蕎麦変人おかもとさん #13
第十三話 岡本さんの蕎麦屋便り
年が明けて2000年。依然、僕は松阪でお先真っ暗なまま、ただただ子供の顔を見たい一心で店をやり続けていた。
一方、岡本さんにも大きな壁が押し寄せていた。というのは勤めていたスポーツクラブが閉館してしまったというのだ。同社が経営するスイミングクラブに転勤したという。
二、三か月ぶりに岡本さんがやってきた。
「会社、いろいろ大変でしたね」
「ええ、サラリーマンですから、会社の言うとおりに何でもやらなきゃいけない。仕方ないですよ。でも、以前よりはゆとりができました。これで少しは蕎麦屋へも顔を出すことができると思います」
「よかったやないですか。蕎麦屋へ行く時間ができるのは何よりとちゃいますか」
「あ、そうそう、こないだ『じん六』さんと一緒に『ふじおか』さんまで行ってきましたよ。ますます磨きがかっててましたね。やっぱり最高です」
「うぉっ、また行ってきたんですか。長野、ええなぁ。それにしても『じん六』さんと一緒に『ふじおか』さんってすごいメンツですね」
「で、藤岡さんに、いろんなお蕎麦屋さんと来る兄さんだ、なんて言われちゃいましたよ。僕のこと名前で呼んでくれない」
「蕎麦変人だからですよ。規格外星人。ところでいろんな蕎麦屋って他はどこですか」
「ええ、実はその少し前に『なかじん』中村さんとも行ったんですよ。中村さんとはその後、奈良の『玄』さんへも行きました。あ、そうそう、中村さん、伏見稲荷から東山三条に移転されましてね。相変わらずセンスのいい店構えですよ。料理はどれも抜群。あの方はご飯もの一つとってみても全部おいしい。片っ端から食べてみたいです」
「岡本さん、ちょっと目を離したすきに信州連チャンですか。その行動範囲の広さと深さがたまりませんね。ほんま岡本さんに物を書いてほしいです。スイミングの仕事より絶対そっちがあってます」
「ふふ、それで『じん六』杉林さんとは、地産の原料で生粉打ちする駒ヶ根『丸富』、手挽きの十割が看板メニューの岐阜『胡蝶庵』も回ってきまして、みなさん実に個性的でした。で、この時、杉林さんの車が故障しましてね。長野道の姨捨サービスエリアだっけかな、凍死寸前っ」
「へぇ、杉林さんて確か蕎麦屋になる前は、飛行機の部品の貿易会社に勤めてたって言ってはりましたよね。趣味はバイクで。そんなメカの達人でも車が壊れるんや」
「あの方がタフ過ぎるんですよ。車は古いうえに、一日平気で千キロくらい走ってしまう。杉林さんの石臼使いを見ていると、回転数や落とす量、湯がき時間などは精緻すぎてもはやレーサーのよう。ゆがくのにゼロコンマ一秒違うと蕎麦の風味に影響するなんておっしゃるんですよ」
「んなもんF1のシューマッハですやん」
「いや、ほんと蕎麦界のシューマッハです。もっと凄いのが、その違いに気づくご常連の大学の先生がいるってこと。とんでもない方です。杉林さんもついていけないっておっしゃってました。笑っちゃいます」
「そういえば以前に『拓朗亭』前川さんと『じん六』杉林さん、水質の件で盛り上がってましたね。PHがおかしいとかで京都の水道局へ電話したという話」
「そうですよ、それって生粉打ちだけの問題じゃないらしく、うどんでも穴が開いてしまうのだとか。水が大事なのは湧水かどうかではなくて、PH濃度が必要なんだそうです。多すぎても少なすぎてもダメ。あと、やっぱり杉林さんの凄いところは製粉スキルです。一〇〇メッシュで九九.九パーセントの歩留まりをやっちゃうんです。そんなの聞いたことないってみんな驚いてますよ。通常は細かくても六〇メッシュとかでしょ。この微粉を実現できるところに杉林さんの凄みがあるんですよ。例のカスタム石臼ですわ」
「もう殆ど何を言うてはるのか僕にはわかりません。杉林さんの製粉室を見せてもらっても、なんか石臼を自作してておもろそうやな、くらいしか思えない。蕎麦ってもんは細かい粉やと味が出るんですか」
「それだけじゃないみたいなんです。杉林さんはその時々の蕎麦の様子を見て、粗さをコントロールしたり、時にわざと粗挽きを混ぜたりもするんです。それは画一的なものではなく、その時の蕎麦の状態に応じてセッティングしていくのが大事らしいんです」
「ますますレースの世界ですやん。恐ろしいほど繊細な世界ですね。誰にも真似できない。杉林さんと言えば産地の開拓も熱心にされてますよね。それとおいしい蕎麦に何か関係でもあるんですかね。問屋を経由したらあかんのかな」
「僕にもよくわからないんですが、どうも産地、農家の性格、その年の気候なんかで個性が違ってくるようです。そのことがわかってくると、同じ産地でも各農家の原料を混ぜてしまう問屋のものじゃ物足らなくなるんでしょうね。わかってくるほど、各農家の蕎麦のポテンシャルを引き出したくなるんだと思います」
「杉林さんにとって蕎麦打ちはメカの世界なんや」
「あ、そうだ、今度、杉林さんと一緒に産地訪問へ行くんですよ。一緒に行きますか」
「いや、僕は自分の店だけで精いっぱい」
岡本さんの蕎麦変人ぶりにもますます拍車がかかっていた。
「ふふふ、他にもようやく『せきざわ』に行ってきましたよ。前川さんと一緒に。いやぁ。すごかった。最高です。同じ生粉打ちなんですけど『ふじおか』とはまた違います。鮮やかというか上品というか。それに変わり蕎麦もやられてるんですよ。三種類の蕎麦を打っておられて、蕎麦三昧というメニューが人気です。あと、蕎麦菓子も毎月作り変えていて、これも風情はあるし味もいいし最高でした。
花衣という独特の天ぷらがまたすごいのなんの。網状になっていて、中にエビが入ってるんです。いったいどうやって作るのかって前川さんも興味津々でした。これは修業先の前橋『会席そば 草庵』仕込みらしいです。そっちは機械打ちの蕎麦なんですが、変わり蕎麦も料理も多彩で何度でも行きたくなるような店でした」
「『せきざわ』よさそうですね。確か、自家栽培もしてはる店ですよね」
「そうです。ご実家の畑なんだそうです。と言っても長野県の栄村といってもう殆ど新潟の県境にあって、車で何時間もかかるんだとか。店で使う分の一〇〇パーセントは無理らしいんですけど、それでもけっこうな広さがあるようです。
雪が解けたら畑づくり、夏に植えて、十月上旬に刈るんだそうですが、これが何と全部手刈りの天日干し。脱穀も昔ながらの方法で棒で叩き続けるのだそうです。考えただけでも面白過ぎるでしょ。それを聞いてからいただくとこれまた余計においしくて。いやはや、一度蕎麦の収穫もやってみたいものです」
「岡本さん、もうそれ以上は危ないです!蕎麦屋を通り越して蕎麦農家になってしまいますって。何度も聞きますけど蕎麦屋になる気はないんでしょ?」
「いやだから、うまい蕎麦を食わずに死ねるか、ってね。河村さんこそ、おいしいスパイスを見つけたら産地に行ってみたいでしょ。それと同じですよ」
「そんな僕なんて商売になってませんから。こだわってもしょうがないです。毎日のように行列ができる『じん六』杉林さんなんかとは次元が違い過ぎます」
「杉林さん、こないだたまたま夜中の十二時頃に店の前を車で通ったら電気ついてて。覗いみるとハンドピッキングしてましたよ。色の悪い丸抜きだけを取り去る作業です。ま、あの方も相当、商売が不器用そうに見えますけどね」
岡本さんは陰の蕎麦ジャーナリストである。
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