ロシアの「性転換」禁止法案について
2013年の未成年に対するLGBT「プロパガンダ」規正法の成立に始まり、2020年の憲法改正にみられる「伝統的価値観」への回帰、ウクライナへの全面侵攻開始後の「西側価値観」への敵対、2022年12月のLGBT「プロパガンダ」規正法の改悪と、ロシア政府はこの10年、性的少数者に対する抑圧を加速させてきた。
2023年5月末、コミュニティをさらに震撼させる法律が下院へ提出され、全下院議員の8割以上になる368人が共同提出者となっている。
それは、「戸籍簿記録に関する連邦法」および「ロシア連邦国民の健康保護の基礎に関する連邦法」改正案 (О внесении изменений в Федеральный закон "Об актах гражданского состояния" и Федеральный закон "Об основах охраны здоровья граждан в Российской Федерации")である。
本法案に関しては、外国メディアを中心に日本語でも情報発信がなされている。
提出法案の中身について
まずは下院に提出された法案の中身について確認していきたい。
法案についてはその中身、審議の進行についても下記ロシア下院のホームページより確認できる。
https://sozd.duma.gov.ru/bill/369814-8
まずは本文を見ていくが、びっくりするほどにシンプルなものである。
第1条
「戸籍簿記録に関する連邦法」第70条4パラグラフは、効力を失うものとする。
第70条では戸籍簿記録の変更に必要な条件3つを並べており、該当の第4パラグラフは以下のとおりである。
「保健分野の法規定の調整および国家政策の作成・実行の機能を持つ行政機関によって定められた手続き・形式に従い医療機関によって、性別変更に関する書類の発行」
この1文がロシア連邦において性別違和による戸籍簿記録の変更を可能にしていたため、本条文の削除により戸籍簿上の性別を変更することが不可能となる。
第2条
連邦法323 「ロシア連邦国民の健康保護の基礎に関する連邦法」に、以下の内容で45条1項を追記する
第45条1項 性別変更の禁止
1.医療従事者は、一次的および(もしくは)二次的な別の性の性徴に形成を含む人間の性別変更を目的とした医療措置の実行を禁じられる。
2.子どもの性形成上の先天的な生理学的異常の治療に関する医療処置は、連邦医療機関の医師委員会の決定によって認められる。連邦医療機関の一覧、並びに当該決定の発出手続きについては、ロシア政府が決定する。
現行の第45条は「安楽死の禁止」を定めたものであり、医師に対する禁止行為を定める条項であると推察される。
この法案は、メディアによっては「性別適合手術の禁止」というニュアンスで報道されるケースがあるが、これは必ずしも正しくない。
対象は「性別変更を目的とした医療行為」である。
ここには性別適合手術はもちろん、トランス男性の乳腺摘出手術などを含むいかなる外科的処置や、ホルモンの投与も確実に含まれる。
さらには精神科医による性別違和の診断(既にWHOは性別違和を精神病とはしていないが、ロシア国内の扱いとしては精神病扱い)すらも、禁止の対象となる可能性があるのではないかと思う。
つまり性別違和を抱える人々にとって必要な医療処置全てが禁じられ、非処方薬に頼るか、闇医者にかかるか、性別違和の苦しみを抱えながら生きていくかという道しか残されなくなるのである。
法案説明文
本文もシンプルながら大概であるが、法案説明文はさらに胸糞ものである。
現在ロシアでは、不誠実な医師や精神科医、LGBT組織ネットワークや活動家を含む性転換産業が発展してきており、その破壊的な活動は子どもや若者に向けられている。
ロシア連邦憲法では、伝統的家族観の保護と男女による結婚制度の保護が規定されている。国の基本法で性別は男性と女性の2種類のみが規定されており、「間の」や「追加的な」性別区分や「ジェンダー」、「親その1」「親その2」というようなカテゴリーは規定されておらず、「性別変更」の可能性についても規定されていない。
2022年12月5日制定の「ロシア連邦行政法の変更に関する連邦法479」によって非伝統的性的関係および性別変更についてのプロパガンダは罪に問われるようになった。
2021年7月2日発令の「ロシア連邦の国家安全戦略についての大統領令400」によって定められた国家安全戦略は、ロシア社会の伝統的な精神的根幹の保護は、死活的問題であるとしている。ロシア連邦の国益並びに国家の戦略的優先事項として破壊的な情報・精神的活動からのロシア社会保護およびロシアの伝統的精神的価値観の強化は示されており、またロシアの人々の「功績」や人的潜在能力の発展についての国家政策の目的達成は、保健システムやの強固さや新たな要求や脅威への適応力を含め、もたらされるとされている。
2022年11月9日発令の「ロシアの伝統的精神的価値観の保護および強化に関する国家政策の基本決定についての大統領令809」において、その国家政策実現の法的要素の一つとして、連邦レベルでの法基盤の確立を挙げている。
一方でロシアでは性別変更の実例やそのような可能性についての情報発信は増加しており、同時に性別変更の件数も増加している。
戸籍簿記録の変更や医療処置の根拠となる性別変更に関する証明書発行は、2017年10月23日発令の「医療機関により発行される性別変更に関する書類の形式および手続きの決定についてのロシア保健省令850n」に則って行われている。当該省令は、「トランスセクシャリズム」の診断を以て証明書が発行されるとしている。
内務省の統計によると、2016年から2022年の間に、性別変更を根拠に身分証明書の変更を申請した人数は、2,990人である。2016年は142人、2017年は131人、2018年は370人、2019年は429人、2020年は428人、2021年は554人、2022年は996人である。
ロシア中の多くの民間クリニックで何の障害もなくトランスセクシャリズムや性別変更に関する証明書を得ることができ、そのようなサービスの価格は最大3万ルーブルである。「被害者」の子供たちの親の証言によると、証明書受領には十分な医学的検査もなく、たったの数十分で終わるとのことである。
このような問題の解決を目的として、本連邦法案はつくられた。
つまりロシア連邦憲法はシスジェンダーでヘテロセクシャルの人間のみを想定しており、それ以外の人間は権利を有さない、という見解である。
審議状況について
当該法案は議員の大多数が共同提出者となっていることから、早期の成立も十分考えられた。
しかし実際には第一読会通過後、なかなか第二読会の審議が始まらずにいる。
この理由の1つとしては、保健省の反対があると考えられる。
タス通信によると、保健省のサラガイ副大臣は追加的な規制に賛成としつつも、「一方この「病気」を抱える人々が医療行為を受け続けられるように配慮する必要がある」と、第二読会での法案修正を求める考えを示した。
また別報道ではトルストイ副議長の発言として、ムラシュコ保健大臣が「必要な医療行為が受けられないようになると、最終的には自殺率の増加にもつながる」と述べた、としている。
トルストイ副議長はこのムラシュコ保健大臣の発言を「感情的だ」とし、またヴォロジン議長も「保健省が第二読会に向けて修正を行わないことを望む。配慮するのであれば、この放蕩を禁止してからだ」と発言している。
既に性別違和(不合)はWHOによって精神病から外れてはいるため、「病気であること」を理由に権利を守るということには違和感があるかもしれないが、本来の性別を取り戻すためには医療行為が必要であることは確かであり、それを禁じられた場合には別の問題が引き起こされるのは間違いないだろう。
政府としてはトランスジェンダーを抹消できれば満足なのかもしれないが、その副作用は、ロシアであっても管轄省庁にとって看過できないものなのではないだろうか。
おわりに
現在のところ審議はストップしているものの、「7月中に成立させる」というヴォロジン議長の発言もあり、どのような形であっても、近いうちに成立することは避けられない情勢だ。
また特に全面戦争開始後は国家のイデオロギーがその他の事項に優先する傾向が一層顕著となっており、保健省が異議を唱えても、押さえつけられる可能性は否定できない。
この法案は、トランスジェンダーを社会的に抹殺するものである。
既に昨年12月の「プロパガンダ」規制法改正でトランスジェンダーに関する情報発信についてはかなり制限がついていたが、この法案がこのまま成立した場合医療的行為は全てなくなり、情報としてだけではなく、トランスジェンダーという存在自体がロシア社会から抹殺されることとなる。
もちろんトランスジェンダーの人々は存在し続けるが、地下に潜り、公的な支援はなく、生き抜くという事態になるのだ。
これもまた、ひとつの戦争であるのだと思う。
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