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note初投下

大学院に通って哲学をやっています。
ほにゃららです。

院でも「ほにゃ」で通っています。
「ほにゃさん」とか「ほにゃ先輩」とか呼ばれるのも当たり前になりつつあって、
実はふと我にかえって恥ずかしくなる時もしばしばある。
ラインやツイッターで用いていた仮名が仮名として機能しなくなってしまって久しい。
恥ずかしいような、うれしいような、こそばゆい。

さて、なんでnote始めたかというと、
学校用のツイッターに連携してはてなブログで哲学史の自学とかをチマチマやっていたのですが、正直飽きてしまいました。
あと意識高い系みたいで恥ずかしい。
ただでさえ「哲学」ってそういう眉唾な印象もあるのに。
それに、自分が咀嚼する努力と、哲学をやっていない人に向けて説明する努力って全く別のことなんですね。
それがなんかとても身に沁みた。
要は自分が咀嚼するのでいっぱいいっぱい。

だから心機一転
こっちで今度は雑記用のアカウントに連携して、140字制限がないツイッターくらいで書こうかなぁと思ったのでした。

何せ、インプット量が半端じゃないもので。
哲学書読んで、レポート書いて論文書いて、書いて書いて。そういう日常なんですけどね。
アウトプットがもう全然追いつかない。
私の周りにはよくしゃべる人が多いけど、
私はしゃべるのもあんまり得意じゃないし。
言うなれば便秘みたいな状態。
きったねー例と思われるかもしれないけど、けっこう真剣。
指導教授も著書でちょっと言及してたし。
メンタル的な云々は、食事や排泄と密接にリンクするだろうと。
物理的に科学的にどうとかではなく、象徴的に?
よくよく考えたら、食事に気を配るのに排泄には気を遣わないなんて不思議なことだ。
哲学やってたら書き言葉に気を配るなんて基本中の基本だけど、日常の話し言葉や、トイレやゲロにも、同様に気を配ったっていいよなぁ。

みんなも誰かに話すとき書くとき、排泄だと思ってやれよ。

生きている以上仕方ないけど、無防備で恥ずかしいものなのだから、できるだけ慎ましく。清潔に。

他人の排泄が大好きな物好きも世間には割とたくさんいるけど、
一方的に聞かされてる人はたまったもんじゃないですからね。
「この人便秘っぽいな?」と思ったら促すけどね。
赤ちゃんのお世話をしたことがある人ならわかるかもしれないけど、
うんちがしばらく出てないな、となれば、おしりを綿棒でコチョコチョして排泄を促す。
私が誰かの話聞くときってそんなかんじ。
かわいいね〜たくさん本音が出たね〜と思う。

私は赤ちゃんではないので、誰かが排泄を促してくれなくても、自分でトイレができないといけないのよ。

ツイッター同様、ブログもトイレとして使います。
宣言しておく。

内容としては、
本のこと、映画のこと、哲学のこと、日々のこと、日々のことの中ではとりわけ掃除や片付けのことなんかを書くと思います。
(ツイートを反省したなりの予想)

物好きへ届け〜