暮らしがどうできているかを身体で学んだ経験。
ライフラインのない暮らしに飛び込んで見えてきたことがある。
自分が「何を知らないかを知らなこと」。
それまでは全てが当たり前だったから。
スーパーで買い物ができることも、水道をひねれば水が出ることも。
ゴミはゴミ屋さんが回収してくれることも、排水は施設で処理されることも。
快適であることも便利であることも。
だから何を知らないかを知らなかった。
豚肉は子豚から食べるために育てられるってことも、有機のお野菜を作るために農家さんがまだ春先の寒いビニールハウスに泊まって、この野菜の苗を元気に育てるための方法を考えてくれてることも。
中が腐ってたお野菜を買った時に、顔には出さなかったけど、困るなあって思いながらお店で変えてもらってた。
たくさんのお野菜があるからその1つが悪くなってることに気づかないことなんて別に大したことじゃない。
店員さんが悪いわけでもない。
自分ちの越冬野菜だって開けて見ないとわからないし、いわば当たり前の現象なんだよね。
そんな時もあるよね、って変えて貰えばいいだけ。
そんなことも知らなかった。
誠意を持ってやってるのにクレーム言われたら自分だってたまったもんじゃないよなあって思う。
暮らしがどうできているのかを知ることってそういうことにも繋がってる。
ああ、こうなっちゃったのは仕方ないよねって流せることも増えました。
そしてね、自分がどんなことを当たり前に思ってきたかも見えるようになりました。
お肉やお魚はどうやってここまできて並んでいるか。
ビルの鉄柱はどう作られていて、それがあんな高いタワーになっているのか。
日本の家はなぜ雨漏りしないのか、水はどこからきて排水になり、それはどう処理され、海に向かっているか。その途中途中で暮らす生物はどんなものがいてどんな影響を受けているのだろうか。
ライフラインのない村では豚肉屋さんに顔が置いてあることがあります。
ネズミは見事に開かれて売られていたりします。
もやしは農家さんが作ったもので朝しか市場に並びません。
果物は甘いものばかりではありません。
仏様を大事にするタイの文化で欠かせないお花飾り。売り子さんが手作りしています。
私たちの暮らした村では草を編んで屋根にしているのだけど、その草も手編み。
商店で売ってる箒も、山から箒草を取って担いで来たもの。
一から自分の手を使って暮らしを生み出すってこういうことなのだとしりました。
みんな、いきていくために支え合います。
家を建てる時はみんなで、田んぼもみんなで作って手刈りして。
暮らしがどうできているかを身体で知りました。
そうしてごそっと変わった感覚で日本で暮らしたら、「何を知らないのか知らなかった」ことに驚いて、それ以来知ることの興味深さをずっと抱えています。
そして必要だから生活に取り入れられてきたことがたくさんあることも感じています。
農薬も化成肥料も必要な時代があったと受け入れられるようになりました。
そうして私たちの今の山での暮らしがあります。
これを知った上で今、私たちはどういくていきたいくか。
身体で知ったことは、情報ではなく、自分の感覚で何かを選択し、行動につながっていくことが多いので、楽になりました。
自分が正しいと思うことをする。
ただそれだけ。
便利であることはありがたいけれど、私はそれすらも当たり前になってしまっていたからありがたいと、心から思うこともなかったんですよね。
昔がどうであったかを知ることって面白いです。
現代しか知らないで生きていると「当たり前」が多くなってしまうからどちらかというと苦しい気がします。
暮らしがどうできているかを知るとふとした時に感謝が沸いてきます。
それが生きる上で大切な三本指の中に入ることの1つ、私が子どもたちに残していきたいこと。