Week End
沢山の人が歩くデパートで、僕は途方に暮れていた。
今日、僕は確かにこの場所に用事があり、夜には優雅な食事を楽しむはずだった。
そう、「はずだった」のだ。
『別れてください。今日は行けません。ごめんなさい』
彼女からそんな連絡が入ったのは、今朝になってからだった。
2人の記念日だから、思い出にプレゼントを買い、ちょっと奮発して食べたことのないフレンチ料理を予約して、楽しい時間を過ごすはずだった。
人と人の心の溝は、知らないうちに深くなっていることがある。まさにそれを体感した瞬間だった。
気づけば僕は、予定通りの時間に家を出て、デパートに向かい、香水のコーナーへ向かっていた。
あたかも、予定通りすべてをこなすつもりかのように。
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「何かお探しですか?」
当然のごとく、僕は1人の店員さんに声をかけられた。
香水のお店ということもあるのだろうか、心なしか店員も大人っぽい綺麗な雰囲気の女性が多い。
「あー…まあ、はい」
「プレゼント用ですか?」
女性用の香水を、しかも男性が自宅用に買うことなどほぼないと思うが、店員というのは訓練されたものだ。
「…はい」
買う相手などいないが、反射的に僕はそう答えていた。
「なるほど~、香りはどういう系統の物をお探しですかね~?」
「あ~~えっと~~~」
よせばいいのに、僕はそのまま店員さんの対応を受け入れた。フルーツ系、フローラル系、シトラス系…様々な香水を試したが、正直匂いのことなどほとんど記憶にない。
店員さんはいかにも大人の女性という感じで、美人で、話し方もとても丁寧で、親切だった。
そんな店員さんに、僕は終始目を奪われていた。
結局、誰にあげるでもなく、僕は香水を買うことになった。
「お相手の方、きっと喜びますね。とても真剣に選んでらっしゃるようでしたから」
本当は言われるがままにしていただけだったが、どうやらそういう風に見えたらしい。
「そ、そうだといいんですけど…ははは…」
そう言って笑った僕の顔は、明らかに引きつっていた。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
店員さんはそう言うと、深々とお辞儀をした。
さっきまでの憂鬱な気分は、いつの間にか少し晴れていた。が、自分の中にまだもやもやが残っているのは否定できなかった。
この感じはいったい何だろう。
誰にも渡せない香水を手にしているからか、予約したレストランをまだキャンセルしていないからか。それとも、新しい出会いに心を動かされたからだろうか。
「あ、あのー…」
「はい?どうなさいましたか?」
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……予想外の展開になった。
僕は予定通り、フレンチ料理の店の前にいた。
数分後。
「ごめんなさい、お待たせしました~」
…そう。さっきの店員さんだ。
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『あ、あのー…』
『はい?どうなさいましたか?』
『こ、この後って…何か予定ありますか?』
『この後…ですか?』
『れ、レストランを予約してるんですけど、一緒に行く人が急遽キャンセルになって…よかったら一緒にどうですか?』
『え…?』
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はっきり言えばナンパなのだが、よくわからないノリと勢いで、思わず誘ってしまった。しかも、
「まさかオッケーされるなんてなぁ…」
全く期待もしていなかったから、「仕事が終わり次第向かう」と返事をもらった時は冗談だと思った。
「え?何かおっしゃいましたか?」
「あ、ああ…いえ、なんでもないです」
僕はどぎまぎしながら、レストランの入り口のドアを開けた。
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「ん~~~~~!とっても美味しい♪」
見たこともないような高級料理と、店の雰囲気に圧倒されている僕とは対照的に、店員さんは楽しそうに食事をしていた。
「そ、それならよかったです…」
もし彼女と来ていたら、と思わず僕は考えてしまった。大学生のカップルが来たところで、終始緊張しながら時間を過ごしていたかもしれない。
目の前の「大人の女性」である店員さんは、楽しむ余裕があるようだ。
「本当に美味しいです!お誘いいただいてありがとうございます♪」
どこまでも丁寧な接客の感じが抜けないのが、接待感があって違和感を覚えてしまうが。
「あの…えっと…」
「あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。高本彩花と言います。よろしくお願いします」
「彩花…さん。こちらこそ…」
にっこりと笑うその顔は、果たして彼女の本心なのか、それとも店員としての社交辞令なのかは、僕には到底察することができなかった。
ただ、素敵なその表情が見れて、素直に嬉しかった。
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ワインを飲むと、アルコールが回り、緊張もだんだんとほぐれてくる。
僕たちの会話が、少しずつ弾み始めた。
「え~、学生さんなんですね!いいなぁ~楽しそう~」
「楽しいですよ~お金はないですけど」
「あはは。お金ないのに、こんなとこ来て大丈夫なんですか?」
「このためにバイト頑張ったので~、まあ相手はドタキャンしちゃいましたけど」
つい色々と話してしまいそうなくらい、彩花さんは話しやすい相手だった。
「そういえば、なんですけど」
僕は、一番気になっていたことを思い切って聞いた。
「その…なんで来てくれたんですか?」
さっきまで客と店員という関係だったことを忘れるくらい、僕たちは打ち解けた雰囲気になっていた。だからこそ、尚更気になってしまったのだ。
「ん~~」
彩花さんは考え込むような仕草をしたが、その顔は笑っているように見えた。
「…あなたに興味があったから、ですかね?」
「えっ…」
顔の火照りと心臓の鼓動が速くなっていく。
酔っているからなおのこと、僕の顔は僕の思う以上に赤くなっていたと思う。
「うふふ。お顔が赤いですよ?大丈夫ですか?」
「あ…その…」
さっきまでの饒舌が嘘のように、僕はわかりやすく動揺した。
「本当はですね~、なんだか落ち込んでるように見えて。彼女さんに振られて、ドタキャンされたとか、そういう感じですか?」
「うっ…」
あまりにも図星すぎて、僕は絶句するほかなかった。
「ちょうど予定も空いてましたし、香水のお礼にと思って。ふふ」
そう言うと、彩花さんはまた丁寧なお辞儀をした。
「ごちそうさまでした。ここの会計は私に持たせてください。誘っていただいたのも何かの縁ですから、ね?」
さっきまで「店員」だった彩花さんは、今や僕の前に一人の「女性」として座っていた。
なんだか不思議な気持ちだったが、彩花さんに声をかけて正解だったな、と心の底から思っていた。
「そ、そう言われても…僕が誘ったんですし、予約したのも…」
「いいから!ここは大人に任せておきなさい♪」
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結局彩花さんがご馳走してくれたので、僕は店を出てからも何度もお礼を言った。
「こちらこそ、今日はありがとうございました!楽しかったです♪」
こんな素敵な女性に、こんな風に言ってもらえるなんて…数時間前の僕に伝えたところで絶対に信じないだろう。
と同時に、彼女との破局の悲しみはすっかり忘れていた。
なぜなら…いや、考えていても仕方ない。
ここは思い切って…!
「あ、あの!よければ僕と…」
すると、彩花さんはいたずらっぽくにやりと笑った。
「本日はありがとうございました。またのお越しをお待ちしております♪」
彩花さんはすっかり「店員さん」に戻り、また丁寧にお辞儀をした。
「は、はは…」
敵わないなぁ…大人の女性には…
顔を上げた彩花さんは、そのままくるっと踵を返し、街灯の向こうへ消えていった。
僕はまるで、一晩の夢を見ていたかのようにはっと我に返ると、手に持ったチェリーブロッサムの香水を眺めた。
きっとこれを見るたびに、今夜のことを思い出すに違いない。