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エージェント・キース#5「脱獄」
1
「言え!貴様の認識番号と所属部隊を言え!」
「誰の差し金なんだ!」
軍服を着た尋問官たちが全裸で両腕を縛り上げられた黒髪の捕虜を殴打していた。瞼、頬、肋骨、肘、下腹部、尾てい骨、脛――男の身体には無数のアザや傷が出来ていた。元から刻み込まれていた無数の古傷に新たな苦悶の刻印が刻まれてゆく。
この部屋に連れ込まれてからどれほどの時が経っただろうか。陽が差さぬ石造りの密室と身体に滞留している麻酔薬が男から時間間隔を奪っていった。
だが男は沈黙を貫いた。額から流れ出る血と汗が、固く閉ざされた口の傍を伝って顎から滴り落ちる。そして瞳には刃のような眼光を宿していた。
「強情な奴め――」
その時、鉄扉が音を立てながらおもむろに開いた。コツコツと踵を鳴らしながら入って来た男は背がすらりと高かった。
部屋の奥で束縛されている男――キース・マグワイアは彼に見覚えがあった。ジャーマングレーの制服、白い手袋、年齢不詳の青白い顔。被る軍帽は烏の口ばしのように長く、電球に照らされて黒光りしていた。
「フリードリヒ閣下!」兵士たちは敬礼した。フリードリヒと呼ばれたその男は彼らを一瞥した。
フリードリヒはキースににじり寄り、彼の頬をくいっと上げた。その掌は鉄のように冷たく、手袋越しでも伝わるほどだった。
「ホホホ……なるほど、先までの尋問に耐えるとはそれなりのようですね」
フリードリヒの手がキースから離れる。彼はパチン、と指を鳴らした。
「例の物を」
「ハッ!」
兵士たちは用意された箱から機材を出し始めた。キースの手首と足首にコードの付いた装具が取り付けられる。電極だ。皮膚と装具表面のイオン移動で実際よりもヒヤリと冷たく感じられる。
「本来ならばもっと愉しみたいところですが仕事ですからね。あまり上品なやり方ではないですが――手早く済ませるとしましょう」
「上品な拷問があるなら受けてみたいものだな……グアアアア!」
皮肉を言うや否や、何の前触れもなく全身の骨髄が爆ぜるような激痛が走る。関節はあらぬ方へ捻じれ、キースの身体はのけ反るように身もだえた。
これが電撃による拷問だ。先ほどまでの外的ダメージで身体の表面に意識が向いていたため、不意打ちを食らったかのように神経が反応する。
キースの身体を走る電極がピタリと止む。一瞬力なくうなだれた後、横隔膜を最大限に収縮させて肺に酸素を送り込む。
「上品な拷問ですと?ええ、ありますとも。正しくは矯正、治療と言った方が正しい」フリードリヒは足音を鳴らしながら部屋の中をゆっくり歩き始める。「人間というものは生まれた直後と死の直前、あらゆる情報を吸収する働きを持っている。苦痛というものを的確な量を与えれば人間の脳はあらゆる物を受け入れようとする。世紀の凶悪犯でも慈悲深い聖人に生まれ変わらせれるし、街中の浮浪者を名だたる哲学者に生まれ変わらせることもできる。私はこの力を神から授かった御業だと思っていますがね」
「ならばその力で貴様のボスを改心させるんだな。その方が世界の為になるだろう……グオオオオオ!」
突如としてキースの視界に火花が走る。体中の筋肉は引きちぎれんばかりに強張り、肺の空気が亡者のような絶叫となって強制的に搾り出される。
そして電撃が止み、糸が切れたように手足が垂れ下がる。
「このような時分に正義の議論とはナンセンスですね、あなた。自分が民主主義の代弁者とでも?」
キースは応えぬ代わりに深呼吸を続ける。
「永久不変の正義の概念などあなたが一番分かるでしょう。力、すなわち勝者こそが正義なのです。アメリカお得意の民主主義などその手段に過ぎない。民衆たちにかりそめの自由を錯覚させ服従させる。ただ資源が潤沢がためにそのような真似が出来ているだけ。本質はこのマノルと何ら変わりない」
そう言ってフリードリヒは手に持ったスイッチを見せつけるように押した。
「グオオオオオ!」
全身を焼き焦がすような激痛が十数秒続いた。
「ホホホ……まあ今回は貴方から手っ取り早く情報を聞き出すのが目的ゆえ。この電気ショックがもっとも効率が良いのです」
生殺与奪を握っているのは誰か、と言わんばかりにフリードリヒはキースを見やる。勝者とはすなわち自分だと。
「あなたに似つかわしくない負け犬の喘ぎ声をいつでも奏でることができる」
挑発的かつ官能的な言葉がキースの脳に沁み込んでゆく。正常な判断力が失われてるのは自分でも分かっていた。しかし彼の言葉に対して自尊心を踏みにじられたような屈辱感が奥底からじわりと湧いてくる。
そのような中でも彼に残された僅かに残された理性が、拷問者の特性をじっくりと見据え続けていた。
拷問にもさまざまな種類が存在する。すぐに局部を切り刻むような人間ならば一刻も早く脱出をせねばならない。だがこのフリードリヒは心理的に追い詰めて嗜虐心を満たすタイプの人間だ。ならば急がず長期戦に持ち込んで対処すればいい。
キースは全身のチャクラに全神経を集中させ、東洋拳法の呼吸をゆっくりと始めた。全細胞に酸素と「気」が行き渡り、脳の靄が徐々に晴れてゆく。身体の表面もこの部屋の空気と同化し始める。語る分には容易く見えるこの呼吸だが、習得には長い年月を要するのだ。
今の彼には自分に繋がれた骨から筋肉に至るまで心の目で見えていた。再びあの電撃がやって来る。衝撃そのものに身を委ね、受け流す。そして手首を結ぶロープへと波を逃がしてゆく。肺から漏れ出る声すらも大気と共鳴していった。
ここからは目の前のサディスティックな男との我慢比べだ。度重なる電撃のダメージを最小限に抑え、奴が飽きるまで気を失わなければよい。
それから何時間経っただろうか。朦朧とする意識。だがキースの瞳にはあの眼光が弱々しくも残っていた。
「思ったより強情な人ですね。独房に入れなさい」
フリードリヒがそう言うとキースの手足から枷が外され、二人の兵士に両肩を抱えられながら彼は尋問室から去った。
―――
――
―
2
「飯の時間だ、食え」
兵士が鉄扉の差込口から食事を載せたトレーをキースに差し出した。凹みだらけのアルミの皿には固いパンと味のない豆のスープが添えられていた。
次の拷問が始まるまでに英気を養わねばならない。キースは出されたパンにかぶりつき、何十回、何百回と咀嚼してから飲み込んだ。豆のスープも口の中で具がドロドロになるまで幾度となく噛み締めた。
こうすることで空腹感を満たしつつ効率的に養分を行き渡らせることができる。与えられた僅かなチャンスを最大限に活かさねばならない。
ここは石のレンガで覆われた独房だ。じめっとしたカビ臭い空気が鼻腔をくすぐる。脱出できそうな穴はどこにもない。どこで勝負を仕掛けるか慎重に考えなければならない。
キースはおもむろに胡座を組み、座禅を始めた。神経が研ぎ澄まされ、風が吹き抜ける音がかすかに聞こえてくる。すると、一つの足音が少しずつ近づいてくるのが分かった。足取りからして普通の兵士のものではなかった。すると刺客か。
得体の知れぬ足音を察知したキースはさっと入り口の壁に張り付いた。扉からは完全な死角であり、古典的ながら効果的な隠れ場所である。
鉄扉が音を軋ませながらゆっくりと開いた。そこから人影が現れる。キースはその後ろからそっとCQCの構えで首を締める体制に入った。だがしかし、その人影の髪に廊下の僅かな光が当たった。赤髪。そして兵士としては若干狭く丸みを帯びた肩。
「ミランダ……!」
「元気そうで何より」ミランダは振り向いて答えた。
「大丈夫だったか、怪我はないか?」
「ご覧の通り、ピンピンだよ。あんたの方はどうやら相当手厚いもてなしだったみたいだね」
そうミランダは彼に刻まれたあざを見て言った。冗談めかした言い方に違和感を持ったキースは彼女の身体をちらりと見やったが、目立った傷が残っていなかった。
「奴ら、私が女だと分かった途端に手を抜き始めてね。その隙に奴らに一発食らわせて眠らせてやったのさ」
「どうやったらそんな――」
「昔、道端に落ちてたエロ本の真似をしたのさ。鞭に打たれる度に喘いだら、奴らすっかり腰を抜かしてしまってね」
話が食い違っている。キースのところにいた尋問官は、シュタイナーに限らず油断ならぬ冷徹なプロフェッショナルの目つきをしていた。三文芝居の色仕掛けに動じるような素人では無い筈だ。この人員配置を鑑みるに、奴らの本当の狙いは俺だったのかもしれない――そうキースは眉を潜めた。
「さ、奴らが来る前にずらかるよ」
ミランダはキースを扉の向こうへ促した。
電球の弱い光と共に薄暗い廊下が長く続いていた。ミランダが先行する形で入り組んだ角を抜けていく。
「女に生まれたことをはじめて良かったと心底思ったよ」
ミランダはしみじみとそう言った。
「戦場において強さに男も女も関係なかろう」
「ところが、私の育ちは田舎だったからなかなか理解してくれなくてね。昔はガキ大将からもよくどつかれてたよ。大人もみんな『お前が悪い』って一点張りさ。ま、こっちも痺れを切らして本気でやり返すようになったら誰も言わなくなったけどね」
「ふむ」
「それは置いておいて、この身体だと何かと不自由でね。胸は大きいから何かと突っ張るし、生理だって時々やって来る。世界の有名スナイパーは女が多いって聞くけど、見ての通り私はそんなタマじゃないからね」
もう一つキースが気がかりなことがあった。
「そういえば俺の――」
「あの宇宙服みたいな奴?」
「そうだ」
ミランダからため息が返って来た。
「残念ながらどこかに移送されたかもね」
「なんだと!?」思わずキースが声を荒げそうになる。
あのカーボン筋線維スーツは秘匿技術の塊である。もっとも、このような小国にとって手に余るオーパーツだと思うが、あのフリードリヒという男が何を企んでいるか分からない。
突き当りの角から人影が見えた。おそらくここの衛兵だ。キースは気配を殺し、早業で衛兵の首を締め上げる。
「ここで大声を出せばお前の首をへし折る」
腕の中で衛兵がぞっと鳥肌を立てた。
「ここの囚人の荷物はどこへ移送された?」
「た、たった今……トラックで一番近い駅へ搬送された……!」
衛兵の頭はレンガの壁に叩きつけられ、もたれかかるように倒れた。
その時、けたたましい警報音が牢獄中に鳴り響く。
『独房からクラス5の囚人が脱走した模様。総員直ちに警戒態勢に入れ!』
「連中、もう嗅ぎつけて来た!」
「俺たちは賓客だ。遅かれ早かれこうなってた」
キースは衛兵から奪ったAKを肩に回す。一人で突き進もうとする彼の肩をミランダが引っ張って制止した。
「待って!あっちの方に通気口を見つけた。大人でも入れる大きさだった」
その通気口は天井にあった。キースの肩に乗った彼女は通気口の蓋を取る。通気口のネジは完全に錆びついており、彼女の筋力ならば開けるのは容易だった。ガタン、とキースの足元に鉄製の蓋が落ちる。
キースに力強く押し上げられたミランダはそのまま中へと入っていった。
「次はあんたの番ね」
ミランダは彼に手を差し伸べる。
「その必要はない。俺一人で登れる」
キースは助走を付け、壁を蹴って軽やかに通気口に到達した。
「宇宙服が無くてもなかなかやるんだね」
「この程度、むしろ出来なくてはスーツに振り回されるのがオチだ」
怒声と共に幾重もの軍靴の音が近づいてきた。床には鉄格子の蓋。ほぼ無防備のまま脱出を急ぐあまり痕跡を消すのを忘れていたのだった。
「下がっていろ」
ミランダは彼の言う通り、奥へと逃げる。キースはその間、通気口から兵士たちが来るのをじっと観察し、息を呑む。近づいてくる足音。いつでも飛び出せるように構えを取る。奥から吹いてくる暗い通気冷たい空気で神経が冴えてゆく。
男たちは通気口に気付かず素通りして行ったかに思えた。だが――
「奴ら、あの通気口から逃げて行ったぞ!」
偶然振り返った一人の兵士が蓋を指さして叫んだ。兵士は手榴弾のピンを抜いて通気口を目掛ける。
それよりも早くキースの上半身が逆さまで飛び出し、AKを乱射する。兵士たちは撃たれて倒れてゆく。兵士の手元から滑り落ちた手榴弾が床を転がり、彼らを吹き飛ばした。
キースは腹筋を使って通気口の中へと身体を引っ込めた。
3
通気口の狭い道をミランダが先導して進む。風が吹いてくる方に向かって暗闇の中を這って行った。
しばらく進むと光が差し込んでくるのが見えた。
「出口か」
「ちょっと待ってて」
そう言ってキースの目の前にいるミランダは鉄格子の蓋から中の様子をじっと見つめた。部屋の中にロッカーが並んでおり、見たところ更衣室のようだった。
「好都合だ。ここから奴らの制服を奪って変装しよう」とキース。
「それって古典的すぎじゃない?」
「ほんのひと凌ぎにはなる。肌着で走り回るよりマシだ。俺が先導する」
そう言ってキースは更衣室の通気口の蓋をこじ開ける。今度は痕跡を残さぬよう、床に降りた後は蓋を元の位置に嵌めておいた。
音もなく更衣室へと降り立つ二人。手近なロッカーの中にある兵士の服に着替え、ヘルメットを目深に被る。扉の向こうから焦るような足音が聞こえて来る。二人は気取られないうちにさっと部屋を跡にし、兵士たちに紛れて廊下を進んだ。
「ここからのプランはあるのか?」
「ここから出る。以上」ミランダは不敵に笑う。
無理もない。地下牢の構造をある程度把握できていただけでも及第点以上である。敵本拠地の中でこれだけの行動力と情報収集能力を彼女が持ち合わせていることに、キースは内心感嘆していた。
すると、ミランダがふと壁に書かれているマノル語の案内板を指さした。キースには複雑怪奇な文様の羅列に見えるものがミランダの目には意味のある言葉として映っていた。
「どうやら右に曲がった方に搬入出口があるらしい。きっと記録用のシステムがあるに違いない」
「仮に無かったとしてもそのまま出れる訳だ。了解した」
二人は廊下を駆ける兵士たちの間を抜けながら向かう。この緊急事態で皆が慌ただしい中ならば多少挙動が怪しくても正体が露見する可能性は少ない。その上、ミランダが言っていたとおり大半の政府軍の兵士の練度はたかが知れている。この人混みの中から侵入者を見つけ出す慧眼など持ち合わせていないだろう。
なんとか二人は搬入出口に辿り着いた。先ほどまでの廊下とは打って変わって静かな空気に包まれていた。奥にはガラス張りの小さな管理室。運よく記録用のコンピュータが備え付けられていた。モニターはブラウン管でできており、白いプラスチックのフレームは経年劣化で黄色く色あせていた。
キースは椅子に座り、PCの操作を始める。画面に映っているのは約10年前のOS。当時はマノル語非対応だったために1ビット言語の英語で稼働している。キースは慣れた手つきでウィンドウを難なく展開してゆく。
しかし記録表のフォルダは全くと言っていいほど整理されておらず、目的のデータに辿り着くまで時間を要した。
そんな中、キースたちが元来た扉から数人の兵士が侵入してきた。
「おい、そこで何をやっている!」
ミランダがそれに応えるように管理室から出た。
「ただいま入荷品目録の抜き打ちテスト中だ。最近、タバコを不正に入荷して金品に交換する行為が流行っているとの情報を受け、本部から派遣されてきた」そうミランダは厳しい口調で出まかせを語った。
「あん?そんな話聞いたことねえぞ」兵士の一人は顔をしかめた。
「貴様、認識番号を言え!」もう一人の兵士が肩に回していたAKの銃口を向けた。
「認識番号FZ8726-94、政府軍特別監査局のクリスティーナ・グルベンキアン少尉だ!」
全くデタラメの所属を堂々と名乗り上げながらミランダは腰のトカレフを素早く抜いて発砲した。腹部に7.62mmの弾丸を受けた敵兵たちは崩れるように項垂れる。
その後ろの管理室からキースが飛び出てきた。
「最後の搬出先は328番ステーションだ!分かるか?」
「大丈夫。一番近い駅ね」
閉まりかけていた扉が再び勢いよく開かれる。今度は先ほどの倍以上の増援が駆けつけて来た。
「撃て!奴らを逃がすな!」
兵士が一斉にAKの銃口をこちらに向ける。だが、彼らが引き金を引くよりワンテンポ早くキースたちは搬入口の段差に隠れた。AKから放たれた弾はその先のシャッターを穿った。
キースは段差の影から持っていたAKの銃口を出し、左右に弾幕をばら撒く。
「先導を頼む。後方は俺が支援する」
(つづく)