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幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』第五章

第五章 老いて移転


 二〇〇〇年二月。
 夕方四時頃、松阪の『THALI』で仕込みをしていたら岡本さんから電話がかかってきた。

「カワムラさんっ、柏木さんの新しい店、行って来ましたよっ」

 結局、柏木さんは郊外ではなく、同じミナミの島之内に引っ越した。

「ただね、正直あそこは不便だぁ。ひとまず最寄は日本橋か長堀橋なんですが、我々がわかりやすいのはやっぱり心斎橋だと思うんですよ。八幡筋を東へ行って堺筋を超え、しばらく行くと左手にスーパー玉出が出てくるんです。これが唯一の派手なネオン。それにしても心斎橋までけっこう距離があるなぁ、はぁはぁ」

 絶対にネガティブ発言をしないのがトレードマークの岡本さんが息を切らしながら嘆いている。当時の岡本さんは心斎橋から地下鉄御堂筋線で乗り換えなしの北部、緑地公園が家からの最寄り駅だった。長堀橋や日本橋は違う路線である。

「そのスーパー玉出の近くだそうですね。前に少しだけ話を伺いましたけど」

「ええ、すぐです。玉出を超えたらすぐに阪神高速の高架があるんですけど、その下に東横堀川があって、その手前を左へ曲がると五〇m先の左手にあります。道は暗くて、たまにおそらく飲み屋勤めかなんかのハングル語で話す女性が歩いているくらいで、普通に飲み食いしているような人はほとんどいません。玉出がなければ辿り着けないっ、はぁはぁ。

 でも、移転できてよかったです、引っ越しを手伝うつもりでいたんですけど、結局若手の常連客の方と引越し屋にやってもらったみたいで、はぁはぁ。店は前とそんなに変わらないサイズでした。前に『拓朗亭』さんから譲り受けたっていう石臼あったでしょ。あれで何とか自家製粉できないかって悩んでおられたんですけど、はてそんな場所あんのかなぁっ」

『拓朗亭』(たろうてい)とは、京都・亀岡のベッドタウンにある生粉打ち専門店のことである(*1)。僕がまだライター駆け出しだった一九九六年末頃、岡本さんの紹介で京都銀閣寺近くの戸隠流そば『實徳(みのり)』店主の粕谷さんと出会い、他三店のそば打ち衆と共に、京都山科毘沙門堂で「野だてそば会」なるイベントを桜が咲く頃に開催するというので取材(*2)に伺ったことがある。

(*1)『拓朗亭』 亀岡市の新興住宅街に一九八五年創業。当初は丼物やうどんもある麺食堂であったが、九五年に生粉打ち専門店とし、〇六年同市内国道九号線沿いに移転。十六年、同市稗田野町に移転し『無国籍蕎麦会席 拓郎亭』に改名)

出典 カワムラ独自取材

(*2)一九九七年三月、日本経済新聞大阪本社版夕刊に掲載

出典 「関西ネクスト(日本経済新聞大阪本社)」

 その他というのが、会の発起人でもある太秦の『味禅(あじぜん)』店主の日詰さん(*3)、南区『たくみや』料理長である皆川さん、そして『拓朗亭』店主の前川さん(現矢田さん)であった。

(*3)『味禅(あじぜん)』 一九九四年太秦にて創業。二〇〇〇年四条烏丸駅前に、〇七年そこからほど近い新町通仏光寺下ル岩戸山町へ移転。創業地が映画村に近かったこと、そばと酒をこよなく愛する店主が屈託のない人柄であったことから、数々の著名人も通いつめた。十六年閉店。二〇年に日詰さんご逝去。

出典 カワムラ独自取材

 この「野だてそば会」に柏木さんも行かれていて、それはそれはとても感動されていた。特に『拓朗亭』前川さんは当時全国的にも希少と言われた精度の高い生粉打ち(洗練された十割そば)をいち早く実現しており、その技術力とそばの香りの高さに柏木さんは驚愕していた。

 双方共を深くつないだのが岡本さんであり、いつのまにか前川さんから手動回転式の石臼を譲り受けるまでのご縁となっていた。柏木さんもいつかは自家製粉をと、今回の移転準備中もずっとそう話していた。

「あ、そうだ。柏木さんがおっしゃってましたよ。カワムラに厨房の配置などアドバイスが欲しいって。きっと石臼のこともあるんだと思いますよ。近いうち顔出してあげてください。


 後日の夕方五時半頃、心斎橋そごう百貨店前で岡本さんと待ち合わせる。商店街から八幡筋に出て一路東へ。堺筋を超え、島之内の領域に入ると嘘のように静かになった。

「江戸時代の島之内は今よりもっと広かったようですよ。西は堀江、四ツ橋筋あたりまで、南は道頓堀、北は長堀までだったとか。堀に囲まれたエリア全体ということですね。ミナミとは島之内のことだったというわけです。船場付近は商売、長堀界隈は職人、道頓堀は芸能。各所に花街が形成され二〇〇〇人以上の芸妓がいたそうです」

 今ではその面影を見ることはできないが、鄙びた居酒屋、ひっそりと佇む古民家、煤けたガラス戸の饅頭屋、木造平屋の八百屋など、人間の生活情緒と品格みたいなものが感じられる。剥き出しの欲望が犇めく心斎橋側とは異次元の世界だ。

 堺筋から三分ほど歩くと、島之内の守り神、スーパー玉出の電飾看板が見えてきた。

 そして次の角を左折するとすぐに『麺酒房 かしわぎ』の白い提灯が見えた。間口は以前と同様、幅二、三メートルしかなく、入口は引き戸タイプ。ワクワク気分で戸を開ける。

「あぁらあ、こりゃ二人揃って来たねぇ、こっち座りなさいよ」

 オカンが上機嫌に出迎える。まだ夕方六時頃なのに、すでに大勢の客で賑わいを見せていた。客層は相変わらずの、コロンが強烈な派手目のおねえさん、緩みまくった赤ら顔のバーコードサラリーマン、ほのぼのと酒を楽しむ中年男女グループなど。どのテーブルも声が大きいのは大阪式だ。

 岡本さんと僕は、百貨店で買った花をオカンにプレゼントした。

 新店は二階席がない代わりに、八席のカウンターの奥に小上がりがある。こじんまりとしたテーブルが三つ。照明はぼんやりとしたオレンジ色、BGMは以前のオールドジャズとは少し違ってオールディーズだ。

 カウンターの真ん中辺りに腰掛け、厨房を覗き込む。

「ふふ、いらっしゃい。どう、何か気づいたことあるかな。シンクや釜は前から使ってたもので。狭くてガスコンロを置く場所がないもんだから、戸棚の下に置いちゃってんだよね。焼けちゃわないかなって心配で」

 柏木さんは相変わらずゆっくりの動きだが、七〇歳とは思えないほど目は輝いていた。

「でも調理台は前より少し広くなってますんで、コンロの間隔をもう少し広げるといいと思います。そうすると熱も少しは分散できるでしょうから。それよりすぐ隣に食器の洗い籠が置いてあるので、そっちに気をつけて」

「あぁなるほどね。で、あと、どうにか石臼置けないかと思って、入口のあすこ、冷蔵庫を置いてあるあたりにスペースを設けたつもりなんだけど、よく考えたら原料を保管する場所がないことに気づいたんだよね。どうしたものかなぁと」

 見ると確かに冷蔵庫の隣に、六、七十センチほどのスペースがある。その隣はそばを延す台。

 挽きたて、打ちたて、湯がきたて、の三たてのそば屋は九〇年代半ばから今なお増え続けていて、二〇〇〇年あたりから自家製粉を看板にする店が全国的にも増えつつあった。

 この自家製粉に使う玄ソバは「ヌキ(丸ヌキとも)」といって、外皮(茶色い硬い皮。いわゆるそば殻)をむいた玄ソバを主な原料、あるいはそれだけを原料にした、色の明るいそばを打つことが前提のものである。これは大変デリケートなもので管理するのはそう簡単なものではない。

「『一茶庵』でそば打ちを習った者は、粉でもちゃんとしたいい原料を良い管理状態のものを仕入れることができるっちゃできるんだけど」

「なるほど、京都上賀茂の『じん六』(*4)さんなんかは、下手な自家製粉をするくらいならちゃんとしたたものを仕入れる方がよっぽどいい、とおっしゃってましたよ。湿度、臼の状態、回転スピード、メッシュ、様々なバランス感が重要で、単に挽きたてがいいとも限らないようです」と岡本さん。

『じん六』 一九九五年創業の生粉打ち専門店で、『拓朗亭』と並ぶ京都二大生粉打ち名店。店主杉林さんは、石臼開発、産地交渉、産地開拓、産地別メニューなどの先駆け。多くの次世代たちに強い影響を与えた。二〇二三年ご逝去により閉店。

出典 カワムラ独自取材

 と、そんな話で盛り上がっている時、突然シンクの方向から水が勢いよく吹き出し、カウンターの隅っこの席の方まで水飛沫があがり、そこに座っていた女性客二人が「きゃぁあああああああ」と声を上げた。

 直後、洗い物をしていたオカンが大声を放つ。

「あのさっ、こっちも忙しいんだよっ。ぎゃーぎゃー叫ばなくたってちゃんと聞こえてんだから、ちょっとくらい待ちなさいよっ、この馬鹿」

 な、なにがあったのか。オカンがにらみつける目線の先には、小上り席に座る中年男性三人グループが。そのうちの誰かが「あのぅ、ビールと酒蒸し頼んでるんやけどぉ」と声をフェイドアウトさせる。

「ち、いけね」と柏木さんがスローながらも慌てて瓶ビールを取り出し、小上り席まで持って行って頭を下げた。そして「砂ぎも酒蒸し」に取り掛かる。

 キレるオカンと慌てる柏木さん。そして注文忘れ。これらは心斎橋時代からの伝統であったが、そのオカンのキレ味ばかりが年々酷くなっているのはどうしたものか。

 と思ったら、今度は洗っていたグラスをシンクの底に激しく叩きつけて、再び水道の蛇口を思いっきりひねった。
 ドンッ、キュ、ジャッーーーー。

「きゃぁあああああ、つめたーい」ともう一度、女性二人組が驚いて立ちあがる。

 これはあかん。また客からクレームがあったどうかは知らないが、とにかくオカンが完全に振り切れてしまった。

 その直後キュキュッーーーっと車が急ブレーキを踏むように水道の蛇口を止め、オカンは小走りで小上り席のほうへ突進し、その客のテーブルの上にあった二本の空瓶をつかみ、まさか、と思ったが殴るまでは至らず、僕らはほっとするがそれもつかの間、オカンは身体をプルプルと震わせながらこう絶叫したのだ。

「あぁっもういやんなっちゃうっ」

 オカンは掴んだビール瓶の一本を一度テーブルの上に戻し、今度は口に指を突っ込み「ううぅっん」と唸り、再びビール瓶をつかみ、カウンター席に座るお客をドカドカと弾き飛ばすように突き進み、石臼を置けるかどうかと悩んでいた場所に置かれたケースに瓶を放り込んだ。ガッシャーーーン。

 その間、小上りグループのみならず、カウンターに座る水商売風の女性と中年サラリーマンもシーンと静まり返る。柏木さんがオカンを一瞥し、小さく舌打チッ。

 ビールケースの前でオカンはブツブツと誰かと対話するかのように何かを言っている。以前なら二階へ逃げると言う手があったが、今回はそうはいかない。ただ、立ち尽くすオカンに誰も声をかけることはできなかった。

 せっかくの移転祝いの場。徐々に客たちは会話を取り戻し、何とか平常の状態に戻っていった。二,三分すると、オカンは何事もなかったかのようにカウンターに入り、再び洗い物を始めた。

 岡本さんがぽつり。
「きっと忙しくてお疲れなんでしょう。ご高齢でお店をやるのは大変なことですね」

 柏木さんは砂ぎも酒蒸しを無事に提供した後、ようやく我々の注文したおでん各種と二八そばに着手し、最後に鴨ざる田舎そばに取り掛かった。

 ガスコンロに雪鍋を用意し、胡麻油をいれて白ネギをじっくりと炒める。そこにレア焼きの鴨肉五切れと柚子の皮を五ミリ加え、濃口醤油と太い削り節でとったつゆと、昆布と花鰹でとったダシを合わせたものを加えて少しだけ煮て火を切る。次に二八そばよりやや太く、色がわずかに黒い田舎そばを茹でる。前者の鴨汁をお椀に注ぎ、田舎そばはざるに盛ってできあがり。

 この冷たいざるを熱い鴨汁につけて食べる。鴨の濃厚なうま味、ネギと柚子の重奏ハーブ、外皮挽きくるみそばの野趣感、そして後抜けのいい辛口のつゆがたまらない。

 これにて今日の『かしわぎ』の会は〆とし、僕たちは店を後にした。心斎橋に向かってゆっくりと歩く。

「柏木さんはあの様子やと、爺さんになるまで大阪でそば屋をやる気ですね。これからもずっと、あの喉の渇くそばが食えると思うと嬉しいですわ」

「本当めでたいことです。郊外に行ってしまえば、きっとあれだけの客はこないだろうしね。それに何より住まいが店の上というのがよかったんじゃないですか。あの店の上、五階建てのアパートになってたでしょ。あの最上階にお住まいがあるそうなんです」

 岡本さんはスーパー玉出のすぐそばにある自動販売機で、まだ冬だというのに冷たいお茶を買った。僕はホットティーを。二人してその場で喉を鳴らして飲む。

「ぷっはぁ~。しっかしオカンちょっとキレ味増しすぎ。なんやどんどん痩せていってるようやし、顔色もあまりよくない。大丈夫なんでしょうか」

「確かに。柏木さん大変でしょうね。おかあさんは確か昭和三年頃の生まれで柏木さんより四歳くらい年上。決して若くはない。ちょっと心配ですね」

「いくらそのオカン凶暴につき要注意だと常連客はわかっているといっても、あそこまでいくとシャレにならん。あんなわざわざな場所なんだから、余計に客足が遠のいてしまいます」

「でも、もしかしたら、お二人にとってはいい老い方なのかもしれませんよ。だっておかあさんはお子さんもいないわけでしょ。今は独り暮らしの老人が急増しているというから、お二人で生きていけることじたいが幸せなのかも。七〇歳前後の年齢で飲食店をやるのはしんどいでしょうけど、家の階下に店があって、ああやって毎日いろんな人が来てくれて、大好きな酒やそばが常に目の前にある。きっと幸せな老後なんだと思います」

「そんな見方があるんですね。僕には老いというものがまったくイメージできません。離婚したとはいえ頭の中はずっとイケイケ」

「ふふ、身体が元気なうちはそんなこと想像すらできないもんです。でも、ご高齢のお二人がああやって元気でいてくれるから僕たちも楽しくいられるんですね。有難いじゃないですか」

「ほんまにそうですね。柏木さんは僕らにとって年齢的にも父親みたいなもの。どっかに帰巣本能みたいなものがあって、僕らはあそこをホームとしているのかもしれませんね」

 この時、岡本さんは三七歳。僕は三五歳。昭和七年生まれの柏木さんは六八歳になる年だった。岡本さんのお父さんはご健在のようだが、僕の父は僕が十四歳の時に他界している。

 店に通う理由は味や地の利だけじゃないということか。


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カワムラケンジ
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