マガジンのカバー画像

タナトフォビア

87
タナトフォビアではない者にはタナトフォビアを真に理解することはできない。なぜならば「それを理解する=タナトフォビア」だからだ。理解した時、既にその者は呪われている。
運営しているクリエイター

2020年11月の記事一覧

タナトフォビアは共感に飢えている。

タナトフォビアは共感に飢えている。普通の人とは会話が成り立たないからだ。だからまずタナトの歩むべき最初の一歩は仲間の存在を「知る」ことだ。孤独が過ぎると考えが滞るから。別のタナトに触れる機会は思考の停滞を防ぐ。それで終わりではないが、まずは一歩前進としよう。

発作の頻度が週に一度を越えない人が「しんどい」「忘れたい」と言うのと、発作の頻度が週に何度も起きる人の「しんどい」「忘れたい」は相当に違うだろう。

発作の頻度が週に一度を越えない人が「しんどい」「忘れたい」と言うのと、発作の頻度が週に何度も起きる人の「しんどい」「忘れたい」は相当に違うだろう。この頻度の差からくる人生の浸食具合は同じタナトとして扱ってはいけないぐらいの、筆舌に尽くしがたい壮絶な世界だ。

インターネットが出来て30年。前の時代からは想像も出来ない代物だろう。

インターネットが出来て30年。前の時代からは想像も出来ない代物だろう。30年でも革新は起こる。自分個人の知では絶望でも「人類の知」の可能性を捨てる必要はない。問題は技術よりも人類が興味を向けない動機の弱さだ。タナトの「死を見れる性質」はその解決の鍵になるんじゃないか。

多くのタナトは誰にも言わずに仮面をかぶって生きている。

多くのタナトは誰にも言わずに仮面をかぶって生きている。友達、家族、先生にも本心を言えないまま、何か没頭できるものを求めて人々に混ざろうとする。死の恐怖の方が遥かに恐ろしいから、その苦しみには耐えられる。何年も何十年もやってきた人生の基本が「偽りの仮面」だ。

タナトに2種類の治療法を。

タナトに2種類の治療法を。恐怖のパターンはあるのだから意識を鈍らせる薬で対処できるはず。望む者には恐怖の忘却を。逆に最近忘れているので意識できるような薬を、と。そういう「コントロールを中心とした医療」なら俺は受ける。問題は薬を出す権限を持つ医師の理解が皆無な点だ。

心の底から嫌だという思いを初めて知った。

心の底から嫌だという思いを初めて知った。叫ぶほどの恐怖を知った。唐突に無自覚から自覚した。望んでそれを得たわけじゃない。死ぬほど嫌だけど、それが真実だから命を懸けても目を背けられない。気が狂わんほどの恐怖の中にしか真実が見いだせない、タナトは真実に生きる狂人だ。

己の死ではなく「他者の死」は経験できる。

己の死ではなく「他者の死」は経験できる。その悲しみを乗り越えるため「死を受け入れろ」「目の前の生活を見ろ」「忘れろ」という社会通念が出来る。人は死を「恐怖」ではなく「悲しみ」で取り扱うんだ。だから「死を見るな」というのが「正しいこと」として社会では扱われる。

仮に不死があったとして、それが皆に配られるか?

仮に不死があったとして、それが皆に配られるか? ワクチンのように全員に渡る?「ワクチン待ち症候群」だ。思考停止した民衆心理であり、大衆がタナトと違う以上それは得難い。そして得難いものほど得られる者は少数だ。道は待っていても与えられない。自ら動く意思は必要だ。

常に可能性のある道を持つ。無理なら、常に可能性のある道を考える。

常に可能性のある道を持つ。無理なら、常に可能性のある道を考える。無理なら、考える力を磨く道へ行く。無理なら、それが出来る心を鍛える道を持つ。「今は考えることすら出来なくとも、〇〇の訓練の後はその道へ続く」と。必ず可能性につなぐ道を持つことが己を支える武器となる。

皆が「忘れろ忘れろ」と言うが俺は「顔を上げて見ろ」と言う。言ってやる。

皆が「忘れろ忘れろ」と言うが俺は「顔を上げて見ろ」と言う。言ってやる。最も大事なことなんだ。これ以上大きな問題は無い。人生最大の問題を見ない人々の何が正常か。怖い物に蓋をしたって死は必ず来るんだ。常に死の「解決」の可能性に足をかけて生きることこそが健全な生き方だ。

レミングスだ。周りの人々が皆、「人生」という集団自殺する流れを進んでいる

レミングスだ。周りの人々が皆、「人生」という集団自殺する流れを進んでいるようにしか見えない。その視点に気づいてしまったタナトはどうすれば良いのか。誰かに相談すればみんな言う「流れに乗れ」と。奈落の崖へ向かう行軍へと参加し、行先に気づいてしまった兵士の心境だ。

死生観の義務教育が無い。これは人間として必要ではないのか。

死生観の義務教育が無い。これは人間として必要ではないのか。「倫理的に問題」「生産性が低い」などと言われそうだが、そもそも死んだら倫理も生産も無い。そういうあらゆる価値の終点に死がある事が論点なのだが、その視点を実感出来ないのがタナトとの会話の一番のズレなのだろう。

死の対処は「逃避・回避・解決」の三つがある。

死の対処は「逃避・回避・解決」の三つがある。死を見ないようにする「逃避」。事故、病気、長寿など目の前の死の「回避」。不死を求める「解決」。この内の「逃避」と「回避」だけで人は安心する異常性がある。AIなら即気付く論理的矛盾だろう。その隙間を見てしまったのがタナトだ。

死を「回避」する道は多い。事故、病気を避け、健康、長寿を求める。

死を「回避」する道は多い。事故、病気を避け、健康、長寿を求める。人は目に見える死は回避する。でもその先には必ず死があり解決ではない。それなのに人は死の「回避」を重視するけれど「解決」を重視しない。これはおかしいんだよ。認識すらできない異常性があるんだ。