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有効期限が過ぎています

スマホがテーブルの上でブブブと振動して、画面に女性らしき発信者が表示された。大きな手が画面を覆うようにつかみ、すばやく持ち上げる。
「もしもし……はいはい……うん、うん……」
ごめんねの表情でお辞儀をして、カフェの外に歩いていってしまった。
わたしは背中を見送りながら、この恋は成功するといいなと願った。

一昨年、結婚紹介所で知り合った相手とはうまくいかなかった。次の相手も、その次の相手とも。

紹介所のスタッフと話すのが億劫になって解約したあと、マッチングアプリを使い始めた。カタログをめくるように相手を探しているときに、今の相手を見つけた。優しそうな顔写真に好感を持った。

直接会うのはこれが四度目だ。お店の入り口のドアを押さえてくれたり、店員さんへのちょっとした要求を代わりに言ってくれたりする。わたしは、おしぼりを追加で持ってきて欲しい、みたいな依頼が苦手だ。そういうことをやってくれる彼は、優しく頼りがいがある。

今日、彼はそわそわしていた。わたしが気に障ることをしたのか、もう会いたくないのかも知れないと思ったが、そんなことは聞けないので、気づかないふりをしていた。しばらくすると、彼は姿勢を正して話し始めた。

仕事でまとまったお金が必要になったが、手元にない。一時的に貸してもらえないだろうか。売掛金があるから回収したらすぐに返せる、とも言った。売掛金というのがよく分からなかったが、わたしにはすぐに貸せるお金はなかった。

仲のよかった従姉に、簡単に手を付けられないところにお金を預けておくのが資産を守るコツだと教えられてから、生活に必要なお金以外は、定期預金にしてある。引き出そうと思えば引き出せるけれど、普通預金よりは敷居が高い。その従姉と最後に会ってから、もう五年ほどすぎてしまった。そんなことを考えていたら、彼のスマホが振動したのだった。

カフェの店員さんが、おしぼりを持ってきてくれた。わたしはすぐに手に汗をかくので、彼は追加のおしぼりを頼んでくれる。電話で席を立ったときに、店員さんに頼んでくれたんだろう。なんだか自分だけが助けられている気がして、居心地が悪い。なんとか助けてあげられないだろうか。

スマホを取り出して銀行アプリを開く。定期預金を解約すれば、少しは彼の助けになるだろう。解約ボタンをタップして進めていくと、よくわからない規約や説明の画面が出てきて、どんどん飛ばしていく。途中で通知が出たりして、うっとうしい。

ワンタイムパスワードを入力してください、というメッセージが出てきた。いつも使っているパスワードを入れてもエラーになる。思いつくパスワードを使ってもうまくいかない。
「すみません。こちらの席は空いてますか?」
すぐ隣のテーブルのそばに、大学生くらいの女の子が立っている。
「はい空いてますよ」
女の子はていねいにお辞儀をして席についた。スマホを取り出し、素早く器用に指を動かしている。難しいことをしているのか、ゲームなのか。詳しいのなら教えてもらえないだろうか。でも見ず知らずの他人に助けてもらうのは、失礼かも知れない。スマホなんてみんな使ってるんだから、別に詳しいわけじゃないかも知れない。

従姉の言葉を思い出す。助けて欲しいなら、助けて欲しいと言えばいい。断られるかも知れないけれど、助けを求めないで窮地に陥るのは、ただの怠惰だ。彼がわたしに助けを求めたように、わたしも助けを求めよう。
「あの、すみません」
「はい」
女の子がこちらを向く。わたしは自分の椅子を、動かして、女の子のほうに寄っていく。
「スマホの使い方が分からなくて、教えてもらえないかしら」
「ええまあ、分かることだったら」
わたしがスマホを見せると、女の子はSMSとか認証アプリとか難しいことを聞いてきたが、何のことか分からない。こんな恥ずかしい思いをするくらいなら、聞かなければよかったと思う。
「さわってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
スマホを渡すと、女の子はさっと操作してすぐに返してくれた。
「いま、ここにワンタイムパスワードをコピペ、えーっと入れてあります。この確認するってボタンをタップしたらいけるはずです」
ワンタイムパスワードの欄に、見慣れない六桁の数字が入っていた。定期預金を解約してよろしいですか、と大きく書かれていて、女の子に見られたと思うと、顔が熱くなった。どうもありがとうと言う。

このボタンをタップすると解約できる。そのあとATMに行けば預金を下ろせる。
そこに女の子の連れらしき男の子があらわれた。同じく大学生くらいだろうか。まじめそうな女の子と、ちょっとだらしない派手な赤いシャツを着た男の子のカップルは、私にはちょっと不釣り合いに見えた。美女と野獣とまでは言わないけれど。
「何か?」
と、赤シャツの男の子が、強めの語気で言った。私は慌てて詫びて、自分の椅子をもとのテーブルのそばに戻す。

スマホのさっきの画面を開いて眺める。深呼吸、深呼吸。それから、確認するボタン、をタップすると、ワンタイムパスワードの有効期限が過ぎています、というメッセージが出た。もたもたしているうちに時間が経ったのだろうか。女の子の操作を見ていなかったので、どうしたらいいかの分からない。もう一度お願いできるだろうか。ちらりと隣をみると、ふたりはすでに何か話をしている。話しかけるタイミングを見定めようと、聞き耳を立てた。

「芝居のチケットが刷り上がったんだ。見てよこれ」
「すごいね。デザインも凝ってんね」
「だろ。でもなぁ困ったんだよな」
「どうして?」

女の子がチケットを返す。赤シャツは受け取らずに、かばんからチケットの束を取り出した。

「ノルマがあってさ。二十枚売らないといけないんだよ」
「そうなんだ。あたし一枚買うよ」
「ありがとう。でさ、手伝って欲しいんだけどいいかな?」
「手伝うって?」
「チケットのノルマを。手伝ってくれるかな?」
「え……うん。できることだったら」

演劇の興行に必要な劇場使用料や、照明や舞台の制作費は、チケット代でまかなう必要がある。大学のサークルなのか、本格的な劇団なのか分からないが、興行する側は出演者に販売ノルマを課して赤字を回避する。有名な劇団ならともかく、素人だとなかなか売れないから出演者の自腹になることが多いと聞いたことがある

「これさ、買い取ってよ。売ってくれたら、その売上はあげるからさ」
「買い取る?」
「半分でいいんだけど」
「え……ごめん。そんなお金ないよ」
「じゃあ何枚なら買い取れる?」

なんだ、それは? ノルマを課せられたのは赤シャツだ。気の毒な話ではあるけれど、それは赤シャツの問題で、女の子に協力をお願いする立場だったはずだ。なのに、女の子が買い取りが前提で、枚数の交渉になっている。女の子もなぜか助けのが前提になっている。

クズ男に使われる女というやつか。従姉が言っていた。自己肯定感が低いと、相手を助けることで自分の価値を認識する。自己犠牲に価値を見出すこともあるという。なんでそんな話になったんだっけ。

ああそうだ、暴力をふるう夫と離婚するのを助けてくれたときだ。わたしにも悪いところはあるし、あの人はひとりで生きていけないから、と、わたしは離婚を躊躇していた。従姉はあの男がひとりで生きていけないことは、あの男の責任だと言った。助けることを前提にするな、とも言われた。自立した人間同士は、助けることを前提にしない。助け合うことはあっても、依存したりしない。わたしが自己肯定感を満たすために、他人を助けているのだ、とも指摘された。

婚約して逃げた男も、離婚した元夫も、結婚紹介所で知り合って一晩で連絡を取れなくなった男もそうだった。いつもわたしは助けようとして、それは犠牲という形をとっていたように思う。今ならそれが分かる。

スマホをながめる。ワンタイムパスワードの有効期限が過ぎました。もし、有効期限が過ぎなければ、定期預金を解約してATMで現金をおろして、マッチングアプリで知り合ってから四度目のデートの相手に渡していたのだろう。おしぼりを代わりに頼んでくれるお返しとしては、ずいぶん気前がよすぎる。五年前に亡くなった従姉に知られたら、きっと怒られる。

従姉はクズ男が嫌いだと言った。けれど、わたしを助け続ける気はないから、早く自立しろとも言われた。

まだ若くて未熟だとはいえ、わたしは赤シャツの態度が気に入らない。女の子を助けたいけれど、これからずっと助けたいわけじゃない。駅まで行ったらさようならだ。うん。大丈夫。自己肯定感のために助けるわけじゃない。

深呼吸。
もう一度、深呼吸。
念のために、もう一度、深呼吸。

「ねぇ、お嬢さん。今月はそのお金を何に使う予定だったの?」
「え?」
女の子は目を大きく見開いて、こちらを見る。赤シャツも固まった。
「今、チケットの買い取りに、いくらお金を使えるか計算してるでしょ。でも、もともとは何に使う予定だったの?」
赤シャツが身を乗り出してきた。
「ちょっと、おばあさん、何なんだよ」
気圧されて、すみませんと言いそうになるが、こらえる。
「ねぇ、今月は、何かお買い物をする予定があったの?」
「あの……画集と……それから春物のコートを買うつもりでした」
「そうよね。チケットを買う予定なんかなかったよね」
赤シャツが立ち上がり、ぶつかりそうなくらい近くまで寄ってきた。
「おい、ババア! 関係ないのに割り込んでんじゃねえよ!」
まわりの客が、こちらを見る。女の子が無言でまわりに頭をさげる。わたしにも頭をさげる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
「あ、はい」
「画集は決まってるんでしょ。じゃあ、これから買いに行きましょう。あなたのお金なんだから。取られちゃう前にあなたの好きことに使いましょう」
赤シャツが喚き、カフェの客たちがざわざわとこちらを見ている。
わたしは女の子を見つめる。
「どう?」
「画集を買います」


バスが発車してしばらく経つが、まだ息があがっている。ババアという声が耳に残っている。赤シャツを残してカフェを出た女の子とわたしは、目の前に止まっていたバスに飛び乗った。わたしとしては、飛び乗ったくらいの必死さだったけれど、女の子に手を貸してもらいながら、なんとか乗り込んだ、というのが正確だろう。

「ありがとうございました。でも、あばあさんは、どうして助けてくれたんですか?」
「年寄りの話は長くなるよ」

わたしは、七十年ほどの人生で男で苦労したこと、それは自分が自立していなかったのが原因だということ、亡くなった従姉のおかげで目が覚めたこと、最近になって後戻りしつつあることを話した。

「なんだか自分を見せられてる気分になってね。おせっかいだったかな」
「いえいえ、そんなことないです。助かりました。いつも、そうやって助けてるんですか?」
「まさか。あなたのすぐ隣でね。わたしも男に金を工面しようとしてたのよ」
「えー! じゃあ解約って、もしかして?」
「でも、有効期限が過ぎたとかで解約できなかった」
「よかったー」

わたしはスマホを取り出して、女の子にワンタイムパスワードのしくみと使い方をたずねる。分かったような、分からなかったようなだけれど。

「定期預金、解約しちゃうんですか? どうするんですか?」
「わたしも春物のコートが欲しくなった」
「えー、じゃあ、一緒に買いに行きましょう!」

あと何度、わたしに春が訪れるかは分からないけれど、自分のためにコートくらい買ってもいいと思った。

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