“テクノなハート”―東京グランギニョル始論―
第一章 音響から読み解く『ライチ・光クラブ』
1-1.はじめに
飴屋法水の演劇作品、とくに東京グランギニョル時代の舞台を、「音響」に焦点をあてて検証してみる必要があるのではないか。いつの頃からか、そう思うようになった。
そのような考えを抱くに至った理由は二つある。一つは東京グランギニョルやその後の飴屋の活動にまつわる資料を収集する過程で、飴屋自身の発言や当時の舞台を観劇した人々の証言の中に、しばしば「音」にまつわる言及が見られるのに気付いたこと。そしてもう一つは飴屋が八十年代に手がけた舞台の模様を録音した音源に接する機会に恵まれたことである。
なかでも『ライチ・光クラブ』初演の模様を収めた音源を聴いたことは、東京グランギニョルの舞台における音響の重要性を認識する大きなきっかけとなった。その音源を初めて聴いたとき、私は座付作家・鏨汽鏡(K・TAGANE)の手になる美しい台詞の数々に魅了されると同時に、台詞の背後から聞こえてくる「音」に興味をかき立てられたのである。
観客の耳をつんざくような大音量で鳴らされるインダストリアル・ミュージックやテクノ・ポップ。その音に負けじとばかりに声を張り上げる役者たち。そこではもはや、音楽は通常の演劇において担っている役割を大きく逸脱し、まるで自らの存在を誇示しようとしているかのようでさえあった。芝居の随所に挿入される、坂本龍一や細野晴臣、立花ハジメ、あるいはSPKや23skidoo、DAFといったアーティストの楽曲は、いわば演劇における「音響言語」として舞台を進行させる役割を担っており、その意味合いにおいては劇中で役者が発する台詞と全く等価であるように私には思われたのだ。
二〇〇五年に漫画家・古屋兎丸が発表した『ライチ☆クラブ』をきっかけとして、東京グランギニョルは、劇団が活動していた八〇年代半ばには生まれてさえいなかった若い世代からも注目を浴びるようになった。
今では観ることのかなわない『ライチ・光クラブ』に対する憧れを熱く語り、ギニョルの舞台を実際に観劇する機会に恵まれた幸運な大人たちに羨望の眼差しを向ける若者たち。しかしながら、彼らの興味の矛先は、現存する舞台写真から窺える役者たちの耽美的なビジュアルや、あるいは大量の血糊を用いたグロテスクな演出などといった、ギニョルの舞台を構成する諸要素のうちの視覚的側面にばかり向けられている気がしてならない。批判を恐れずに言ってしまえば、東京グランギニョルに対して若者たちが抱く関心は、結局のところ、そのほとんどが表層的なものにとどまっているのだ。
確かに東京グランギニョルの作品が持つそれらの要素は、八〇年代当時の観客にとってもまた、大きな魅力であっただろう。しかしながら、耽美的な世界観を持つ舞台を上演する劇団やユニットは、東京グランギニョル以外にも存在したし、血糊や豚の内臓を用いたショッキングな演出にしても、決してギニョルの専売特許ではない。にもかかわらず、それらの劇団やユニットの舞台が、作品の質においてギニョルに遠く及ばなかったのは何故か。様々な理由が挙げられようが、私はギニョルの主催者であり、演出に加えて音響も担当していた飴屋法水が持っていた、「音」に対する卓越したセンスが、他の劇団やユニットの演出家には欠落していたからだと考える。
飴屋法水の演劇人としてのキャリアが、唐十郎率いる劇団「状況劇場」の音響担当からスタートしたことはよく知られているが、当時の飴屋について、唐は次のように語っている。
このインタビューが興味深いのは、上に引用した発言のすぐ後で、「音」に対する志向を巡って自身と飴屋との間に相違があったことを唐が匂わせている点である。
実は、この「音」に対する志向の違いこそが、飴屋に状況劇場を退団する決意をさせたとも言えるのである。後年、唐のもとを離れ自身が主宰する劇団「東京グランギニョル」を旗揚げした前後の時期を振り返り、飴屋は次のように述べている。
五年間在籍した状況劇場を離れ、自ら劇団を立ち上げてまで飴屋が実現させようとしたもの、それは「全部自分の好きな音だけで構成した舞台」であった。何よりもまずそのことを我々は認識しなければならない。
現存する音源を聴くとわかるように、東京グランギニョルの舞台では通常の演劇にみられるような台詞と音響の主従関係は成立していない。東京グランギニョルの作品において台詞と音響が担う役割は、その重要性において等価である。いや、むしろ台詞や物語よりも音響に重きを置くのがギニョルの舞台の特色であったと考えるほうが、適切であるように思われる。
東京グランギニョルの舞台における、その特異な音響のあり方について実に的確な表現を用いて指摘したのが演劇批評家の長谷部浩である。長谷部は、東京グランギニョル最後の公演となった『ワルプルギス』の劇評の中で、次のように述べる。
音から芝居を作り上げること。それこそが東京グランギニョルにおいて飴屋法水の採ったアプローチであり、ギニョルの舞台が当時の観客を熱狂させ、今なお伝説的な存在として語り継がれるに至った理由を解明するためには、この特異な作劇法の分析こそが、何をおいても求められるのだ。
飴屋が東京グランギニョルを旗揚げした動機が「全部自分の好きな音だけで構成した舞台」を作り上げたいという欲求にあったのならば、彼にとっての「好きな音」とは、具体的にはどのようなものであったのか。おそらくそれは舞台で使用された楽曲の傾向を分析することによって明らかになるであろうし、さらにはそこから飴屋法水という表現者の根幹をなす哲学や思想(の・ようなもの)も自ずと見えてくるのではないか。
そのような目論見の下に、私はまず東京グランギニョルにとって三本目の作品にあたる『ライチ・光クラブ』を手がかりとして、飴屋の「音」に対する嗜好や、それがどのような形で彼の作品に反映されているのかを考えてみようと思う。本作で使用された楽曲の傾向を分析し、そこから浮かび上がってくるものを通して、我々は飴屋法水という演劇作家の特異性を明らかにする端緒をつかむことができるはずだ。
(注1)「唐十郎 インタビュー」(『ナンバーワン・ブック・オブ・ダッチライフ vol.3』、一九九三年)
(注2)同上。
(注3)飴屋法水「崩壊する新演劇」(夜想28「特集 ロマンのゆくえ」一九九一年、ペヨトル工房)
(注4)『2マイナス1号/特集 飴屋法水—ボディ感覚』(二〇〇一年、ステュディオパラボリカ)
(注5)長谷部浩「工場見学に行こう! 東京グランギニョル『ワルプルギス』●飴屋法水・演出」(『4秒の革命 東京の演劇 1982-1992』 一九九三年、河出書房新社)
1-2.『ライチ・光クラブ』梗概
『ライチ・光クラブ』は、一九八五年一二月に下北沢・東演パラータで上演され、翌年三月には都立家政・SUPER LOFT KINDOで再演されている。K・TAGANEが脚本を手がけ、飴屋が演出を担当した本作は、東京グランギニョルが『マーキュロ』『ガラチア 帝都物語』に続いて上演した作品であり、この劇団の評価を決定づけたともいえる舞台である。
本作の初演を観劇した長谷部浩は、この作品から受けた衝撃を次のように述べている。
また、再演を観劇した扇田昭彦は、本作を「・・・人形劇に近い世界、それも鉱物感覚の怪奇人形劇の世界で、しかもそれは病むほどに徹底した偏執性とグロテスクの美学に傾く洗練された感受性で特色づけられている」と評し、「この劇団の舞台を見るのは初めてだったが、恐怖映画好きの私としては、演劇にもついに本格的な恐怖劇が登場したのかと、うれしい気分を味わった。十九世紀末のフランスに登場した戦慄の恐怖劇『グランギニョル』を名乗るにふさわしい集団である。」と熱を帯びた筆致で語っている(注2)。
『ライチ・光クラブ』の記録映像は、現在のところ確認されていない。但し、初演の模様を録音した音源が現存し、二〇一〇年代の初頭から半ばにかけて、何度かイベントの場で公開されている。また、上演台本は今日まで出版されていないが、出演者の一人である常川博行氏によってその一部がインターネット上で公開されている(注3)。
全二幕からなる本作の内容はどのようなものであったのか。現存する資料(常川氏所蔵の台本、初演時の音源から筆者が聴き取った台詞の書き起こし、上演当時に発表された劇評や雑誌に掲載された紹介記事など)に基づき、『ライチ・光クラブ』の梗概をまずはここで紹介しておきたい。なお、可能な限りその詳細を伝えることを意識した結果、一般的に適切とされる梗概の字数を超過してしまった感があるが、上演台本が今日に至るまで公刊されていないこと、さらには関係者以外の人間が本作の音源を聴くことが現在難しくなってしまっているという状況を鑑みて、あえてこのような形をとったことをお断りしておく(また、以下に紹介する梗概はあくまで筆者個人の視点に基づきまとめたものであるが、その前提が共有されない場合、飴屋法水氏をはじめとする東京グランギニョル関係者の公式な見解に基づいて作成されたものであるかのように誤認される恐れがある。従って本節「『ライチ・光クラブ』梗概」の内容を他のウェブサイト及び各種ブログサービスに転載すること、あるいはニコニコ動画・YouTube等の動画サイトやInstagram・TickTock等の各種SNSで紹介することは、日本語以外の言語を用いる場合も含めて一切禁止とさせて頂く)。
上演台本によれば、本作の幕開けは次のようなものである。
ドイツ語でかけ声を発しながら、手にしたライトで客席を照らし出し、一定の間隔でそれらを前後左右に振り回す学生服の少年達。やがてイントレが組まれた舞台下手の後方から客席に向かって滑り台のように設置されていたベルトコンベアに載って一人の少年がステージ上に現れ、鎖で吊されて他の少年達から責め立てられる。
舞台上には演説台のようなものがあり、そこに一人の少年が立っている。彼の名はゼラ。少年達の秘密結社「光クラブ」のリーダーだ。
自分たちのアジトに忍び込んできたトバという名の少年を詰問する光クラブのメンバーたち。自分の視力は〇.〇一だから何も見ていないと主張するトバに対し、ゼラは何も見ていないなら視力は〇.〇〇でなければならないと言い、少年達に命じてトバの眼を強力なサーチライトで灼き潰させる。
目をつぶされて呻いているトバのもとに一人の女性が駆け寄ってくる。彼女は光クラブのメンバーやトバが通っている学校の教師である。誰にそんなことをされたのかと尋ねる彼女に対し、報復を恐れたトバは真実を語ることなく逃げ去る。トバを追いかけようとする女教師のもとに少年達が現れ、彼女をからかう。女教師は逃げるようにその場を立ち去っていくのだった。
光クラブはリ―ダーのゼラを筆頭に、ニコ、雷蔵、ダフ、ヤコブ、デンタク、カネダ、タミヤの八人で構成されている。廃工場の地下をアジトとする少年達は、深夜一二時になるとそこに集合し、とあるマシンの制作に励んでいた。その制作は今まさに最終段階にさしかかったところである。
ゼラの到着を待っている間、彼の様子が最近どうも変である、何か自分たちに隠していることがあるのではないかといったメンバー間の会話をきっかけとして、先にアジトに集合していた少年たちの間で口論が始まる。ちょうど今彼らのもとへと向かっているであろうゼラの様子を確認するために、少年達がアジトに備え付けられた潜望鏡で地上を観察していると、そこに人影が近づいてくる。てっきりゼラが来たのだと思い込んでいた少年達の前に姿を現したのは、マルキド・マルオと名乗る謎の中年男。マルオはヒトラーが口にしたという「チョコレット」を食べさせようとしたり、死体解剖の模様を収めたビデオを少年達に見せつけたりする。
彼のエキセントリックな振る舞いに少年たちが閉口しているところへゼラがやってくる。自分にも死体の映像を見せてほしいとせがむゼラに、マルオは嫌がる者に見せるのが趣味なので、自分から好んで見たがるものには見せないといい、ゼラの頼みを拒否する。さらにマルオは、ゼラの額には冷酷な男につきまとう黒い星が出ていると告げる。その星はヒトラーにさえなかったものであり、それゆえ彼とは関わりたくないというマルオ。ゼラは、それでは自分は英雄になれるかもしれない、第一ヒトラーなどいう挫折した男に興味はないと答え、「まあいい。ビデオでなく……いつか本物を見るさ」と吐き捨てるように言い、少年達に命じてマルオを追い払わせる。
マルオが去った後、ゼラは自身が密かに栽培し、収穫していたライチの実を少年達に向かって示す。ゼラによると、楊貴妃も好んで食べたというこの果実は、光クラブのメンバーたちが制作しているマシンの燃料になるのだという。ゼラの号令の下、マシンの仕上げの作業にとりかかる少年達。彼らに指示を与えているうち、興奮し過ぎたゼラは突然自分自身に語りかけるように独白を始める。
作業中の彼らのもとへ一人の少年が先程の女教師をつれてやってくる。女教師は鎖をまきつけられ、猿轡をかまされている。光クラブのメンバーたちは突然の訪問者に慌てるが、やがてその少年がジャイボであることに気づく。彼はゼラの親友であり、光クラブのパトロン的存在である。
ジャイボは女教師に一通り質問を投げかけた後、彼女を明快なものに変えてやると言い放ち、股間に装着した鉄のペニスで女教師を強姦し、殺害する。さらに彼は廃墟に捨てられていたテレビを持ち上げると、鉄のペニスをブラウン管に突き立てる。その様を真似るかのように他の少年達もゴミの山からマネキンを持ち出し、不器用に抱きついたり、たたいたりしながら、ペニスをガチガチぶつけたりする。TVを抱いたまま、少年達の前を、よろけながら歩きまわっていたジャイボが、舞台の中央にきたところで股間からTVを落とす。彼が指で合図をすると舞台は暗転する。
ゼラが演説台の上に立ち、少年たちをその周りに集めている。彼はマシンが遂に完成したことを光クラブのメンバーに告げる。デンタクによってマシンの説明(マシンは電卓によってプログラムされ、制御される)がなされた後、ゼラは起動前のマシンに何らかのプログラムを施す(注6)。ついに動き出したマシン。ゼラは燃料である果実の名を取って、そのマシンをライチと命名する。ライチの動作を確認するテストがひとしきり行われた後、ゼラはライチに「君が生まれてきた目的はなんだ?」と問いかける。それに対するライチの答えは「少女の捕獲」であった。
少女の捕獲に当たって、猫の頭の形をしたマスクがライチに与えられる。制作者の雷蔵によると、マスクの内部には眠り薬が仕込んであり、それを被せられた者は、とたんに眠りに落ちるのだという。ゼラの命を受けて地上に飛び出していくライチ。その様子を潜望鏡で覗き、実況する光クラブのメンバー達。やがてライチが戻ってくるが、なんと彼はマスクを自分でかぶり、熊のぬいぐるみを連れてくるという失態を犯していた。激怒したゼラはデンタクに今すぐプログラムし直せと命じる。その後、再び地上に出て行ったライチは、今度は一人の美しい少女を連れて戻ってくる。ゼラは「・・・諸君、初めての客に乾杯だ!」と喜びに溢れた声で宣言する(ここまでが第一幕)。
その後もライチは何人かの少女を捕まえてきたが、美しさにおいて最初の少女を上回る者は現れなかった。
少女が光クラブのメンバーの前に姿を現してから一週間ほど経った頃、少年たちはアジトでチェスに興じていた。雷蔵がタミヤに負けそうになっているところへゼラが通りかかり、雷蔵と交代すると、あっという間にタミヤを打ち負かしてしまう。そこにデンタクがやってきて、ライチの動きが鈍くなってきたと告げる。続けてデンタクは、燃料となるライチの実が少なくなってきたことをゼラに報告し、さらに誘拐してきた少女たちには何を食べさせればいいか尋ねる。ゼラは、他の少女はほっておけという一方で、彼らが一号と呼ぶ最初に捕獲した少女に対しては、なんとしてでも食べさせろと命じる。メンバーの一人、ヤコブの報告によれば彼女は眠ってばかりいて、少年たちの質問には答えようとしないのだという。
その時突然、一号と呼ばれていた少女が目を覚ます。「君は花しか食べないって本当」「君の名前を知りたい」といった質問を投げかけるゼラに少女は悪態をついたあと、再び眠り出す。少女のために誰かオルガンを弾ける者はいないかと問うゼラに対し、デンタクはライチがオルガンを弾けることを告げる。少年たちの前でオルガンを弾きこなすライチ。少年たちは感心し、彼のためにライチの実を収穫しに行く。
アジトに残ったライチがオルガンを練習していると、再び少女が目を覚まし、ライチに声をかける。ライチの名前を尋ねた後、少女は自分の名前が「マリン」であることを明かす。彼女にオルガンの練習をさせようとするライチに対し、マリンはオルガンは左手で引くものだと主張し、さらにはライチの年齢を尋ねる。「この間生まれたばかりだからまだゼロ歳だ」というライチに向かって、彼は人間ではないと言い放つマリン。自分は人間だと主張するライチとひとしきり言い争った後、マリンはライチの主張をひとまず認める。自分のもとに花を持ってきてくれていたのがライチであることに気付いた彼女はそのことへの礼を述べ、なぜいつも眠ってばかりいるのかというライチの問いに対し、眠っていればどんな不幸せなことも通り過ぎて行ってしまうからだと答える。その直後、マリンが不用意に電卓に触れてしまったことにより、誤作動を起こしたライチは暴れ出す。そこにライチの収穫を終えた少年たちが戻って来る。ゼラはデンタクにプログラムの修正を命じ、さらには一号以外の少女は必要ないと言い放ち、ライチに他の少女たちを殺害させる。
それからしばらく経った後。いつものように他の少年たちがライチの収穫に向かう中、タミヤは一人アジトに残り、ゼラの口調を真似ながらチェス盤に向かっていた。そこへジャイボがやってくる。
ハレー彗星や夜空に浮かぶ星を巡る会話が二人の間で交わされた後、ジャイボはそれとなくゼラを裏切るようタミヤをそそのかす。その策略にハマり激昂したタミヤはアジトを飛び出し、ライチ畑に火を放つ。その様子をジャイボは潜望鏡で見つめる。アジトに戻ってきた少年たちに、何食わぬ顔でライチ畑が燃えていると告げるジャイボ。慌てふためく少年たちを前に、ライチ畑はあきらめるとゼラは宣言する。彼はライチに犯人の捕獲を命じるとともに、マリンを連れてくるようジャイボに頼む。ゼラの前に引き出されたマリンは、彼の投げかける質問にまともに答えようとせず、その挑発的な態度にゼラは激怒する。冷静さを失ったゼラに代わりジャイボがマリンを問いただしていると、タミヤを捕まえたライチが戻ってくる。予想外の犯人に動揺するゼラに、タミヤに対する処罰は去勢の刑がふさわしいと告げるジャイボ。その提案にしたがって、タミヤは装着されていた鉄のぺニスを剥ぎ取られる。
燃料を失ったライチが停止する前にマリンを機械に改造することを決意したゼラは、明日の夜に作業を開始するまでマリンとタミヤを見張っておくようライチに命じ、他の少年たちとともにアジトを立ち去る。
タミヤはマリンとライチに一緒にアジトを脱出しようと誘うが、二人は拒否する。タミヤは手元に残った最後の一粒のライチを手渡し、アジトから脱出する。
タミヤの提案にしたがって脱出しようとするマリンに、ライチは今は出て行かないほうがいいと告げ、マリンはその忠告を受け入れる。
「もし私が機械になったら、君は嬉しい?」そう問いかけるマリンに、機械になってしまったらマリンはマリンでなくなると答えるライチ。マリンはゼンマイ仕掛けの人形のような身振りをしながら、機械になればおばあさんになることもなくなる、そうすればいろんなものから捨てられなくなる、と語る。それから彼女はライチに向かって「君の目はビー玉みたい」と言い、その額に触れ、「こんなに冷たいおでこには触れたことがないわ。ねえ、君のおでこ、なんでできてるの?」と尋ねる。マリンの問いに対して「鉄だ」と答えるライチ。そこへ、にわかに雨が降ってくる。翌朝までしばらく眠ろうというマリンの提案を受け入れるライチ。二人は天井から滴り落ちてくる雨水を避けるためにビニールシートで身を包みながら眠りにつく。そこへ突然光クラブのメンバーたちが戻ってくる。
ゼラは気が変わったので今すぐ少女を機械に改造すると宣言し、ライチにマリンを連れてくるよう命令する。ライチは「マリンは渡さない」と抵抗する。自らの意志を持ち命令に従わなくなったライチを破壊するよう少年たちに命令するゼラ。少年たちはライチを破壊すべく鉄パイプをもって襲いかかるが、ライチによって次々と殺害され、舞台下手にあるベルトコンベアで運ばれていく。
最後に残ったゼラは、ライチに「もっと強靭な意志を持て!さあ!僕を偽物の神にしてくれ!」と言い放つ。ライチはゼラの腹に腕を突っ込み、内臓を掴みだす。ゼラは独り言をいいながらうずくまる。
マリンの名を呼びながら彼女を探すライチ。その声をきいて物陰で震えていたマリンが飛び出してくるが、その瞬間、燃料が尽きたライチは停止してしまう。動かなくなった彼にライチの最後の一粒を食べさせようとするマリン。その背後に、死んだかと思われたゼラが忍び寄り、マスクを被せて彼女を眠りにつかせる。
「僕はここに立って、ながめよう。ライチという名の機械が、さびついて行くのを。マリンという名の少女が、腐敗し、骨になって行くのを。」
そう言いながら顔を挙げるゼラの顔は幼児のように笑っている。ゼラはジャイボに向かって呼びかける。
「ジャイボ!どこにいるんだい?ジャイボ!・・・・もう誰もいないからはやく出ておいでよ!・・・・これが、僕からキミへのクリスマス・プレゼントだから!」
ゼラが笛を取り出し、手にした笛をピーッ!と吹き鳴らすと、舞台の背後にあったシートがおち、脚立に座った血まみれの少年たちが互いの顔をライトで照らしだす姿が浮かびあがる。鐘の音が鳴り響く中、ゆっくりと暗転していき、舞台は幕を閉じる。
(注1)長谷部浩「不意打ちされたクリスマス・イブ」
「新劇」一九八六年三月号に掲載、後に『4秒の革命―東京の演劇 1982-1992』(一九九三年八月、河出書房新社)に再録。
(注2) 扇田昭彦「鉱物のエロスと自閉の美しさ」
『美術手帖』五六三号(一九八六年六月)。のちに『現代演劇の航海』(一九八八年一二月、リブロポート)に再録。
(注3)〈https://x.com/zera_tsunekawa/status/909120850917441536?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉
〈https://x.com/zera_tsunekawa/status/909788854600601600?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉(参照日2024年11月15日)
(注4)
〈https://x.com/zera_tsunekawa/status/909120850917441536?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉(参照日2024年11月15日)
(注5)常川氏所蔵の脚本より。なお本論で引用する『ライチ・光クラブ』の台詞は、常川氏が公開した台本に掲載されているものについては、その表記に従い、音源から文字起こしを行ったものに関しては、筆者の判断に基づいて適切であると考えられる表記を当てている。
(注6)『JUNE』No.27(一九八六年三月、サン出版)に掲載された本作の特集記事には舞台写真とともにストーリーの一部が紹介されているが、その中に「 ライチ誕生の直前に、ゼラが何を考えてか、この電卓を使い、ライチが『人間』であるとインプットしてしまったために、ゼラは自分自身と光クラブを滅ぼしてしまう結果になります」という一文が見られる。この記述に基づいて考えれば、ここでゼラが施したプログラムが、その後ライチをして自らを人間だと認識させる根拠になっていると思われる。
1-3.『ライチ・光クラブ』の劇中使用楽曲
続いては『ライチ・光クラブ』の初演時に劇中で使用された楽曲を確認してみよう。本作で使われた楽曲は、私が確認した限り、二十四曲。そのうち二曲を除き、アーティスト名および楽曲名を特定することができた。
以下にその一覧を示しておきたい(参考として、劇中で各楽曲が使われた場面について簡単な説明を加えた)。
1.SPK "Culturecide"
第一幕のオープニング及びラストで流れる、「ライチ・光クラブ」のテーマ曲ともいえるナンバー。
2.細野晴臣 "Trembling #1"
光クラブのアジトに迷い込んだトバをゼラが詰問する場面(第一幕)(注1)、眠りについたライチとマリンの元に光クラブのメンバーが戻ってくる場面(第二幕)で使用された。
3.アーティスト/タイトル不明
トバと女教師が舞台上から去った後、光クラブの少年たちがゼラの到着を待ちながら会話を交わす際に流れる。
4. 23 Skidoo" Kundalini"
少年たちが潜望鏡をのぞき込み、地上の様子を偵察する場面(第一幕)で使用された。
5.坂本龍一“JAPAN”
光クラブの面々とマルキ・ド・マルオが会話しているところにゼラが姿を現す場面(第一幕)、光クラブのメンバーがライチ制作の最終工程にかかっている最中、ゼラが自身に語りかけるように独白する場面(第一幕)で使用された。
6.坂本龍一"Coda"
ゼラが光クラブの面々にマシンの燃料となるライチの実を示す場面(第一幕)、マリンが眼を覚まし、ゼラと初めて会話する場面(第ニ幕)で使われた。
7.立花ハジメ"ChickenConsome"
光クラブの面々がライチ制作の最終工程にとりかかる場面(第一幕)で使用された。
8.Test Dept. "Fuel To Fight"
ジャイボが舞台に初めて姿を現す場面及び女教師を殺害したジャイボがテレビのブラウン管に鉄のペニスを突き立てる場面(第一幕)で使用された。
9.DAF "Osten Wahrt Am Langsten”
ジャイボが鉄のペニスで女教師を犯し、股間から血しぶきが飛び散る場面(第一幕)で使用された。
10.Mark Mothersbaugh "XP39"
ゼラが光クラブのメンバーの前でマシンの完成を告げる場面(第一幕)で使用された。
11. The Residents“Breath and Length”
ライチが起動する場面(第一幕)、少女を捕獲しにいったライチの様子を光クラブのメンバーが潜望鏡ごしに観察する場面(第一幕)で使用された。
12.越美晴「妙なる悲しみ」
第二幕のオープニングで使用された。
13.ドイツ連邦共和国国歌「ドイツの歌」(Deutschland lied)」
ライチが初めてオルガンを弾く時(第二幕)に演奏した曲。
14.Robert Wyatt "Amber And The Amberines"
光クラブ一同がライチの実の収穫に行っている間、ライチがオルガンで練習していた曲(第二幕)。
15.細野晴臣 "Bio Philosophy "
マリンがライチに「オルガンは左手で弾くもの」だと語る際に流れる曲(第二幕)。
16.Art Of Noise "Legs"
マリンが電卓に触れたためにライチが誤作動を起こす場面(第二幕)で使われた。
17.坂本龍一"ULU WATU"
誘拐された少女たちが殺害され、ベルトコンベアーで廃棄される場面(第二幕)、ライチに殺された光クラブのメンバーがベルトコンベアーで次々に廃棄される場面(第二幕)で使用された。
18.アーティスト/タイトル不明
ライチ畑に火を放つタミヤの様子をジャイボが潜望鏡ごしに眺めるシーン(第二幕)で流れる曲。
19.細野晴臣「オペラによる制御回路(シーケンシャル・オペラ・サーキット SEQUENTIAL OPERA CIRCUIT)」
タミヤの手によって放火され燃え上がるライチ畑を光クラブのメンバーが潜望鏡ごしに眺める場面及びタミヤが去勢される場面(第二幕)で使用された。
20.細野晴臣「動物の意見(アニマルズ・オピニオン)」
ゼラがマリンを機械に改造することを宣言する場面(第二幕)で使われた。
21.細野晴臣「星めぐりの歌」
マリンが人形のような身振りをしながらライチに話しかける場面(第二幕)で使用された。
22.細野晴臣「ジョバンニの透明な悲しみ」
天井から零れ落ちてくる雨水を避けながら、ライチとマリンがしばしの間眠りにつく場面(第二幕)で使用された。
23.坂本龍一"A Carved Stone"
ライチに掴みだされた自身の内臓を手にしながら、ゼラが独白する場面(第二幕)で使用された。
24.細野晴臣"Dark Side of the Star"
第二幕のラストシーンで使用された。
劇中で使用された楽曲群を眺めてみると、次のような事実に気づく。一つは「テクノ・ポップ」及び「インダストリアル・ミュージック」というジャンルに括られるアーティストの楽曲を中心に選曲されていること。もう一つは使用された楽曲のうち、三分の一弱を細野晴臣の作品が占めていることである。
細野晴臣は、日本の音楽シーンに「テクノ・ポップ」を浸透させたイエロー・マジック・オーケストラ(通称YMO)のリーダーである。彼は東京グランギニョルの熱心な支持者であり、しばしばその舞台に足を運んでいた。
後年細野自身が語っているところによると、彼が東京グランギニョルに出会ったきっかけは、一九八五年五月にアートシアター新宿で上演された『ガラチア 帝都物語』だったという。
ミュージシャンである細野が、舞台を構成する諸要素のうち、音響に着目したのは当然のことと言えるかも知れない。そしてこの発言は、彼のような第一級のアーティストをうならせる程の音響テクニックを飴屋が持っていたことの証左となるものであり、さらには東京グランギニョルの作品において音響が果たした役割の重要性をも示唆している。
(注1)なお、この場面では呼吸音と囃子のような音を重ねたSE及び"Culturecide"の一部が細野の楽曲の合間に挿入される。
(注2)「細野晴臣 インタビュー」(『ナンバーワン・ブック・オブ・ダッチライフ vol.3』、一九九三年)
1-4 「テクノ」という精神
細野は『ライチ・光クラブ』初演に際して発行されたチラシに「オーバー・ザ・トップ!!」と題したコメントを寄せている。その全文は以下の通りである。
ここで細野が「テクノ」と呼んでいるのは、いわゆる「テクノ・ポップ」のことだろう。「テクノ・ポップ」とは、七〇年代半ばから八〇年代初頭にかけて生み出された、シンセサイザーやリズムマシン、コンピュータを多用したポップミュージックの総称である(注1)。テクノ・ポップを代表するアーティストとしては、クラフトワーク、DEVO、そして細野晴臣を中心に結成されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)などが挙げられる。
東京グランギニョルの舞台には「テクノ」がぴったりだと細野は述べているが、「テクノ」は、『ライチ・光クラブ』という作品を考えるための重要なキーワードである。私がそのように断言する根拠は、『ライチ・光クラブ』初演のチラシに掲載された飴屋法水のコメントの中にある。「テクノなハート」と題されたそれを、まずは確認してみよう。
『ライチ・光クラブ』でマリンを演じた越美晴は、一九八三~五年にかけて、『チュチュ』『パラレリズム』『ボーイ・ソプラノ』という三枚のアルバムを発表している。これらはいずれも細野晴臣プロデュースのもとで制作された作品である。
一九七八年にシンガーソングライターとしてデビューした越は、当初ピアノ弾き語りによるニューミュージック/シティ・ポップ系の楽曲を発表していたが、一九八〇年代に入るとその音楽性を大きく転換させた。当時の彼女は、「私、テクノ界のアイドルになります!」と題したエッセイを雑誌に寄稿し(注2)、音楽誌のインタビューで「私はすごく完璧な形のテクノっていうのをやりたいんです。テクノは、現在のつまらない音楽状況の防腐剤となりうると思うから。」と発言するなど(注3)、テクノ・ポップに深く傾倒しており、前述した細野プロデュースによる三作は、いずれもテクノ・ポップ色の強いサウンドになっている。
「テクノなハート」は、このように「テクノの歌姫」とでも呼ぶべき存在感を放っていた八十年代当時の越に捧げられた賛辞とも取れるテクストであるが、注目すべきは、タイトルをはじめとして文中に「テクノ」という語が頻出することである。「美晴嬢はテクノである。そして僕もテクノである。」と高らかに宣言する飴屋は、その一方で「テクノとは、ある精神の事。それをテクノなハートと言おう。そのハートがなけりゃ、只のエレ・ポップだ。」とも語り、自身の口にする「テクノ」という言葉が音楽ジャンルの呼称としてのそれではなく、ある種の精神のあり方を示すことを表明している。
飴屋の考える「テクノなハート」、すなわち「テクノ」という語で表される精神のあり方とはどのようなものか。それについて考えるためには、音楽ジャンルとしての「テクノ」=「テクノ・ポップ」と飴屋がいかにして出会い、そのサウンドの中に彼が何を見出だしたのかを検証することが、まずは必要であろう。
(注1) 「テクノ・ポップ」という呼称が指す音楽ジャンルを厳格に定義することは難しいが、本稿ではひとまずこのように捉えておきたい。なお、「テクノ・ポップ」は和製英語であり、この言葉を最初に用いたのは音楽雑誌『ロック・マガジン』の発行人であった阿木譲であるとされている。東瀬戸悟によれば(「【インタビュー】嘉ノ海幹彦・東瀬戸悟 『vanity records』著者 その2/6」、二〇二一年八月17日、花形文化通信)、阿木が「テクノ・ポップ」という言葉を初めて用いたのは『ロックマガジン』1978年8月1日号に掲載された、クラフトワーク『ザ・マン・マシーン』の原稿の中においてであったという。
〈https://hanabun.press/2021/08/17/vanityrecords02/〉(参照日2024年11月15日)
(注2)「私、テクノ界のアイドルになります!」(『ビックリハウス』一九八四年十月号、パルコ出版)
(注3)越美晴インタビュー「テクノは、ロックとは別の、まったく新しい価値観を持ったものだと思います。」(『月刊ミュージック・ステディ』一九八四年一〇月号、ステディ出版)。
1-5「テクノ・ポップ」という装置ー反復が生み出す暴力と快楽ー
先に私は、「テクノ・ポップ」の代表的なアーティストとして、クラフトワーク、DEVO、YMOを挙げた。このうち一九七〇年に西ドイツ(当時)で結成されたクラフトワークは「テクノ・ポップ」のパイオニアともいえる存在であり、サウンド面のみならずアートワークやコンセプトも含めた「テクノ(・ポップ)」の基本的なイメージは、彼らによって作り上げられたといっても過言ではない。飴屋法水もまた、クラフトワークをきっかけとして「テクノ」に出会っている。
このようにして「テクノ」と出会った飴屋は、クラフトワークをはじめとするアーティストの楽曲や、彼らが打ち出すアーティスト・イメージを通じ、「テクノ」をどのようなものとして受け止めたのか。彼は次のように語る。
飴屋の発言から明らかになることを整理してみよう。まず、飴屋にとって「テクノ」は自身が演劇を始める上でひとつのきっかけとなっているらしいこと。次に「テクノ(・ポップ)」というジャンルに分類される楽曲の構造が、彼の音楽観に大きな影響を与えており、さらにはそれが飴屋にとってのエロティシズムと結びついていること。そして、「管理社会の代表のような」テクノ・ポップ系アーティストの画一的なファッションの中に、彼は「テクノ」というジャンルの本質にかかわる何かを見いだしていたということ。これらの事実が上記の発言を通して浮かび上がってくる。
ところで飴屋は、自身が「テクノ」に出会うきっかけとなったクラフトワークについて別のテクストでも語っている。「ダッチライフ」と題されたそれは、雑誌『鳩よ!』の稲垣足穂特集号に寄せられたエッセイであり、足穂の機械愛好者としての一面に焦点を当て、機械が足穂にとってどのような意味を持つ存在であったのかを、マシンを用いたパフォーマンスを展開していた当時の飴屋自身の活動と重ね合わせるようにして語ったものである。
飴屋はそこで「道具であるのと全く同時に快楽装置であり、玩具であるのと全く同時に道具である」ような「機械のもつ作用の多様性」について触れ、「模型飛行機ではなくハイテク装置としての実物の飛行機」にこだわる足穂の心性を推し量る過程でクラフトワークに言及している。
「機械となった音楽」、すなわち正確な音の反復を特徴とするクラフトワークの楽曲の中に、飴屋は「ある種の暴力」を見いだしている。シーケンサーによる自動演奏は、人力では到底実現できない無限の反復を可能にする。人間が生み出したものであるにも関わらず、「人間の肉体の強度と時間を全く無視した」演奏を行う機械という存在は、その自動性によって、創造者である人間に己を凌ぐ力を持つ存在としての脅威を感じさせるという点において、確かに「暴力」的であると言えよう。そして、その「暴力」は、飴屋の言うところによると、機械が必然的に持つ属性であり、「快楽装置としての機械と何ら矛盾するものではない」のである。
もし、クラフトワークの音楽の中に「快楽装置」としての要素を見出すとすれば、おそらくそれはそのサウンドが持つ快楽的な側面(彼らの楽曲は単純なリズムパターンやフレーズのリフレインによって聴く者に心地よさを感じさせる)ということになるだろう。さらにはそのように解釈することで、飴屋が「テクノ・ポップ」をどのように捉えていたのかという問いに対する答えが、自ずと導き出されてくる。
すなわち、機械が生み出す音の反復は、生身の人間による演奏では実現できない正確かつ無限の律動によって聴く者に暴力性を感じさせると同時に、ある種の快楽をもたらす。そして、それらの暴力/快楽を発生させる装置こそが、「機械となった音楽」=「テクノ・ポップ」である。
クラフトワークの楽曲を通して飴屋の目に映った「テクノ・ポップ」の姿とは、つまりはそのようなものであったのだ。
(注1)飴屋法水「テクノなハート」 (『銀星倶楽部』11「特集 テクノ・ポップ」1989年、ペヨトル工房)、一〇八頁。
(注2)同上。
(注3)『鳩よ!』一〇四(一九九二年七月一日、マガジンハウス)、五五頁。
1-6 テクノ・ポップからインダストリアル・ミュージックへ
前節では「テクノ・ポップ」との出会いが飴屋にもたらした影響について確認し、さらには反復を特徴とするその楽曲構造の中に彼が暴力性と快楽性という二つの側面を見出していたことを明らかにした。ここで再び『ライチ・光クラブ』の劇中使用楽曲に目を向けてみよう。本作で使われた楽曲は、大まかに言って二つの系統に分類できる。その一つは飴屋に多大な影響をもたらした、テクノ・ポップ系アーティストの楽曲である。東京グランギニョルが上演した四作品のうち、『ガラチア 帝都物語』については当時の舞台の模様を観客が録音したと思われる音源がインターネットに上げられているが、そこではクラフトワークをはじめとして、坂本龍一や立花ハジメ、土屋昌巳といったYMO周辺のアーティスト、さらにはレジデンツやDEVOなどの楽曲が劇中で使用されているのが確認できる(注1)。
なお、DEVOや坂本龍一の楽曲は、東京グランギニョルの旗揚げ公演『マーキュロ』でも使用されたようである(注2)。また、雑誌に掲載された『マーキュロ』の脚本(注3)を確認すると、ラストシーンでは細野晴臣の『第三の選択』が使用されたことがわかる。その他にも『マーキュロ』ではYMOのメンバーと交流の深かったイギリスのバンド、JAPANのナンバーが使用されている(注4)。
坂本龍一、立花ハジメ、レジデンツの楽曲は『ライチ・光クラブ』でも引き続き選曲されており、さらに第一幕ではDEVOのメンバーであるマーク・マザーズボーのソロ作品が使われている。したがって、これらのアーティストの楽曲は、東京グランギニョルの初期からこの劇団の舞台を支えてきたサウンドの系譜に属するといえるだろう。
その一方で、『ライチ・光クラブ』においては前述のアーティスト群と異なる新たな傾向が確認できる。それは、第一幕で使われているSPK、23 Skidoo、Test Dept.、DAFといったアーティストの楽曲である。これらのアーティストの楽曲はいわゆる「テクノ・ポップ」の系列とはやや様相を異にし、ジャンル的にはむしろ「インダストリアル・ミュージック」に分類するのがふさわしい。
一九七七年にアルバム・デビューしたイギリスのグループ「スロッビング・グリッスル」を嚆矢とするインダストリアル・ミュージックは、七十年代後半のポスト・パンクの流れから派生した音楽ジャンルである。八十年代以降、様々な様式やスタイルが派生し、ジャンル内における細分化が進んだため、その特色を簡潔に説明することは困難であるが、サウンド面における特徴としては、電子楽器を用いて生み出す凄まじいノイズ、電子的に変調されたボーカル、そしてメタル・パーカッションを用いた金属的なビートなどを挙げることができる。
『ガラチア 帝都物語』以前には使用されていなかったインダストリアル系アーティストの楽曲が、『ライチ・光クラブ』で多用された背景にはどのような意図があったか。それについて考える上で興味深いテクストが存在する。
『ライチ・光クラブ』の上演後まもなく、飴屋は雑誌『JUNE』誌上で「プレイング・エッセイ」と題した連載を開始している。連載の第三回目で彼はインダストリアル・ミュージックの雄「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン」を取り上げているが、その中に次のような記述が見られる。
飴屋がインダストリアル・ミュージックに言及しているテクストは他にもある。『銀星倶楽部』6「特集 ノイズ」に掲載された「金属の戦い/メタル・ノイズ」がそれである。ここで飴屋は、劇中で楽曲を使用したインダストリル系アーティストの名前を具体的に挙げながら、自身の音に対する嗜好、さらには自らが目指す演劇のあり方について語っている。少し長くなるが、引用してみよう。
このテクストは、東京グランギニョル解散後、飴屋がアーティストの三上晴子とともに『バリカーデ』(一九八七年一一月、大崎ランドスコップアトリエ内にて上演)を制作していた時期に発表されたものであるが、『バリカーデ』上演後に行われたインタビューの中でも、飴屋は「日常ではね、金属音が好きかな。それと打楽器的な音が好き。打楽器の音というのは、エンディングがないものだから、エンディングが作れないものだからね。」と語っている(注7)。
凄まじい力で鉄屑を破砕する、シュレッダー工場の機械。その機械もまた、砕かれる鉄と同じく、金属で出来ている。金属同士が激しい音を立てながらぶつかり合い、軋みを上げる様は、それを目にする者に圧倒的な「暴力」を感じさせる。さらに衝突し合う金属が立てる音は、機械の反復的な動作に伴ってリズムを帯び、そのサウンドはあたかもメタルパーカッションの打撃音のごときものとなる。金属音と「打楽器的な音」が好きだという飴屋にとって、シュレッダー工場で鳴り響く「圧倒的なメタル・ノイズ」はまさに理想的なサウンドであろう。大多数の人間にとっては不快な「騒音」としか感じられないその音に、飴屋は暴力と分かちがたく結びついた快楽性を見出している。
反復が生み出す暴力と快楽。それは飴屋がクラフトワークの楽曲の中に見て取ったものであり、さらには「かなりの人には不快感を与え」、「表面的には破壊的だし、暴力的」であるにも関わらず、彼がそこに美しさを見出してしまう、インダストリアル系アーティストの楽曲の中にも見出すことができるものである。
このように見ていくと、「その美しさは僕がG.G.に見せてほしい美しさに共通する」と飴屋が評したインダストリアル系アーティストの楽曲群とクラフトワークのサウンドに相通じるものがあることは、もはや明らかでろう。両者の共通性、それはメタル・パーカッションやエレクトロニック・パーカッション、シンセサイザーなどを用いて一定のリズムで打ち鳴らされる打撃音によって、聴く者に暴力性と快楽性をともに感じさせるという点である。
クラフトワークを初めとするテクノ・ポップ系アーティストのサウンドから、その表面を覆っていた「甘さや軽やかさ」を剥ぎ取り、音の反復がもたらす暴力性と快楽性のみを抽出し、より先鋭化させた装置。飴屋の目に映ったインダストリアル・ミュージックの姿とはおそらくそのようなものであり、飴屋はそこに自身が東京グランギニョルの舞台で表現しようとした「美しさ」に通じるものを見出したのだ。
「テクノポップ」という音楽ジャンルが持っていた「ポップ性」、すなわち親しみやすいメロディを排除し、金属的なビートの反復が生み出す暴力と快楽をより突き詰めたインダストリアル系アーティストの楽曲に、飴屋は自身が目指す東京グランギニョルの更なる変化の起爆剤としての役割を期待した。『ライチ・光クラブ』においてインダストリアル・ミュージックが使用された背景には、おそらくそのような意図があったと考えられる。
(注1)〈https://www.mixcloud.com/kool4plus1/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%81%E3%82%A2-%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E/〉(参照日2024年11月15日)
(注2)『ナンバーワン・ブック・オブ・ダッチライフ vol.3』(一九九三年)に掲載された「マーキュロ」の概要の中で、湯山玲子は次のように述べている。
また、『マーキュロ』の再演を観劇した浜里堅太郎(『ライチ・光クラブ』では吊るされる少年を演じた)によると、他にも「坂本龍一『B-2 UNIT』、細野晴臣『フィルハーモニー』『S-F-X』、デヴィッド・シルヴィアン『Brilliant trees』など今となっては名盤ばかりの当時の先鋭的サウンドから、伊福部昭、ヘッドライト、ノスフェラトゥなどの映画音楽」が使用されていたという(「街にチラシがあったころ ――1985~90年代の日本のインディーズ・チラシとアンダーグラウンド文化 02 東京グランギニョルとの出会い」、『ROADSIDER’S Weekly』2022年05月18日配信号〈https://roadsiders.com/backnumbers/article.php?a_id=2234〉、参照日2024年11月15日)。
(注3)『小説JUNE』一九八六年二月号(サン出版)。
(注4)筆者は以前『マーキュロ』の記録映像の一部を目にする機会を得たが、その際、JAPANの「サンズ・オブ・パイオニアーズ」が劇中で使用されているのを確認した。また、『マーキュロ』再演を観劇した浜里堅太郎によると、第二幕で嶋田久作がメスを手にして踊るシーンでは彼らの「メソッズ・オブ・ダンス」が使用されていたという(「街にチラシがあったころ ――1985~90年代の日本のインディーズ・チラシとアンダーグラウンド文化 04 吊るされる少年」『ROADSIDER’S Weekly』2022年08月17日 配信号〈https://roadsiders.com/backnumbers/article.php?a_id=2290〉、参照日2024年11月15日)。
(注5)飴屋法水「プレイングエッセイ3 ノイバウテンをめぐって」
(『JUNE』No.30 、一九八六年九月、サン出版)
(注6)(飴屋法水「金属の戦い/メタル・ノイズ」(『銀星倶楽部』6「特集 ノイズ」一九八七年七月七日発行、ペヨトル工房)
(注7)「飴屋法水+三上晴子 見つめる力、変わろうとする意志」、『新劇』一九八八年三月号。後に長谷部浩『4秒の革命―東京の演劇 1982-1992』(一九九三年八月、河出書房新社)に再録。
1-7 選曲における嗜好と指向
金属的な音、打楽器的な音、反復される単純なビートやフレーズ。テクノ・ポップやインダストリアル・ミュージックに見られるこうした音楽的特徴は、飴屋法水の嗜好にまさしく合致するものであるが、飴屋の好む音の特徴として、他にもいくつかの点を挙げることができる。『JUNE』に連載していたエッセイの中で、飴屋は幼少期から高校時代にかけての自身を振り返っているが、そこで彼は十代後半の頃、クラフトワーク、ディーボやトーキング・ヘッズ、YMOやプラスティックスなどのニューウェーヴに「どっぷりとつかっていた」一方で、「他にもレゲエやスカ、アフロ、ラテンなどの渇いたリズムにひかれた」と語っている。(注1)
ジャマイカやアフリカ、南米の音楽が持つリズムに飴屋は惹きつけられたというが、これらの音楽のリズムに共通する渇いた質感は、前述したテクノ・ポップやインダストリアル・ミュージックにも見出せるものである。また、飴屋は「打楽器とか好きでメロディーが苦手っていうのが昔からあってね。」(注2)という発言から窺えるように、自身が演出する舞台に音楽をあてる際、過度にメロディアスな楽曲や湿った叙情性を感じさせる音を避ける傾向がある。選曲における飴屋のそうした指向は、どのようにして形成されたのか。そこには当然彼個人の音楽的嗜好も反映されているのだろうが、私にはそれだけが理由ではないように思える。
「崩壊する新演劇」と題されたインタビューの中で、飴屋は状況劇場在籍時を振り返り、劇中で使用する楽曲の選曲に関して、座長の唐や他の劇団員との間に意見の食い違いがあったことを語っている。
飴屋が状況劇場を退団した理由が、自身の嗜好する音が劇団において受け入れられないというフラストレーションにあったことは先に確認した通りである。自分の好きな音だけで構成した舞台を作りあげるために東京グランギニョルを立ち上げた際、飴屋の脳裏には古巣の状況劇場を初めとする既成の小劇団における音響のあり方、すなわち歌謡曲に代表されるような情感過多な楽曲を使用することへの反発があったと考えられる。
過度に情緒に訴えかける音響のあり方を否定し、観客の感情移入や、甘やかな感傷に浸ろうとする彼らの欲望を突き放すかのように、情感と距離を取った音、すなわちテクノ・ポップやインダストリアル・ミュージックをはじめとする渇いた質感を持つ楽曲で舞台を構成しようとする――。飴屋の初期作品における音響のあり方について検証する中で浮かび上がってくるのは、そのような姿勢である。
(注1)飴屋法水「プレイングエッセイ15 少年飴屋シリーズ三『高校編』」(『JUNE』No.42、 一九八八年九月、サン出版)
(注2)『 CHROTUM-P』 vol.5+6(一九八八年)、三頁、
(注3)飴屋法水「崩壊する新演劇」『夜想 28 特集・ロマンのゆくえ』一九九一年一月一日、ペヨトル工房)、一〇二頁、一〇四頁。
1-8.「鉄のペニス」―『ライチ・光クラブ』第一幕―
前節において、私は飴屋が好んだサウンドの特徴を明らかにし、さらにはそうした特徴を持つ楽曲を自身の演出する舞台で使用した意図について考察した。その過程で見えてきたことを踏まえ、ここからは『ライチ・光クラブ』という作品における音響のあり方について検証していきたい。
本作は全二幕からなる舞台であるが、劇中で各楽曲が使われた場面を確認してみると、「インダストリアル・ミュージック」に分類されるアーティストの楽曲の使用が第一幕に集中していること、また、細野晴臣の楽曲は全て第二幕で使用されていることがわかる("Trembling#1"は一幕・二幕ともに用いられている)。
一幕と二幕の間に見られる使用楽曲の傾向の違いは、各幕の内容とどのように関連し、また作品全体にどのような効果をもたらしているのであろうか。さしあたってまずは第一幕から見ていこう。
はじめに指摘できるのは、第一幕は、ビートが強調されたインダストリアル・ミュージックやテクノ・ポップと、明確なビートを持たない楽曲とが、場面の内容に対応する形で使用されているということである。すなわち、舞台美術を駆使した視覚的な趣向によって観客にインパクトをもたらすことを主眼に置いたと思われる場面では、ビートを強調した楽曲が使用され、台詞を観客に聞き取らせることが登場人物の心情やドラマの展開を理解させる上で必要だと考えられる場面では、明確なビートを持たない緩やかなテンポの楽曲が主に使われているのである。
前者の例としては、23skidooの" Kundalini" をバックに、光クラブのメンバーが天井から下りてきた潜望鏡を覗き込み、そこから見える外部の風景を口頭で伝え合う場面、立花ハジメの”ChickenConsome”が鳴り響く中、ライチの完成に向けてメンバーたちが各自の担当する作業工程にとりかかり、その進捗状況をゼラが順番に確認する場面などを挙げることができる。これらの場面では大音量で鳴り響く楽曲の合間を縫うようにして、役者たちが各自に割り当てられた台詞をリズミカルに語っていくが、その口調は軍隊における点呼の模様を連想させるものがある。こうした演出は東京グランギニョルの旗揚げ公演『マーキュロ 』においても見られたものであり、飴屋の初期作品における特徴的な演出様式の一つであるといえよう。
一方これらの場面と対照的に、ゼラが独白する場面では、ビートを持たない緩やかなテンポの楽曲(「JAPAN」をはじめとする坂本龍一作品)が使用され、ゼラの語る台詞がまとう、文学的とも言える匂いを引き立たせる効果を担っている。
このようにビートの効いたリズミカルな楽曲と明確なビートを持たない静謐な楽曲とを場面の内容に応じて使い分けることは、舞台の進行に抑揚をもたらし、観客の意識を作品世界に惹きつけ没入させる上で効果的な役割を果たしているといえるだろう。
次に指摘し得ることは、光クラブのアジトに迷い込んだ少年が天井から伸びた鎖で吊るされるオープニングや、ジャイボが女教師及びテレビに「鉄のペニス」を突き立てる場面など、暴力性や残酷性、あるいはサディスティックで倒錯した性的欲望を前面に押し出したシーンが第一幕では展開されるが、SPK、DAF、そしてTest Dept.といったインダストリアル系アーティストの楽曲の使用はそれらの場面に集中しているという事実である。
視覚的な見せ場に富んだ第一幕の中でも観客にひときわ鮮烈な印象を与えたであろうこれらのシーンにおいてインダストリアル・ミュージックが多用されているのは、果たしてどのような意味を持つのだろうか。
扇田昭彦は、本作をおおっている「暴力と恐怖の感覚」を「人間的な生暖かさをもたず、クールでオブジェ的である」であると評し、「暴力と戦慄は当然エロティックな感覚に接近するが、それがここでは、生身の官能ではなく、黒光りする鉱物質のエロティシズムに変容している。」と述べている。舞台を貫くエロティシズムの特異性に言及した扇田の劇評は、『ライチ・光クラブ』という作品を考えるための様々な手がかりを読む者に与えてくれるが、中でも注目すべきは、光クラブの少年たちが抱えるエロティシズムの根底に「喪失感」や「不能感」があることを指摘している点である。
少年たちが抱く、「精神的な喪失感や不能感と表裏一体」の「攻撃性や加虐性」。「鉄のペニス」はいわばその象徴ともいうべきものであるが、興味深いことに、現存する台本を見ると、本作の第一幕には「鉄のペニス」というタイトルがつけられているのである。(注2)
このことから考えると、「鉄のペニス」が登場する場面は第一幕の中でも特に見せ場となる箇所として設定されており、さらには第一幕全体のトーンを決定づける役割を担わされていると見なすことができる。したがって、この場面でインダストリアル・ミュージックを使用した飴屋の狙いや、そのサウンドが舞台にもたらす効果について考察することは、『ライチ・光クラブ』における音響のあり方を明らかにする上で重要な意味を持つはずである。そのような推測のもとに、劇中で鉄のペニスが登場するシーンの流れを、ここで確認してみることにしよう。
上演台本によると、この場面では、まずはじめに猿轡をかませた女教師を伴ってジャイボが舞台に姿を表す。初演の模様を記録した音源を聴くと、その際、Test Dept.の "Fuel To Fight"が鳴り渡るのが確認できる。その後ジャイボが女教師に立て続けに質問を浴びせかけるくだりを挟み、彼が鉄のペニスを稼働させるシーンになるとDAFの"Osten Wahrt Am Langsten”が流れ出し、彼が女教師を犯している間、同曲がかかり続けている。そして、女教師を殺害したジャイボがテレビのブラウン管に鉄のペニスを突き刺し、彼に続くようにして光クラブのメンバーたちが自身に装着された鉄のペニスをマネキン人形に突き立てる際には、再び "Fuel To Fight"の一部分(メタル・パーカッションを連打する音)が舞台に鳴り響く。
先に私は、テクノ・ポップやインダストリアル・ミュージックが持つ、反復による暴力と快楽を生み出す装置としての性質を指摘した。インダストリアル・ミュージックのそうした性質と、「鉄のペニス」というガジェットに象徴される、少年たちが抱える暴力性や加虐的な性衝動との間には、どのような関連性が見出せるのか。
もし両者が結びつく一点があるとすれば、おそらくそれは、インダストリアル・ミュージックのサウンドを特徴づける単調なビートの反復がもたらす快楽と、性的行為の際に行う反復的な動作が生み出す快楽との間に見られる相似性である。ドラムやメタル・パーカッションを打ち鳴らし、暴力的なビートを生み出すこと。鉄のペニスを生身の女性の肉体に、あるいはテレビのブラウン管やマネキン人形に繰り返し突き立てること。これら二つの行為は、前者は暴力と、後者は男性の性的欲求と結びついた、衝動の発現としての反復的身体行為であるという点において共通するものがある。
しかも後者の場合、女性の身体への性的接触が、自身の生身の肉体ではなく、外科手術によって取り付けられた鉄のペニスを介して行われることは注目すべき点である。光クラブの少年たちにとって、女性は一方的かつ暴力的な手段によってしか触れることができない存在であり、互いに心を通わせあったり、対等な立場でコミュニケーションを取る対象にはなり得ない。あるいは、女性に対して高圧的に接することで、彼らは自身の弱さや性的不能性を糊塗しようとしているかにも思われる。そのことは、例えばゼラがマリンに対して殊更平静を装って接しようとし、彼女に反抗的な態度を取られた瞬間「女はこれだから嫌いだ」といって激昂する場面からうかがえる。扇田がいうところの「喪失感や不能感と表裏一体」である「少年たちの攻撃性、加虐性」は、例えば彼らが少女を獲得するにあたって、自ら手を下すのではなしにロボットによる誘拐という迂回的な手段を選んでしまう点にも反映されている。
女性を渇望する意識と、それとは裏腹な女性に対する嫌悪感、そして自らの不能感から生じる怯えなどがない混ぜになった、いびつな性的欲望。『ライチ・光クラブ』に登場する少年達が抱くエロティシズムの根幹にあるのは、つまるところそのようなものである。そして、彼らのそうした欲望が鉄のペニスによる女教師への暴行・殺害、さらにはテレビやマネキンとの擬似性交というショッキングな形で具現化される際に舞台で流れる楽曲こそが、DAFとTest.Deptのナンバーなのだ。
以上のように考えていくと、第一幕の音響を特徴づけるインダストリアル・ミュージックは、少年たちの抱えるエロティシズムのあり方と深く結びついており、そのサウンドは、彼らの内に秘められた欲望や衝動を表現する音響言語として機能していると捉えることができる。
『ライチ・光クラブ』という舞台において、Test Dept.やDAFの楽曲は、台詞以上に登場人物の内面を雄弁に語り(彼らに「内面」というものがあればの話だが)、彼らの中に渦巻く情動を、聴覚を通して観客に伝える役割を担っているのである。飴屋は、少年たちが抱える欲動をくだくだしい台詞で思い入れたっぷりに語らせたりはしない。ただ身体行為と音楽によって、観客にそれを提示するのみである。
東京グランギニョルの解散後に発表されたテクストの中で、飴屋は次のように述べている。
「僕が使いたい演劇言語は、セリフと音とビジュアルとが、全く等価でぶつかり合った時に、劇場という空間に始めて(ママ)立現れ、脳髄に直結するような視聴覚言語である。」(注3)
ここには、飴屋が「演劇にまつわる書物の中でも最も熱心に読んだもの」(注4)として挙げるアントナン・アルトーのテクスト中に見られる、次の一節からの影響が垣間見える。
作家、俳優、演出家など様々な顔を持つアルトーは、戯曲偏重の西洋演劇を否定し、身振りや表情などの身体言語、さらには音響や照明、美術といった、舞台を構成する諸要素からなる演劇固有の言語によって構成される「残酷の演劇」を提唱したことで知られている。「残酷の演劇」を巡るアルトーのテクストは『演劇とその分身』にまとめられているが、二十歳前後の頃に同書を繰り返し読んだという飴屋が「役者が二人立っただけで、そこにはすでに距離や、配置やフォルムが発生するじゃないか。そのことがもつ力。音の力。光の力。人間以外の物質の力……全部等価じゃないか。それら全てが、文学とは違う演劇の肉体じゃないか。」(注6)と語る時、そこにはアルトーが提示した「残酷の演劇」の方法論を彼なりの理解で咀嚼し吸収した痕跡が見られるのである。
演劇というメディアにおいては、台詞や役者の身体のみならず、照明や衣装、美術、音響といった舞台を構成する全ての要素が等価であり、それらが絡み合い融合することで演劇における固有の言語が形成されていく。したがって、そこでは時に、たった一つの行為や音が、幾百の台詞に勝る「ことば」となることもある。おそらくアルトーの著作を通じてそのことを知った飴屋は、自身の演出する舞台においてそれを実践してみせたのだ。
(注1)扇田昭彦「鉱物のエロスと自閉の美しさ」(『美術手帖』五六三号(一九八六年六月)。のちに『現代演劇の航海』(一九八八年一二月、リブロポート)に再録。
(注2)〈https://x.com/zera_tsunekawa/status/909120850917441536?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉(参照日2024年11月15日)
(注3)「グランギニョルという仮説」(『演劇ぶっく』第6号「特集 東京グランギニョル全記録」、一九八七年三月、演劇ぶっく社)、四〇頁。
(注4)飴屋法水「アルトーについて?」『アントナン・アルトー著作集』月報第一号[第Ⅰ巻付録]、一九九六年一月、白水社、一頁
(注5)アントナン・アルトー「東洋演劇と西洋演劇」(アントナン・アルトー著作集Ⅰ『演劇とその分身』安堂信也訳、一九九六年一月、白水社)、一一九頁。
(注6)飴屋法水「崩壊する新演劇」(夜想28「特集 ロマンのゆくえ」一九九一年、ペヨトル工房)、一〇四頁。
1-9.鉱物質のリリシズム―『ライチ・光クラブ』第二幕―
明確なビートを持つインダストリアル系アーティストの楽曲が多用された第一幕に対し、第二幕では、ビートを強調した曲の使用は、マリンが電卓に触れたためにライチが誤作動を起こす場面で流れるArt Of Noiseの"Legs"
と、ジャイボが潜望鏡を覗き込む際に流される楽曲のみである。そして、第一幕と第二幕を比較検証していくと、両者の相違は音響面にとどまらないことが見えてくる。すなわち、サーチライトや潜望鏡、「鉄のペニス」といった舞台美術を駆使した視覚的インパクトの強いシーンが目を惹く第一幕に対し、ライチとマリンが心を通いあわせていくさまを描いた第二幕は、そこで展開されるドラマの内容面においても、第一幕とはやや異なる趣きを持つのである。
『ライチ・光クラブ』を再演時に観劇した庄司トオルは、当時の記憶を振り返るSNS上の書き込みの中で、本作の印象を「前半は集団での連呼といわゆる軍隊のイメージが畳み掛けるように続いたが、後半は少女漫画的世界へ没入する。飴屋さんらしい一部あっての二部である。」(注1)「越見晴(ママ)さん演じるマリンが出てきてからのライチ第二部は、ルイ•マルの『地下鉄のザジ』とか、ジャン•ピエール•ジュネの『アメリ』のような、可愛いフランスのセミコメディをちょっとビターに仕上げたような感じである。」(注2)と語っている。
タミヤが去勢されるシーンや、ライチによって光クラブのメンバーが虐殺されるシーン、ゼラの内臓をライチがつかみ出すシーンなど、第一幕同様に暴力的でグロテスクなシーンもあるが、それと同時に一種の叙情的な感覚を第二幕が含み持っていることは否定できない事実である。そうした色合いはライチとマリンが言葉を交わす場面においてひときわ強く、マリンが発する、時に詩的なレトリックを用いたセリフは、本作にある種の文学性やロマンティックなムードをもたらす要因にもなっている(先に引用した飴屋の言葉を用いれば、「耽美主義的な芝居」という側面を持っているのが第二幕であるといえよう)。
第一幕に顕著な、乾いた感覚の恐怖・残酷劇という側面。
第二幕に漂う、抒情性やロマンティシズム。
『ライチ・光クラブ』という作品の持つ、このような二面性を、我々はどのように捉えるべきなのか。
それについて考えるための手がかりを、我々は細野晴臣の発言の中に見出すことができる。
一九九三年に行われたインタビューの中で、細野は次のように語っている。
ここで細野が「脚本の彼女」と呼んでいるのは、東京グランギニョルの座付作家、鏨汽鏡のことであろう。
鏨汽鏡(『ライチ・光クラブ』の際の筆名はK・TAGANE)は八十年代初頭、状況劇場に在籍していた。飴屋とほぼ時を同じくして同劇団を退団した彼女は、東京グランギニョルの旗揚げに関わり、『マーキュロ』、『帝都物語 ガラチア』『ライチ・光クラブ』の脚本を手がけている(注4)。
但し、脚本に関してはその全てを鏨が単独で担っていたわけではなく、作品によっては飴屋が執筆に加わることもあり、また脚本作成の段階で飴屋のアイディアや意向が取り込まれたり、演出の過程で脚本の内容が変更されるといったことも行われていたのではないかと思われる節がある(注5)。
この推測を裏付ける根拠となる記述を、我々は『2マイナス1号/特集●飴屋法水-ボディ感覚』の中に見出すことができる。そこでは『マーキュロ』の制作過程において、舞台上に現れる月に関する脚本中の記述が、飴屋の意向で書き換えられたことが明らかにされているのである。以下に当該箇所を引用する。
この一文は、東京グランギニョルという劇団における舞台の制作過程や、さらにはその作品の特色を考える上で重要な示唆を与えてくれる。すなわち、文学性や抒情性を豊かに持つ世界観を得意とする作家の鏨と、抒情性から距離をとった硬質で渇いた舞台を指向する演出家の飴屋という、異なる資質をもった二人の共同作業によって東京グランギニョルの作品が生み出されていたことが、この記述からは見えてくるのである。
『ライチ・光クラブ』もまた、そのような過程を経て制作された作品だとするならば、先に指摘した本作の持つ二面性は、二人の対照的な個性の反映であるとみなすことができるのではないか。すなわち、飴屋の資質や志向が前面に押し出されたのが第一幕であり、ロマンティシズムや文学性、抒情性を強く感じさせる第二幕には鏨のセンスが色濃く反映されている。そのような見立ては決して不可能ではないだろう。
現存する『ライチ・光クラブ』の音源に初めて接した時、私が意外に感じたのは、飴屋の本来の志向から外れているはずの叙情性や文学性といった要素を、本作が少なからず含み持っているという点であった。作品の端々に挿入されるゼラの独白や、マリンが発する台詞において特に顕著なそれらの要素は、グランギニョル解散以降の飴屋の作品(例えばM.M.M.の『SKIN』など)からはあまり見出せないものである。
飴屋は東京グランギニョルの活動時、演劇が戯曲を中心に据えた文学的な視点から語られることへの懐疑を表明していた(注7)。また、『マーキュロ』上演の際、感情移入した観客が泣いたことに対して飴屋は「気持ちが悪くなった」というが(注8)、彼のこうした反応からは、観客の情緒に訴え共感を誘う抒情的なセリフへの拒絶感が垣間見える。しかしながら、こと『ライチ…』に関する限り、飴屋は鏨の脚本が持つ文学性や抒情性を完全に打ち壊すのではなく、要所要所で彼女のそうした持ち味を活かした演出を行っているような印象を受ける。
但し、鏨の書いた台詞がまとう文学的な香りやロマンティシズムは、飴屋が目指す演劇のあり方からは外れたものであり、彼が自身の作品から極力排除しようとした要素である。鏨の資質を前面に押し出すことによって『ライチ・光クラブ』という作品がウェットで感傷的なムードに支配されてしまうのは、飴屋としても避けたいところであっただろう。実際、本作から感じ取れるセンチメンタリズムは(音源から判断する限りにおいては)適度に抑制されており、決してべたついたものにはなっていない。
私が『ライチ・光クラブ』という作品に見出すのは、人間的な温もりや湿り気をぬぐい取られた、クールで硬質な抒情性である。扇田昭彦は本作が放つエロティシズムを「鉱物的」と表現したが、その形容はまた、この作品を貫くリリシズムの質感をも見事に言い当てているように思われる。稲垣足穂や宮沢賢治の作品世界にも通じるような、いわば鉱物質のリリシズムが本作を覆っており、その色合いは第二幕において特に強い。そして、私にそのような印象を抱かせる要因のひとつは、おそらく第二幕の音響にある。
先に指摘したように、本作では細野晴臣の楽曲が多用されており、その使用は第二幕に集中している。細野の楽曲が大量に採用された背景としては、例えば(チラシにコメントを寄せていることからも分かるように)『ライチ…』制作の時点で細野と飴屋との間に互いをリスペクトし合うような強い信頼関係が結ばれていた、といった事情などが推測されよう。しかし、仮にそうした信頼関係が両者の間に存在していたとしても、選曲に並々ならぬこだわりを持っていた飴屋が、アーティストとの個人的な関係性のみに基づいて同一作者の楽曲を安易に多用するとは考えにくい。細野の楽曲のサウンドの中に、飴屋が自身の志向する音と一致する何らかの要素を見出した、あるいは『ライチ・光クラブ』という作品を成立させるためには細野の楽曲が不可欠であると判断した。そのように考えるのが妥当であろう。
『ライチ・光クラブ』では細野の楽曲が七曲使われており、それらはいずれも一九八四年から一九八六年にかけて細野が主宰していた二つのレーベル、「ノンスタンダード」「モナド」から発表した四枚のアルバムに収録されている。
各楽曲が収録されたアルバムはそれぞれ次の通りである。
〇"Dark Side of the Star"…『S-F-X』(一九八四年一二月一六日発売)に収録。
〇「星めぐりの歌」「ジョバンニの透明な悲しみ」…『銀河鉄道の夜』(一九八五年七月七日発売)に収録。
〇"Bio Philosophy"…『コインシデンタル・ミュージック』(一九八五年八月二一日発売)に収録。
〇"Trembling #1"、「オペラによる制御回路 (シーケンシャル・オペラ・サーキット SEQUENTIAL OPERA CIRCUIT)」、「動物の意見(アニマルズ・オピニオン)」…『エンドレス・トーキング』(一九八五年一〇月二一日発売)に収録。
これらの楽曲は劇中においてどのような形で使用され、またそのことが作品に対する観客の印象を形成する上で、いかなる効果を上げているのか。以下に検証していこう。
まずはじめに"Bio Philosophy"、「星めぐりの歌」「ジョバンニの透明な悲しみ」の三曲から取り上げたい。これらはいずれも、舞台上にマリンとライチだけが残され、両者が会話を交すというシチュエーションにおいて使用されている。
このうち、"Bio Philosophy "「星めぐりの歌」は、ともに主旋律を奏でるオルゴールのような音色が特徴的な楽曲である。前者はもともと細野自身も出演したヤクルトのCMソングとして制作された曲、後者は「銀河鉄道の夜」の作者である宮沢賢治が作った曲のカバーで、同作がアニメ化された際、サウンドトラックとして制作されたものである(原曲には歌詞があるが、ここではインストゥルメンタルになっている)。
"Bio Philosophy"は、マリンにオルガンの練習をさせようとするライチに対して、マリンが「オルガンは左手で弾くものだ」という自論を述べ始める際に流される。『ライチ・光クラブ』は、暴力や残酷、恐怖の感覚が作品全体を貫く一方、ところどころに細かなギャグや登場人物間のユーモラスなやり取りが挿入され、それらがもたらす一種の軽みが、舞台の印象をシリアス一辺倒なものにしたり、あるいは過剰な陰鬱さに物語が覆われてしまうことから救っている。中でもオルガンの弾き方を巡って交されるライチとマリンの会話はひときわ微笑ましく、嶋田久作演じるライチが垣間見せる、幼い子供のような無邪気さは、当時の少なからぬ観客に温かな笑いをもたらしたことであろう。恐怖と残酷の色が強い本作において、いわば一服の清涼剤のような役割を担っているのがこの場面であり、たわいのないやりとりにふけるマリンとライチの台詞の端々に、我々は劇作家・鏨汽鏡の卓越したセンスを見てとることができる。
オルガンを両手で弾かせようとするライチに対して、マリンは「違う。オルガンは左手で弾くものよ」と答える。彼女のこのセリフをきっかけに流れ出す“Bio Philosophy"は、どことなく人懐っこさを感じさせるその曲調により、二人の会話が舞台上に現出させる無垢でイノセントな世界(それは幼い日に触れた童話や絵本の中に我々が見出したものに限りなく似ている)へと観客を誘う水先案内人のような役目を果たしているのである。
一方、「星めぐりの歌」が使用されるのは、機械に改造されることを宣告されたマリンが、ライチに向かって「私が機械になったら君は嬉しい?」と問いかける場面である。
現存する初演の音源を聴くと、その後マリンとライチの間で以下のようなやり取りが交される。
ちなみに本作を観劇した庄司トオルによると、この場面において、マリンを演じた越美晴は楽曲に合わせ、ゼンマイ仕掛けの人形のように踊ったという(注10)。
東京グランギニョル活動時、ときに一部の熱狂的な観客が飴屋の自宅に押しかけてくることがあり、その中には「私、大人が嫌いなんです」と語る者がいたという。飴屋はこうした「自称ナイーブな少年少女に共感されることへの嫌悪」が「常にあった」と語っているが(注11)、成長を拒否し、「鉄の少女」へと改造されることで少女性を保持しようとする自身の心情をマリンが吐露するこの場面は、演出次第では彼女と同じ思いを抱えた「ナイーブな」少年少女たちの共感を呼ぶ感動的なシーンに仕立てあげることも可能であったはずである。
では、実際の舞台において、この場面はどのように展開されているのであろうか。
現存する初演の音源を聴くと、このシーンにおけるマリンの語り口は彼女の胸奥に秘められた思いの痛切さをうかがわせるような切迫感にあふれたものであり、その点だけに着目すれば先に述べた少年少女たちの感傷を刺激する要素を含んではいる。
しかしながら一方で、そのように自らの思いを語るマリンの身振りは、意志や感情を持たないゼンマイ仕掛けの人形の如くであり、彼女の声が持つ切迫したトーンから受ける印象とは乖離している。
さらに、この場面で流される「星めぐりの歌」の愛らしくほのぼのとした曲調は、マリンの戯れとも思えるような人形めいた仕草と相まって、彼女の台詞をどことなく冗談めいたものとして印象づける効果を発揮し、それによって観客はマリンが口にする言葉の意味を、深刻に捉えることなく受け流すよう仕向けられる。
つまり、この場面における「星めぐりの歌」の使用は、マリンの語る台詞がまとう感傷的なムードを増幅させたり、あるいは彼女と同じ思いを抱えた観客たちの心を揺さぶり共感を誘うようには作用せず、むしろ台詞に込められた感情が持つ熱を冷却し、彼女の言葉を観客がシリアスに受け止めることを防いでいるのである。
このように、"Bio Philosophy "と「星めぐりの歌」は、それぞれの曲調によって、舞台で展開されるライチとマリンのやりとりにある種のイメージづけを行う役割を果たしているが、前者は二人の会話が醸し出すユーモラスな雰囲気や無垢でイノセントなムードを助長する効果をあげているのに対し、後者はマリンの語る台詞が含み持つ感傷性を抑制し、観客の過度な感情移入を防ぐ役割を担っている。
あるいは、クールで機械的な印象を感じさせるアレンジが細野によって施された「星めぐりの歌」を使用することで、台詞に込められた感情の激しさと楽曲の肌ざわりとの間に落差を生み出し、それによってマリンという少女の抱える哀切な心情を観客により強く印象づけることを狙ったのが後者の場面であるという解釈も可能であろう。
飴屋は、状況劇場時代を振り返るインタビューの中で、演じ手の感情を高揚させるような音響を求める演出家や役者の要望に対して、「僕はノセたくない。シンクロしすぎたくない。ハメたくない。いや、上品な距離をとりつつハメたい。」と語っているが、この場面における台詞と音響の関係は、(先に示した二つの解釈のいずれをとるにしても)まさしく「上品な距離をとりつつ」ハマった好例であると言えるのではないか。
シンセサイザーによって奏でられる、硬質な中にも親しみを感じさせるサウンドが印象的な上記の二曲に対し、ビニールシートで雨水を避けながらライチとマリンが眠りにつく場面で使われた「ジョバンニの透明な悲しみ」は、しめやかで静謐な趣きをたたえた、透明感のある楽曲であり、そのサウンドはどこか宗教的な印象さえ漂わせている。
この曲について考えるにあたっては、一つ気に留めておくべき点がある。「ジョバンニの透明な悲しみ」は細野名義で発表された『銀河鉄道の夜』に収録されているが、楽曲のクレジットを確認すると作曲は越美晴、編曲は細野晴臣となっている(注12)。従ってこの曲は、正確にいうと細野晴臣の楽曲というよりは越美晴の作品、あるいは越と細野の合作と捉えるべきかも知れない。
「ジョバンニの透明な悲しみ」が使用されるのは、『ライチ・光クラブ』という舞台の中でも特に抒情性に溢れた場面である。そして、この曲は、舞台を満たすそのようなムードにふさわしい曲調を備えているといえよう。飴屋はここで、場面の内容と相反する曲調の楽曲を用いることによって鏨の持ち味である抒情性を無化するのではなく、むしろそうした情感に観客が浸ることを促すかのように、この曲をセレクトしているようにも思われる。
しかしながら、シンセサイザーを用いたそのサウンドは、美しいながらもどこか冷ややかな感触を持ち、人間的な温もりや生臭さとは隔絶した天上的な印象を感じさせる。楽曲を終始貫いているのは、鉱物的で冷たい抒情性とでも言うべきムードなのだ。
このように、「ジョバンニの透明な悲しみ」という楽曲がまとう質感やそれが我々に与える印象は、あくまでもクールで硬質である。第二幕の中でもとりわけ抒情性やロマンティシズムを色濃く感じさせる場面において、この曲が使用されたのは、そのサウンドが持つ抑制的なリリシズムが、飴屋がこの場面に求めるティストと合致したからではないか。仮説という形ではあるが、私はそのような意図をこの場面における芝居と音響との関係性の中に見出すのである。
細野自身が作曲した"Bio Philosophy"、宮沢賢治の楽曲のカバーである「星めぐりの歌」、そしてマリンを演じた越美晴が作曲を手がけた「ジョバンニの透明な悲しみ」。細野のアルバムから選曲されたこれらの楽曲は、各々の曲調や、そのサウンドが持つ質感によって、第二幕を特徴づける鏨のリリカルなセンスを飴屋が許容し得る範囲内で活かす効果を上げているということができるだろう。つまり、各場面のシチュエーションに応じてセレクトされた細野の楽曲のサウンドは、本作の第二幕を貫く鉱物的で抑制された抒情性ともいうべきムードが形成される上で大きな役割を果たしているのである。
ここまで確認してきた三曲が鏨の持ち味である抒情性を活かす効果をもたらしているのに対して、『THE ENDLESS TALKING』から選曲された楽曲は、劇中で果たす役割という点において、それらの楽曲群とは様相を異にする。そこで、続いては『THE ENDLESS TALKING』に収録された楽曲が劇中においてどのような形で使用されているのかを検証していくことにしたい。
『ライチ・光クラブ』で使用された細野の楽曲は、そのほとんどがCMや映画のサウンドトラック、あるいは美術展のBGMとして制作されたものであり、当然ながら本作のストーリーや世界観に寄り添う形で生み出されたものではない。『THE ENDLESS TALKING』に関して言えば、このアルバムはもともとイタリア・ジェノバで開催された「ジャパン・アヴァンギャルド・オブ・ザ・フューチャー展」で展示されたオブジェのために作られた楽曲をまとめたものである。『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』の中で、細野は本作の制作経緯を語っているが、聞き手の北中正和が発した「これ(注・『『THE ENDLESS TALKING』』)はインダストリアルな機械的なイメージもあったんですか。」という問いに対し、次のように答えている。
『THE ENDLESS TALKING』収録曲のうち、『ライチ・光クラブ』の劇中で使われたナンバーは三曲。各楽曲が使用されたシーンを改めて確認すると、次のようになる。
〇"Trembling #1"・・・光クラブのアジトに迷い込んだトバをゼラが詰問するシーン及び眠りについたライチとマリンの元に突如として光クラブのメンバーが戻ってくるシーン。
〇「オペラによる制御回路(シーケンシャル・オペラ・サーキット SEQUENTIAL OPERA CIRCUIT)」・・・タミヤの手により火をつけられ燃え上がるライチ畑を光クラブのメンバーが潜望鏡ごしに眺めるシーン及びタミヤが去勢されるシーン。
〇「動物の意見(アニマルズ・オピニオン)」・・・ゼラがマリンを機械に改造することを宣言するシーン。
こうして見ると、いずれの楽曲も、物語の展開において登場人物の身に危機的状況が生じたり、あるいは観客に緊張感や圧迫感、恐怖感をもたらす場面で使用されていることがわかる。つまり、『ライチ・光クラブ』の劇中で『THE ENDLESS TALKING』の楽曲が用いられるのは、このアルバムを制作した際の細野の意図である「ポップな気持ちで作った音楽」「イタリア的な陽気な音楽」という印象とはほど遠い、むしろその対極にあるような感情を観客に喚起させる場面なのだ。
前節で確認したように、『ライチ・光クラブ』の第一幕ではインダストリアル・ミュージックが多用されている。そのインダストリアル・ミュージックを細野は「非常に暗い音楽に聴こえる」という。しかし、「そういう意味では、インダストリアルではない、イタリア的な陽気な音楽です。」と語る彼の楽曲が『ライチ・光クラブ』という舞台の特定の場面で使用されることにより、そのサウンドはインダストリアル・ミュージックとは違った質の重さや暗さを帯びて鳴り渡り、観客に圧迫感や緊張感、さらには不安や恐怖を与える効果をもたらしているのである。
ここで我々は先に引用した細野の発言を改めて思い返す必要がある。細野は自身の「第三の選択」が飴屋の舞台で使用されたことについて、「飴屋君が使うと、ものすごく恐い音楽に聞こえるんですよ。暴力的にね。だから、逆に教えられたりもするんですよ。自分の中にある不気味なものを。」と語っていた。作曲者の細野自身ですら意識しない、「自分の中にある不気味なもの」。彼が無意識のうちに楽曲の中に閉じ込めてしまった恐さや禍々しさ、あるいは暴力性。細野の楽曲が隠し持つそうした要素を飴屋は嗅ぎ取り、自身が手がける恐怖劇(グランギニョル)で使用したのではないか。私にはそのように思えてならない。
ビートの効いたインダストリアル・ミュージックが観客の心を激しく揺さぶるのに対して、ドローン・ミュージックのようなテイストを持つ細野の楽曲は、観客の心を恐怖や緊張でじわじわと締め上げていくような趣きを持つ。ハードで強圧的なインダストリアル・ミュージックと静かで不穏な細野の楽曲。このような両者の差異が第一幕と第二幕の印象を対照的なものにしている一因であるとも言えるだろう(注14)。
ここまで述べてきたような、八十年代半ばに制作された細野の楽曲に内在する「怖さ」は、実は鈴木惣一朗によっても指摘されているところである。鈴木は『銀河鉄道の夜・特別版』のブックレットに掲載されたライナーノーツで収録楽曲に関する詳細な解説を執筆しているが、そのうち「幻想と現実」について次のように述べている。
鈴木はまた「ジョバンニの幻想」の楽曲解説の中で、同曲について「何とも恐ろしい曲想ですが、日本的な湿度はなく、イタリアのホラー映画監督ダリル・アルジェントのような渇いた恐怖感です。細野さんの独特な(怖さの)さじ加減を聴き取って頂ければ、と思います。」(注16)と述べている。
鈴木による楽曲解説は、細野の作品が持つ多義性、特にその楽曲が含み持つ「恐怖とイノセント」について指摘している点で興味深い。なぜなら、「恐怖とイノセント」は、『銀河鉄道の夜』を初めとする八十年代半ばの細野作品が多用された『ライチ・光クラブ』を貫く感覚でもあるからだ。
鈴木が細野の楽曲に見出した諸要素のうち、「イノセント」な感覚はマリンとライチのやりとりの際に使用された楽曲に、そして「恐怖」の感覚は『THE ENDLESS TALKING』からセレクトされた三曲にことさら顕著である。このように見ていけば、『ライチ・光クラブ』において細野の楽曲が多用されたのは必然であったとすら言えるだろう。
細野の楽曲がまとう硬質な抒情性とその背後に秘められた恐ろしさ。それらが劇中で最も大きな効果をあげるのが、舞台の幕切れで使用される"Dark Side of the Star"だ。
この曲は一九八四年十二月に発表された細野のソロ・アルバム『S・F・X』の最後を飾る楽曲である。前年にYMOを散開(=解散)した細野がテイチクレコード内に立ち上げた自身のレーベル「ノンスタンダード」からリリースした本作は、当時興隆しつつあったヒップホップの要素なども取り入れながら、YMOが作り上げたテクノサウンドの更なる追求を図った作品である。強圧的なビートを持つ楽曲を中心に構成された本作にあって、"Dark Side of the Star"は静謐で落ち着いた印象を感じさせる楽曲である。『S・F・X』レコーディング時、細野はタイトなスケジュールの中で制作を強いられたことによる強いストレスに晒されており(注17)、そうした自身の精神をいわば「チルアウト」(注18)させる必要に迫られて作ったのがこの楽曲であると言えるだろう。
"Dark Side of the Star"は後年『ノンスタンダードの響き』と題されたコンピレーションアルバムにも収録されているが、その際に付せられた鈴木惣一朗による作品解説は、この楽曲が『ライチ・光クラブ』という舞台の中で果たす役割について考える上で見逃せない内容を含んでいる。以下にその全文を挙げてみよう。
鈴木の楽曲解説において注目すべき点は、『S・F・X』収録曲の中では比較的穏やかな雰囲気をまとった本作を、「最も過激」と評していることである。
静穏なサウンドの中から垣間見える深淵な音世界。静けさの中に秘められたとてつもない過激さ。このように相反する要素を含み持つ"Dark Side of the Star"は、細野の楽曲に内在する「独特の怖さ」を最も体現する作品であるといえるだろう。この楽曲のそうした性質は、劇中においてどのような効果をもたらしているのか。ここで同曲が使用された『ライチ・光クラブ』のラスト・シーンを改めて思い起こしてみよう。
停止したライチと、その膝の上に横たわり眠るマリン。前者はやがて錆つき鉄屑となり、後者の肉体は腐敗し朽ち果て白骨化し、どちらも最後はただの「モノ」と化すであろう。そんな彼らを見つめているのは、腹部から内臓をはみ出させたゼラ、そして彼の背後に亡霊の如く浮かび上がる血塗れの少年たちである。舞台上に提示されるその構図は、本来ならばこの上なくグロテスクで陰惨なものとして観客の目に映るはずだ。しかしながら、そこに"Dark Side of the Star"のサウンドが重なる時、音や光や役者の身体といった諸要素の結合により構成される演劇言語の引き起こすマジックともいうべき事態が出来する。凄惨でグロテスクな情景と、静謐な抒情性のうちに底知れない恐ろしさと過激さを秘め持つ細野の楽曲。両者が舞台の上で交錯した時、そこには戦慄的な美しさが立ち現れてくるのである。
少年たちが流した血や抉り出された臓物の放つ臭気を洗い流すかのように響き渡る"Dark Side of the Star"。そのクールで澄明なサウンドは彼らの肉体から人間的な生々しさを拭い去り、その亡骸はアジトに捨て置かれた大量のジャンク(ドラム缶、テレビのブラウン管、鉄屑など)と等しい単なる物質にまで還元されてしまう。第一幕の冒頭で少年のうちの一人が「ここには、物があるばかりです!」という台詞を発するが(注20)、ラストシーンでは彼ら光クラブのメンバーもまた、生命感を喪失した「物」=死体へと変わる。本作の終幕で観客が目にするのは、そのように人と物質との境界が消失し、全てが「物」に成り果てていく世界の姿である。『ガラチア 帝都物語』のチラシ裏に掲載された丸尾末広との対談の中で、飴屋は「例えばテクノは博物学だね。テクノを開く(ママ)と、死臭がするね。機械の奏でる音楽は、それだけでエロティック。」と述べているが、全ての登場人物が息絶えていく、死臭に満ちた舞台の中で鳴り響く細野晴臣の「テクノ」は、この上なくエロティックかつ戦慄的なまでの美しさをもって観客の心を捉えたであろうことは想像に難くない。
『ライチ・光クラブ』という舞台の中で細野晴臣の楽曲が果たす役割について考察するのに、私はいささか言葉を費やし過ぎたようだ。ここでその結論をまとめておきたい。
鏨の脚本が持っていたリリシズムやセンチメンタリズムを飴屋が許容できる範囲で活かし、さらには彼自身の持ち味である硬質でドライな感覚と融合させる上で、細野の楽曲は重要な役割を果たしている。クールで硬質な抒情性を持つ細野の楽曲は、鏨汽鏡と飴屋法水というそれぞれ異なる資質や志向を持った二人の感性を、一つの作品の中で結びつけるための橋渡し的な役割を担っているのである。それと同時に、恐怖や残酷、暴力性を全面に押し出した本作で細野の楽曲を使用することは、(作曲した当人ですら自覚していなかった)彼の作品が内に秘め持つ禍々しさや暴力性を期せずして炙り出すことにもなった。このように、『ライチ・光クラブ』第二幕における音響のあり方は、飴屋法水という演出家の特異性を明らかにするだけでなく、細野晴臣というアーティストの楽曲が持つ多義性やその特質をも浮かび上がらせ、我々に提示するのである。
東京グランギニョルのファンであった古屋兎丸は、『ライチ⭐︎光クラブ』の連載開始直後、掲載誌である『エロティクスF』で飴屋法水と対談を行っているが、そこで自身が観劇した東京グランギニョルの舞台について次のような印象を述べている。
「僕は『グランギニョル』としては『ガラチア』と『ライチ』と『ワルプルギス』の3作観たのですが(全4公演)、『ライチ』が一番しっくりときました。『ライチ』が一番演劇的なのかなーと思うんですよ。音楽もストーリーも絶妙に絡み合っていて迫力があったし、アートにも寄りすぎることもなく、すごくいい位置で演劇的でした」
古屋によるこの発言に対し、飴屋はそれに応じる形で「越さんと細野さんの音楽の力も大きかったと思います」と語っている。(注21)
『ライチ・光クラブ』において細野の楽曲が果たした役割の重要性は、古屋と飴屋による上記の発言によってもまた、裏付けることができるだろう。
類まれな才能を持つ音楽家・細野晴臣は、その優れた感性によって、飴屋法水が手がける音響の特異性や独自性を的確に見抜き、高い評価を与えた。その一方で飴屋もまた、音響マンとしての卓越したセンスで細野の楽曲の特質を感知し、自身の舞台において効果的に使用した。このように見ていくと、『ライチ・光クラブ』という作品は、演出家・飴屋法水が演劇というメディアを用いて行なった細野晴臣へのレスポンスであり、さらには本作の第二幕における音響のあり方は、八〇年代半ばの細野作品に対する一種の批評として機能していると捉えることも、あるいは可能なのではないだろうか。
(注1)〈https://x.com/torushoji/status/510406349839032320?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉(参照日2024年11月15日)
(注2)〈https://x.com/torushoji/status/510850667452186624?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉(参照日2024年11月15日)
(注3)「細野晴臣 インタビュー」(『ナンバーワン・ブック・オブ・ダッチライフ vol.3』)
(注4)ここで挙げた作品のうち、『ガラチア 帝都物語』については、脚本のクレジットが「BD+飴屋法水」となっている。BDという人物が鏨であることを明記する資料を私は確認できていない。しかしながら、演劇ぶっく第6号(「特集 東京グランギニョル全記録」)に掲載された鏨の紹介文の中に、「台本作家としてマーキュロ、ガラチア(飴屋法水と共作)、ライチの3作を発表」という記述が見られること、さらには『ボディ感覚~飴屋法水』に掲載された本作の解説の中で、「ガラチア」というタイトルは鏨が考案したものであることが明らかにされていることなどから判断して、このBDなる人物は鏨の別名義であると捉えるのが妥当であろう。
なお、東京グランギニョルの最終公演となった『ワルプルギス』(一九八六年)では、飴屋が単独で脚本を手がけており、鏨は執筆に関わっていない。
(注5)『ガラチア 帝都物語』の脚本には飴屋法水もクレジットされている。また、『ライチ・光クラブ』については、チラシやポスターなどの資料を確認する限りでは、脚本の作者は鏨(本作ではK・TAGANE名義)の単独名義になっている。しかしながら、『JUNE』No.27に掲載された本作の特集記事を見ると、「●作/K・TAGANE●補作/演出/飴屋法水●ポスター/丸尾末広」という記述が確認できる。このことから考えて、『ライチ・光クラブ』においても、脚本の執筆や演出の過程で、飴屋の意向やアイディアなどが反映された可能性は高いとみてよいだろう。
(注6)『2マイナス1号/特集●飴屋法水-ボディ感覚』(二〇〇一年一〇月、ステュディオ・パラボリカ)、八二頁。
(注7)「芝居って、見た目のものでしょう?それなのに劇評家は文学的な視点でしか見られないから、脚本や役者のセリフとかでしか論じられない。うちは、文学的なものだけはやめようと思ってます」(「『東京グランギニョール』のこのグロテスクが今、少女たちに大人気」、「Emma」一九八五年一〇月二五日号、文藝春秋、一一九頁)。
(注8)『2マイナス1号/特集 飴屋法水—ボディ感覚』(二〇〇一年一〇月、ステュディオ・パラボリカ)、八四頁。
(注9)ここで引用した台詞は音源から筆者が書き起こしたものであり、実際の脚本の表記とは異なる可能性があることをお断りしておく。
(注10)〈https://x.com/torushoji/status/509714095004598272?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉(参照日2024年11月15日)
(注11)『2マイナス1号/特集 飴屋法水—ボディ感覚』(二〇〇一年一〇月、ステュディオ・パラボリカ)、八五頁。
(注12)このアルバムの制作には越美晴が全面的に関わっており、彼女は本作において「ジョバンニの透明な悲しみ」を含む四曲を作曲している。
(注13)細野晴臣著・北中正和編『細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING』(二〇〇五年九月九日、平凡社ライブラリー)、二五二~二五三頁。
(注14)インダストリアル・ミュージックと細野の楽曲の対照性という点に関して、両者の質的相違が鮮明に浮かび上がる興味深い場面を劇中に見出すことができる。それは、舞台の冒頭で光クラブの少年達が彼らのアジトに迷い込んだトバを詰問するシーンである。第一幕において唯一細野の楽曲が使用されているこの場面では、ゼラがトバを詰問している間、"Trembling#1"が流れている。しかし、ゼラがトバに「君の視力は0.00でなければならない」と宣告する際、細野の楽曲を断ち切る形で突如としてSPK“Culturecide”の一部分(メタルパーカッションの打撃音)が挿入されるのである。さらに、スポットライトでトバの目を焼き潰す場面では、“Culturecide”の冒頭部分(サイレンのような音が唸りを上げる中、そこにメタルパーカションによるビートが加わる)が徐々に音量を上げながら流される。観客の緊張と恐怖がじわじわと高まる中で突如として鳴り渡るメタルパーカッションの打撃音は、観る者の心を激しく揺さぶったことであろうし、目を焼き潰すという残酷な場面で音量を上げながら鳴り渡るサイレン音は、観客の胸の内に湧き上がる恐怖を高めていく効果を発揮している。この場面などは、SPKと細野の楽曲がそれぞれに持つ、質の異なる「怖さ」が、それを耳にする者に与える効果を見極めた上で、両者のギャップを見事に利用した、飴屋の類まれな音響センスが発揮された箇所だと言えるだろう。
(注15)細野晴臣『銀河鉄道の夜・特別版』(二〇一八年一二月一二日、テイチクエンタテインメント)、ライナーノーツ。
(注16)細野晴臣『銀河鉄道の夜・特別版』(二〇一八年一二月一二日、テイチクエンタテインメント)、ライナーノーツ。
(注17)CD版『S・F・X』(一九八五年二月二一日発売)のブックレットには細野自身による本作の解説が掲載されている。以下にその全文を示す。
「今年になってから、社会のスピード或いは消費度が人類始まって以来の加速をつけていることが判りました。このレコードをつくった期間というのも、1ヶ月もない状態で私自身過剰なストレスを体験しています。速度がつくと一点に停止したかに見えるストロボ効果のように、時間=精神の速度とは相対的に肉体感覚はスローモーションのようでした。映画のコマ撮りは1秒間の画面をつくるのに1日かけたりします。その緻密な作業に入りこめばこむほど、肉体感覚は速度をおとしていきます。その結果音楽は異常に肉体的なスピード感がつき、この加速度に耐えられなかった人もいるかと思います。この最後の曲はそんな人の為に、そしてまた自分の為に速度調節の役割を果たしてくれそうです。レコーディングも終了させなければならなかった最後の日には、このような曲が必要だったのです。私やスタッフの人々は夜7時から明け方まで毎日仕事をしました。私達は星の暗がりで働いていました。太陽は生命の源で常に恩恵にさらされています。そして星の暗黒面はその太陽のくれたエネルギーをつかって様々なものを生み出します。しかも静かに、深く、すばやく、緻密に。地球上の夜にむけての夜想曲であなたは眠って下さい。わたしはまた働きに出かけます。では、おつかれさまでした。」
(注18)ラジオ番組内で行われた鈴木惣一朗による細野晴臣へのインタビューの中で以下のようなやりとりが交されている。
(注19)CD『ノンスタンダードの響き』(二〇一九年三月二七日、テイチクエンタテインメント)ブックレット、八三頁。
(注20)〈https://x.com/zera_tsunekawa/status/909120850917441536?s=46&t=iOBd_7hcHisvM9hULs_Otw〉
(参照日2024年11月15日)
注21)古屋兎丸×飴屋法水「東京グランギニョルは、黒いおニャン子だった!?」(「EROTICS f」vol.34 二〇〇五年七月三一日 太田出版)、一四一頁。
※第二章は後日アップする予定です。