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幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』第七章


第七章 オカン大劇場


 二〇〇一年十月のある日の昼。珍しく柏木さんから電話が鳴った。

「あのね、ちょっと相談にのってほしいことがあんだよねぇ。店のことなんだけどぉ。ちぃと一人でやれるようにできないかって思ってんだよねぇ」

「は、一人、ですか」

「ふん、近々ちょっと顔出してくんねぇかな、悪いんだけど、なるべく早く頼むよ」

 なぜ一人で店をやると言いだしたのか。まさかオカンが出て行ったのか。それとも体力的にも精神的にもいよいよ限界か。僕はいろんな想像を張り巡らせながらある夜『かしわぎ』へと向かった。

 夜十一時頃、店内に入るとなんと客はゼロ。最近はこのように忙しいはずの時間帯でも客がまばら、あるいはゼロなことが多く、少し心配になっていた。延し台の前にあるパイプ椅子に腰掛けて雑誌を読んでいた柏木さんが、ぼうっとした表情のまま立ち上がった。

「やぁ、呼び立てて悪いねぇ」

 そう言って瓶ビールの栓を開け、グラスを僕の前に置いた。
 静かすぎる店内に違和感を感じた。オカンがいない。

「あれ、おかあさん、どこへいきはったんですか」

「ふむ、ちぃと調子悪いみたいなんだよね。今日は上で寝てるよ」

 柏木さんの部屋は店が入るマンションの五階最上階だ。計量カップに酒を注ぎ、くいっと喉に流し込んだ。

「最近ね、腰が痛いつってずっと医者にかかってんだけどさ、どうも内臓の調子も悪いようなんだよ。いやねぇ、胃にポリープみたいなもんがあんだってさぁ。なんだかいっぱいあるらしいよ。最近あんまり食べないしさ、今回ばかしはちっと危ないかなと」

「そういえばここ数か月、けっこう痩せちゃってますもんね。顔色もイマイチだし、キレ味も半端じゃないし。で、医者はどんな処置をしてるんですか」

「むぅ、それがね、とにかく薬飲んでろって言うだけらしいんだよ。手術もなんもしないっつってね」

 一瞬、嫌なことを想像してしまった。まさか。

「俺もいよいよ覚悟がシツヨウかなって思ってんだよねぇ。まぁしかし、これくらいの面積なら一人で回せるような気もするし。どう、今ちぃと見てみてくんない。一人でやる場合、どういうセッティングがいいのかね」と言って手招きする。

 はじめて『かしわぎ』のカウンター裏に入る。

「炊事場と釜の位置は変えられないんで、それ以外をどうするかなんだよなぁ」

「そうですね。シンクもこれは幅七五センチの最小ですね。これでギリギリのスペースか。この狭さではオペレーションを触ることはやめた方がいいです。となったらメニューを減らしますか。種ものや焼き物はやめて、仕込みができるものだけにしてしまうとか。あと奥の小上りは予約制にしちゃうとか」

「なるほどね、それ、いいかもしんない。基本はつまみと冷たいそばだけ。あとは酒かぁ」

「ええ、その分、酒のラインナップをもう一度増やすとか。確か心斎橋時代はもっと多かったですもんね」

「そう、あんまり人気のないものは全部自分で飲んじゃったよ。関西のいい地酒ばかり揃えてたんだけど。でも俺も痛風持ちだから酒はあんまりよくないんだよなぁ」

「なら、これからは焼酎をもう少し揃えるとか。女性からも人気やし」

「それいいね。今おいてあるそば焼酎に麦や芋なんかも揃えてみようか。各種そば湯割りも用意して」

 そんな話をしているうちに、徐々に店内の空気が軽くなっていった。

「わるいね、ありがとう。さ、座っておでんでも食べてよ。それともそばがいいかい」

「わ、すみません。それではお言葉に甘えて大根とがんもどきと二八を」

 換気扇のスイッチを入れ、店内はいつものように風を吸い込む低い音が鳴り響いた。片手に平皿をもちおでんを菜箸で摘まむ柏木さんの丸い背中を見ていたら、なんだかおひとりで店を切り盛りするのは難しいようにも思えてきた。

 もしオカンが入院とか万が一ということがあったら、柏木さんはいったいどうなってしまうのか。仮に何とか頑張れても、柏木さんだっていつか立てなくなる時が来るはず。そうなったら店は終わりだ。というか、床に臥せる柏木さんの面倒をいったい誰が看るというのか。そんなだったら仕事中にぽっくり行くほうがよっぽど幸せか。僕の頭の中には、そんな想像がぐるぐると駆け巡るのであった。

 熱々の大根をはふはふ言いながら飲み込み、僕はこう言葉を吐いた。

「しかし柏木さん、今ふと思ったんですけど、やっぱり一人で店をやるのはちょっときつすぎるのでは、という気がしてきました。いくら店が狭くて、メニューを絞り込んだとしても、何かあったら自分に鞭を打つか、あるいは店を閉めるかしか道はありません。そりゃ若者なら何とかなるかもしれないけど、柏木さんの年齢ではやはり無理があるのではないかと。昔勤めていた中華屋の店主がよく言ってました。二人では三人分の仕事ができるが一人では永遠に一人分かそれ以下しかできないと。僕もいろいろ店をやってきて確かにそうだなと実感してます。えらそうに言ってすみません」

「ふむぅ確かに」

 数秒間、沈黙してこう続けた。

「でも、仕方ないんだよねぇ」

 と、その時である。カタカタカタと戸が開いた。なんとオカンである。髪の毛を手入れしてないせいか、さらにやつれているようにも見える。無言のまま、いつもののようにサンダルを引きずりながらカウンター席にドスンと座った。そして手に持っていたしわくちゃのタバコに火を点ける。

「おかあさん、どないですか、体調は」

「もう、どうにもならないよぅ。食欲はないしさ、立っているのもしんどいしさ。あたしゃ、もうこの世に未練はないよぅ」

 肘を突いてタバコを大きく一服したオカンは、乾いた声で咳き込んだ。

「タバコはほどほどにしたほうがええのとちゃいますか」

「いいんだよ、いつ死んだってさぁ。この人なんて言ってるもん。早く死んでくれって。そしたら四国の何カ所だか知らないけど巡るところがあるんでしょ。店を閉めてそこへ行くんだってさぁ」

 そう言うと柏木さんの表情が少し明るくなった。

「そう、そうなんだよねぇ。四国のお遍路に行ってみたかったんだよ。こいつが死んだらさ、いつでも行けるんだけどねぇ。あ、そういえばカワムラ君は四国を歩いたことがあるって言ってたよね」

 このお二人は普段そんな会話をしているのか。僕は恐る恐るオカンの表情を伺いながら話した。

「ええ、でもごっついい加減なものです。友達何人かと一緒に、ジーンズにリュックでふらふらと。みんな仕事もあるから一週間と決めていくんです。一日だいたい三、四十キロくらい歩いたかな。もう足の指やかかとから血が出るヤツも出てくるんですけど、それでも皆で助け合いながらとことん歩いてみる。こんな感じで二回行ったことがあります。まだ八十八ヵ所全部は廻れてないんですけどね」

「へぇそんな気軽にいけるんだ。で、歩いてみてどうだった」

「これがめちゃめちゃ幸せな気分になるから不思議なんですよ。歩き続けて疲れているはずなのに、昨日まで鬱陶しいと思っていた女友達なんかが可愛く見えてきたり、道端に咲いている名も知らない野花が眩しく見えたり、もう自分でも信じられないくらい元気になっていくんです」

「んん、歩くってぇのはやっぱりいいもんだね。俺も行ってみてぇんだなぁ」

「もうっ。あんたたちっ、いやだよぅ。勝手なことばっかり言ってんじゃないよ」

 柏木さんはおかまいなくますますのめり込んでいく。

「最近の四国巡りって、なにやら車で行っちゃうツアープランとかあんだってね。それはどうなのかな。あんまり意味がないような気もするんだけど」

「そうらしいですね。足が不調とか歩けない人にはいいと思います。観光バスも多いですし、専用のタクシーもあるらしいです。それくらい信仰されてるってことでしょうね。ま、僕らは信仰も何もなく、ただひたすら歩き続けただけですけど。これは元々、八十八カ所巡りをしたことがあるという人から、歩けばわかる、と聞いたから始めたことです。ならばと、実際に歩いてみたら幸福感みたいなものがどんどん湧き上がってきたというわけです」

「ふむぅ、間違いないよ」

 オカンはタバコを半分も吸わないうちにもみ消して、苦いものでも食べたかのような顔をしてこう言い放った。

「もうね、この人ったらさぁ、ちょいと目を離したらすぐに一人でどっか行っちゃうんだよ、いやだねぇ。カワムラさんが松阪でカレー屋やったときも一人で行っちゃったでしょ。あたしも食べたかったよ。あたしゃ絶対に忘れないからねっ」

 柏木さんは計量カップをちびり。

「四国のこと、またいろいろと教えてよ。ふふ、いいねぇ、ほんと行ってみたいなぁ」


 この二日後、僕はまた『かしわぎ』へ行く。するとこの日はオカンが立っていた。

「あぁ〜ら、カワムラさぁん」

 先日とは打って変わって、今日はなんだか元気そうである。

「どうですか、その後の具合は」

 するとオカンは、膝をカックンカックンとさせながら、いつものように舌足らずな美川憲一調で話し出した。

「それがさぁ、もうあったまくんだよねぇ。あれはやっぱりヤブ医者だぁあ」

「いやね、どうも医者の誤診だったっていうんだよ。なんとかっていう機械で写真を撮ったらなんにも写ってなかったってね。本当、ちょっとヤブっぽいかなって」

「いやんなっちゃうよっ。あのヤブぅっ」

 なんだそりゃ。
 よくよく聞けば、どうやら柏木さんはおかんの通院すべてに同行していたわけではないようである。ここのところやつれて顔色が優れなかったこともあり、完全にオカンの言うことを鵜呑みにしていた可能性がある。

 オカンの切れ味も日に日に鋭さを増しているうえに、今度は虚言もでだしたか。いや、もしかしたらずっと前からその癖があったのかもしれない。

 そんな簡単に医療のプロが胃の影を見間違えるとは思えない。この話はいったいどこまでが本当なのかよくわからないぞ。いやはや、本気で心配して損した気分である。

 柏木さんのみならず僕までオカン劇場に駆られる始末。


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