいけなくなる状況が嫌だったので、2人用ベッドの下段の席をとっていた。

列車の座席

ウズベキスタンの列車はほぼ満席なことが多く、そして皆さんとにかく荷物が多い。大きなダンボールみたいなものを持ち込んでいる人もいるし、大量の食料を持ち込んでいる人もいる。みんな何でそんなに荷物多いんだろう。そしてみんな家族や友達など、賑やかな乗客が多い(1人客はあんまりいない)。子供や生後間もない赤ちゃんもたくさん乗っている。

列車の中で、もちろん私は仕事をするつもりでいたのだけれど、電車に電源があっても使えなかったり、ちょくちょく電波が通らなくなったりするので、なかなか仕事するには辛い状況だった。そして何より、暑い。
これがウズベキスタンの列車が地獄列車と言われる所以の1つなのではと思うが、ほぼエアコンは効いていなくて、わずかな窓からの風でなんとか涼しさを感じとれるレベル。つまり停車駅やすれ違いで列車が止まったりすると、もう最悪だ。サウナにいるみたいな感じで、じっと汗が流れるのを耐え忍ぶ。

そして、iphoneの充電もあまりに無駄にはできないため、結果やることがない。ただ、ベッドに寝転び、暑さと戦いながら、うとうとしたり、少し本を読んだり、私の場合メモ帳でブログを書いたり、ちょっとメールに返信したり、くらいしかできない。

車内では、売り子さんがお水やジュースなどを販売してくれている。ただ、そのラインナップも独特で、干物みたいな魚とか、白い液体(多分ウズベキスタンの飲み物)とか、あとひまわりの種(笑)ウズベキスタンの方々はそれらを慣れた様子で買ったりしていたが、私にはまだ上級者すぎた。汗拭きひんやりシートとかスムージーとかそういうものを売って欲しかった。贅沢ミーハー病ですな。

そんなこんなで暑さも乗り越えて、列車は少し遅れて20時半ごろにヌクスの駅に着いた。

5.夜のヌクスの駅にて

ヌクスの駅では、カザフスタンのアウタウ(正確にはマンギスタウという駅)までの列車のチケットを買うというミッションがあった。ただ、事前に日本人の方が書いているブログなどを見ても、色々と情報が錯綜して、結局何時に列車が発車するのか、そしてヌクスからマンギスタウまで直通の列車があるのか、などよくわからなかった。

なので、ヌクス駅のチケットカウンターに行って直接聞いてみることにした。チケットカウンターは、1ブースしか空いておらず、そして混んでいた。うまく相談できるか不安を抱えながら自分の順番を待つ。

そしていよいよ自分の順番が来た。英語でマンギスタウまでいきたいです、と伝えると、カウンターのおばちゃんは困惑した顔をしていた。そして、ウズベキスタン語なのかロシア語かで何かを喋っていた。う、、わからん。
翻訳アプリで喋ってもらったけれど、それでもよくわからなかった。ただ、今は予約ができないということをなんとなく伝えたいようだった。

困った、、私はアウタウまで辿り着けないかもしれない、、見放された気分だった。

そこにいても、何もならないので、急遽ヌクスのホテルを予約して、ホテルにてゆっくり作戦を立てることとした。

またもや駅からタクシーでホテルまで移動する。今回のホテルはホステルタイプ。だけど、部屋には誰も他のお客さんはいなかった。

色々とネットで調べた結果、ネットでチケットが予約できそう。そして、ヌクスについたのは水曜夜だったけれど、金曜発の列車があることがわかった。

私が予約した方法はこれだ。どちらもカードで決済できて、便利。

①NUKUS(ウズベキスタン)→BEINEU(カザフスタン)
 ウズベキスタン鉄道予約サイト
②BEINEU(カザフスタン)→Mangystau(カザフスタン)
 カザフスタン鉄道予約サイト
 ※マンギスタウ駅は、「aktau」という表記名。これが最初わからなくて、
  私は途中駅で降りるという失敗を犯してしまった

金曜の7時過ぎに、ヌクスを出発し、夜の20時ごろにベイニャウに着く。そして、ベイニャウを21時半ごろに出て、翌朝にマンギスタウにつくというスケジュールだった。

長旅だけれど、とりあえず予約ができて一安心。

6.不便を楽しむ力

金曜の出発に向けて、その前日の木曜日は仕事をしたり、ヌクスの街を散歩したりした。

ただ、ヌクス自体とてもシンプルな街であるのと、これまでのウズベキスタンの都市の中でもさらに暑いので、あんまり大したことはできなかった。

コーヒースタンドでコーヒーを買ったり、なくなりかけていたスキンケア化粧品を韓国コスメが売っている小さい商店で買ったり、カフェでケーキを食べたりした。本当はケーキが食べたかったわけではないけれど、ケーキしかないと言われたのでしょうがなくすごい色のケーキを食べた。カフェで仕事をしたかったのだけれど、あまりそういう環境じゃなかったので、結局ホテルに帰って仕事をすることにした。

すごい色のピスタチオケーキ

またもや暑さのせいか、お腹の調子が悪く、体調は万全ではなかった。お昼に食べたピラフはほぼ食べれず、残してしまった。おじさんごめんなさい。。

そしてホテルに戻ると、なぜか部屋の電気がつかない。クーラーもつかない。パソコンの充電もできない。スタッフに聞いてみると、地域の停電ということだった、こんなこともあるのだなあと思いつつ、また何もできないことで悶々とする時間、、、ホテルのガレージのようなところで、わずかな風を感じてただ座っていた。いろんなことが前に進まないで焦りもあったけれど、諦めて前向きに捉えるしかなかった。

ホテルのガレージでしごと

誰もいなかったホステルの部屋には、20代前半くらいの若い男性が新しく入っていた。聞いてみると、同じ列車でヌクスからアウタウに向かうという。彼はオーストラリア人の学生で、私と同じようにいろんな都市を旅していて最終地点のイギリスに行った後、9月ごろにオーストラリアに戻るんだと。

色々と話をしていたら、どうやら私が考えていたアウタウからアゼルバイジャンのバクーへ、カスピ海を越える船は、今クローズしているらしい。彼も同じルートで行こうと思っていたけれど、急遽予定を変更して、ジョージアまで飛行機で行くことにした、と言っていた。

こういう旅人同士の情報交換ができるのは、本当にホステルの良いところだと思う。明日同じ列車なら、タクシーシェアして一緒に駅に向かおう、という話になった。

夜20時ごろになって、急に電気が復活した!クーラー使えて電気が使えるって最高だね!って喜び合った。何もないより、不便な方が、喜びや幸せがたくさん感じられて良いのかもしれない。

7.ヌクスから列車でカザフスタンへ

翌朝、6時過ぎにホステルを出発する。タクシーで15分くらいで駅に着いた。
オーストラリアの彼と私は違う車両だったので、お互い色んな意味で頑張ろう(笑)と言って、列車に乗り込んだ。

ブハラからヌクス駅の地獄列車で1度経験していたので、要領は得ている。今回も、前回と同じく2人寝台の下段ベッド。大きい1.5リットルの水を買って、戦闘準備は完了だ。

知らなかったのだが、寝台列車の寝台は、机と椅子に変形することもできて、今回の私の席は、最初机と2つの椅子になっていた。これは仕事がしやすくて良さそうだ、と思い1つの椅子に座って仕事をしていたら、途中で乗ってきたおばちゃん軍団の1人が、あと1つの椅子に座ってきた。

おばちゃん軍団

ウズベキスタンの列車では、人と人との境界線があんまりなかったりするので、例えば上段の席の人が下段の席に一時的に座るとかは全然あり得る。最初私もあんまり気にせずにいたのだが、急におばちゃんが私に対して、あなた上のベッドで寝なさいよ、と言ってきた。いや、私は下段がよくて下段の寝台のチケットをとっているのに、そのおばちゃんに命令されるのは筋違いだと思い腹が立った。言葉は通じないけど、ジェスチャーで、私はここの席のチケットをとっているという話をすると、そのおばちゃんは諦めて同じグループのおばちゃんがいた席に移動した。

よかった、と思っていたら、今度はまたそのおばちゃん軍団の、別のおばちゃんが私の席にやってきた。そして、また同じ問答の繰り返し。
そのおばちゃんは、だいぶふくよかな方で、きっと2段ベッドの上段には登れないだろうな、と思った。だから少しだけ良心が傷んだし、これは私のわがままと自己中を発動してしまっているのかと自問自答した。なんて私は思いやりのない人間なんだろう、いや、でもおかしいよな、、、どうしようか悶々としていると、おばちゃんは、勝手に私の席で足を伸ばして寝始めた。やっぱりずうずうしいしこれを野放しにするのは違うと思う。それで私は駅員さんを呼び止めて、困っているという話をすると、駅員さんがそのおばちゃんに話をしてくれて、私は無事に席の平和を取り戻すことができた。

多分1時間以上の戦いだったと思う。私は座席を寝台の形に変え、快適に寝転がることができて、心から良かったと思った。そしていつの間にかそのおばちゃん軍団はいなくなっていた。

列車の旅はまだまだ続く。。次回はアウタウへ!


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