暮らしはどこまで手作りできる?
どこまでかという答えはまだ出てません。
でも気づいたらどんどん手作りに変わっていってるのが面白い。
物も精神も豊かな日々を作っていきたいな。
森に還るスポンジ。
去年、スポンジのためにヘチマを育てました。
たった一つしか取れなかったけど、使い終わったら、窓から森へポイ(ありがとう💕)と返すだけでオッケーです。
ゴミを出す必要もなく、ただ森に返すだけ。
ダイオキシンとかCO2とか難しいことを考えずに、自分がきもちいいと思うことを実践して行くのが我が家のエコライフ。
スポンジがないときはホームセンターで買った麻をスポンジにします。
こちらも使い古したら森へポイ。
焼却場に持って行く必要も、マイクロプラの心配もなくていいなあって思います。
巡って行く暮らしが面白いし、なんだかとてもホッとする。
山岳地帯の在住の時。
主食のもち米はバナナの葉っぱに包んで。
食べ終わったら山へポイ。
エコを意識するよりも、自分が気持ちよく日々を生きるためにどうしたいかを基準に考える
私たちはライフラインのない山岳地帯の村で暮らした経験があります。
そこで身につけた感覚がとても心地よくて日本でも実践しています。
「まずはエコありき」ではなく、「自分たちが気持ちいいなって思うことを行動に変えて行く」。
私たちが気持ちを置いてるのはそんな日々。子どもたちの生きる未来がいきやすいことをねがって「未来のために」って思ってきたけれど、まず大切なのは今。
今から始まって未来もよくあれるようにしていきたいなって思うんだ☺️
エコであることはおまけに過ぎなくて、自分がこう生きたいからやってるだけなんだなって考えています。
冷蔵庫を持たない我が家。めんどくさいときは野菜も入れて雑炊。この日は米粉でヨモギ団子も混ぜたね。めんどくさいこともある。それでもこうして雑炊にしちゃえば手も抜けるし、楽チンで生きていけるんだよね、って嬉しくもなる。
ないことを前提に考える暮らし
山岳地帯の村の人々の感覚がそうであったとわたしは感じています。
お皿はココナッツミルクを作ったココナッツの殻や、竹を使って作ります。
スプーンも竹で作れます。
彼らの暮らしとわたしが生きてきた日本での暮らしの大きな違いは、「ないことを前提に生み出す暮らし」か「便利なものがあることを前提にそれがなくなったら、また代わりのものを求める暮らしか」ということだと気付きました。
「今あるものから自分で生み出してみる」
そんな発想はなかったな、と今でもつくづく思わさる。。
だから今のわたしは何かが壊れてしまった時に直せない場合は一部が壊れても動かなくなるまで使います(全自動洗濯機が手動になったまま一年半使ったり、灯油コンロがレバーで動かなくなっても、その都度部品を外してライターでつけたり、笑。)。
そして、もう完全にお別れだね、って感じた時にまず考えるのは、「これはこれからも本当に必要なのものなのか」ということなのです。
今までは「あることが前提」だったから自動的な発想がありました。
じゃあ買い換えよう。エコなものがいいよね、とか、新しいものの方が進化してよくなってるよね?とか。
でもそうではなく。。
エコなものであれ、新しいものを買うということはそれがまたゴミにもなって行くわけで、進化してよくなってるよね?っていうのも、そういう部分が多いことは感じつつも、その進化した部分は必要なのか?って「自分の暮らしのレベルに合わせて」考えたりするようになった。
その発想になったら所有するものが減り、エコを考えなくてもエコになるんだなあって実感しています。
ドイツの取り組みを最近聞きました。
ゴミの分別はきっちりと!
買い物はバックもタッパーも持参が当たり前だそうで、忘れたときは魚ですら紙でくるんで「はいどーぞ」。
ご近所さんが赤ちゃんが生まれた喜びを知らせるためにおやつを配る風習があるそうですが、お家の入り口側の踏まれないところに、紙の上に置いたケーキとメッセージがそのまま置かれているそうで、その徹底っぷりに驚きました。
街のいたるところに小さなブックコーナーがありいらなくなった本はそこに置いておくと好きな人が持って行くとか、ここの不用品さえも、それぞれの玄関先にボックスを置いてご自由にどうぞーとか。。
街を歩くことがワクワクしそうだし、ゴミにしないという発想に感動すら覚えたんですよね。
バンバン売って経済を回す、という発想じゃないのかな。。
そういうところも興味があり、これから調べれたらいいな、っておもってるところです☺️
自分たちの暮らし方を大切にしてもいいんじゃないのかな。
だいぶ話が逸れてきましたが、みんな同じようにマイホームを持ち、家財道具を揃えて。。というのではなく、それぞれの暮らし方があってもいいのかな、って最近思ってます。
我が家は山岳民族の方の助け合う暮らしが好きで、自然の循環の一部に人が入れてるというのが安心だなあって感じたんですよね。
建てた家ですら竹でできた床と屋根、そして壁だから住まなくなっても朽ちていくだけで壊す必要もない。
だから今は山ですむことを楽しんでいます。
自分たちの食べ物を作れることがワクワクするから暮らし自体が趣味のようなもの。
必要なものは森から生み出したり、分けてもらったり。
そうしていたら、みんなと同じようでなくちゃ恥ずかしいって思いもすっと抜けてきて、色々手作りが楽しい暮らしになりました。
暮らしを楽しめる生き方をしたい。
ないことを前提に考える暮らしは「今、自分がどれだけの恩恵の中にいるのか」をじわじわと感じさせてくれます☺️
それは未来へ向けての自分の心持ち、足を向ける方向性も自然に整えてくれる。
シンプルライフは心まですっと通るようにしてくれます。
変えて行くものの中に、それより多くの変らさっていくもの(自然と変わって行くもの)がある。
きっと、人と足並みを揃えることはなくて、自分のペースで考え、動いて行くことが大事なんだろうな。
山岳地帯のにいたころ、稲刈りも手作業だった。私たちはここで暮らすという選択をした。
ここで暮らしているだけでたくさんの感覚が変わらさった。
私たちだけでなく子供たちも。お手伝いは大好きな人が大変そうだからするもの。夏休みの宿題だからやるわけじゃない。
子どもたちもたくさんの配慮をしてくれて私たちの日々が成り立っています。
お手伝いは優しさ。子どもたちも旦那さんも、動かさなくても動いてくれてるんです。。わたしはただただ感謝を伝えるだけ。