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エージェント・キース#3「博士の娘」

【登場人物紹介】
キース・マグワイア
主人公。超人的な戦闘力を誇るエージェント。パワードスーツを着て様々な事件を解決する。愛銃はグロック17。

スティーブ・ブロスナン
フリーの傭兵にしてキースの数少ない盟友。大雑把な性格だが、抜け目ない一面もある。大型マグナムの達人。機械にもかなり明るい。

ジェニファー
キースと専属契約を交わした謎の女。どこからともなく調達した秘密ガジェットでキースたちを支援するが、その目的は謎に包まれている。

これまでのあらすじ

前話
 石油を生成するカイコの発明に成功したミハイル博士。その博士が拉致された報告を受け、キース・マグワイアは救出に向かった。しかし実は、博士は拉致されたのではなく自ら出奔していたのだ。それを知ったキースは力ずくで博士を追跡し、捕縛することに成功した。そこでキースは「組織」の存在を知ることとなる……。

1

 白いプラスチックパネルで覆われた取調室にはキースとミハイル博士の二人がいた。尋問を開始してから24時間が経過しようとしている。博士からはいまだに『組織』についての有力な情報を入手できていない。
キースの額から一粒の汗が頬を伝う。長時間の尋問を行うことは流石の彼でも消耗を免れない。
 しかし博士の方は打って変わって、非常に落ち着いた物腰だった。尋問開始時は狂気的な笑みを浮かべ、とりとめのない言葉を連ねるだけだった。しかし時間と共にその病的興奮も鳴りを潜めていった。尋問の一環で行われた薬物投与による鎮静作用も考えられるが、それ以上にどこか心底毒が抜けたと言うような力の抜け方だった。
 博士は「組織」の機密情報に関わる記憶をマインドコントロールや催眠に近い手法で抹消されていた。キースとジェニファーはそう結論付けた。
 すると博士は着ていた白衣の胸ポケットに手を入れ、何かを探り始めた。
「キース・マグワイア君。いいかね」
 尋問されている身分であることを忘れて諭すような言い方で呼びつける博士に、キースは少し眉をひそめた。
「どうした」
「君に頼みがある」
 博士が胸ポケットから取り出したのは、一枚の写真だ。写真には、笑みを浮かべる若いブロンド髪の女性が写っていた。
「彼女はカミラと言ってな、私の一人娘なのだ」
 なぜこのタイミングで娘の話などするのか。やはりまだ精神が安定していないのだろうか。
「フム」キースは手渡された写真を見た。「彼女がどうしたんだ」
「私は研究に没頭するあまり、大切な家族を失ってしまった。だがカミラ……この子だけはどうか守ってもらいたい」
「彼女は今どこにいる」と言いながらキースは白い壁に仕込まれたカメラに写真をスキャンさせた。
「ローマだ。ローマの国立大学に留学している」そう言って博士はうつむく。「私は大馬鹿だ。本来ならば私が償うべきだが……頼む!この老いぼれに代わって彼女をどうか守ってくれ!」
 質問と無関係なことを言うな。そう言うのは簡単だった。しかし、得体の知れない謎の「組織」の手がこの女性に向かう恐れがあるというのならば――。
 キースは天井に設置された監視カメラのマイクに向かって言う。
「本日の取り調べを終了する。博士に休息を取らせた後、別の人員に尋問を行わせる」
 尋問を終えたキースは取調室の自動ドアから抜け、手をズボンのポケットに入れながら廊下を歩く。ポケットの中で、彼は大きな画面のPDA(携帯電子デバイス)で一通のメッセージを作成していた。宛先には「スティーブ・ブロスナン」と書かれていた。

2

 静まり返った宵のローマ。ぽつりぽつりと立ち並ぶ琥珀色の街灯が人通りの少ないこの住宅街を寂しげに照らしていた。
 その一角の屋上。男は夜風に吹かれながらボルトアクション式スナイパーライフルを構えてた。サプレッサーの付いた銃口が向く先はアパートの一室。ブロンド髪の若い女が着替えている姿をスコープ越しに覗いていた。
 娘は生かしておけ――。簡単に言いやがるぜ。ニット帽を被った男は嗤うように口元を緩めた。スコープの十字が、ブラジャーを脱ぐ女の太ももに移る。
 男は息を吸い込む。そして引き金に指をかけた。視界が上に引っ張られる。襟が首を締め付ける。
「な、なんだ」と向き直ろうとすると、頬に何かが強くぶつかった。拳の感触。彼は殴られている、誰かに。
 鳩尾にフック。胸元にボディーブロー。そして右肩に回し蹴り。鈍重な痛撃が男を襲った。
 意識が闇に沈む最後の一瞬でようやく奴の顔が見えた。ブロンド髪に黒いサングラス、そびえ立つような体躯のいい肉体。男の意識は夜の街に溶け込んだ。
 男が眠ったところを見届けると、殴った本人は屋上を跡にした。
「やれやれ、服が汚れずに済んでよかったぜ」
 静まった階段を下りながら男は呟いた。男が手にしているのは地図と女の顔写真。写真には「カミラ」の名が書かれていた。
 男は石畳の路地をカミラが住むアパートへと向かった。彼の名はスティーブ・ブロスナン。ローマ国立大学に雇われたばかりのチューターである。
 チューターとは外国人留学生の語学学習を補佐する家庭教師のようなものだ。カミラ自身もドイツからの留学生なのだが彼女の成績は優秀であり、わざわざチューターを付ける必要は薄かった。その上スティーブ自身も異邦のアメリカ人だ。
 スティーブが彼女のチューターになった本当の理由は護衛のためである。しかも、彼女にそのことを気付かれないように、だ。二日前、彼の盟友であるキースからその旨の依頼を受け取っていた。その後スティーブは偽造書類を持って大学に接近。彼自身の語学力も十分なので非正規雇用のチューターとして雇われることに成功したのだ。
 カミラの部屋の扉を前にしてスティーブは襟を正す。そしてノックをしたが返事はなかった。再びノックをするも、やはり返事はない。
「おかしい、この時間で合ってる筈なんだがな」
 そっとドアノブに手を掛けると、鍵が掛かっていないことが分かった。まさか「先客」が部屋に入り込んだのか。ドアノブを握る手に汗がじんわりと滲む。スティーブは忍び足で部屋に入り込んだ。
 部屋は明かりが付いており生活感がまだ漂っていた。床には服が散乱している。スティーブは懐に手を忍び込ませながら、慎重に部屋をクリアリングしていった。そして奥で扉が開く音がした。
 扉の方へスティーブは向かう。少しずつ立ち込めてくる生暖かい空気。
 懐の中の手はグリップを強く握りしめていた。誰かが俺を誘い込もうとしているのか。恐る恐る扉の方へと近いてゆく。その先にはシャワールーム。そこから裸の女が突如現れた。
「キャーッ!」

3

 3日後。
「それで、頬にそのあざが出来たと」
「ったく、災難だったぜホントによ」
 大学のカフェテリアの一角でキースは、痛々しそうに頬をさすりながら話すスティーブの一部始終を聞いていた。スティーブの前にはトマトスパゲティが、キースにはホットドッグがテーブルに添えられていた。
「それでこの3日間、彼女との関係は最悪、ということか」
「ッたくよぉ、普通部屋の鍵を開けっぱなしにするかよ?」
「それ以前に女の部屋に忍び込む家庭教師がどこにいる」
「状況が状況だろ。アパートに入る直前、スナイパーが彼女を狙ってたんだ。そりゃ追手に先を越されたって思うのは当然だろ?お前も同じ状況ならやってたはずだ」
「……」
 キースはホットドッグを食べた。
「このホットドッグのウィンナー、お前がバーベキューで使ってるやつよりも美味いぞ」
「突然なんなんだよ」
「いや、お前がいつもあのウィンナーを『カフェテリアの味だ』って言うもんだからつい思い出してな」
「学食にも抜かりがないとはな。イタリアーノはアメリカ人より食にうるさいってことだ。羨ましい限りだ」そう言ってスティーブもスパゲティを一口食べる。「美味いな」
 二人が食事をしていると、午後の講義がもうすぐ始まる予鈴が鳴った。名だたる賢人を輩出してきた数百年の歴史を持つこの大学のチャイムは、大聖堂の鐘みたいに荘厳な音だった。
 廊下にぞろぞろとリュックサックや手提げバッグなどを持った学生たちが現れた。そのうちの一人にカミラがいた。
 彼女はこちらと目が合うと、すぐそっぽを向いて人波に紛れてどこかへ行ってしまった。
「相当重症みたいだな」とキース。
「ああ、相当重症なんだよ」スティーブはコーヒーを一口飲む。「なあキース、お前に頼まれておきながら悪いが、この仕事を代わってくれないか?頼むぜ」
 スティーブは困り果てた顔で言ってきた。彼は思ったことに合わせて表情がコロコロ変わる男だ。
「そういうことならば俺が代わろう」
「マジか」
「今回は元からお前のバックアップのために来たんだ。それにもともとこれは俺がやるべき仕事だったが、手が足りなくてお前を巻き込んでしまった形だからな」
「恩に着るぜ」

4

 翌日、キースはカミラが住んでいるアパートに向かっていた。彼の着るベージュ色のコートが、通りを吹き抜ける風でそよいだ。この時期のイタリアは冷え込み始めていた。昼だというのに若干肌寒い。黄色く染まった街路樹の葉が彼の後ろではらりと静かに舞い落ちた。
 ポケットの中のPDAから着信音が鳴った。キースは取り出してタッチスクリーンに表示された通話ボタンを押す。
『キース。この前のメール履歴を見たわよ』
「どうしたこのタイミングで」
『あなたのお友達に依頼するなら分かったけど、あなた本人が出るとなると話が違うわ。独断行動は控えてちょうだい』
「たしかに専属契約ではあるが、あんたと俺は客(クライアント)と売り手(ホスト)の関係の筈だ。いちいち縛られる謂れはない」
『あの子を守りたいという気持ちは分かるわ。だけどあなたが使っている設備や機械は最高機密レベルのものなのよ。そのPDAだって。迂闊な行動ばかり取るとこちらからの援助も難しくなるわ』
「つまり今はまだお目こぼし期間中ということか。本格的に問題になったらまた話そう」
 そういって通信を切った。キースは冷静を装っていたが、その語気はいつもより少し強かった。
 アパートの部屋の前に着いたキースはブザーを鳴らす。「どうぞ」とカミラの声がした。
「失礼する」キースはそう言って部屋の中に入った。狭いリビングでカミラが迎えてくれた。
「ボンジョールノ、セニョーラ・カミラ」キースは流暢で淡麗なイタリア語で挨拶した。
「ボンジョールノ、セニョール・マグワイア」カミラも丁寧なイタリア語で挨拶した。「あなたが新しいチューターね?」
「そうだ」
「へえ。イタリア人には見えないけどお上手なのね」彼女はキースのアジア系の顔立ちを見て言った。
「それなりには。仕事柄なにかと必要だったからな」
「そう、お茶でもいかがかしら?」
「そこまで気を使う必要はない。俺はただ語学を教えに来ただけだ」
「それって上級コース?イタリア男を上手くいなせる文句でも教えてくれるのかしら?」
 彼女は席を立って二人分の紅茶を沸かし、皿の上に載せたカップに淹れ、その片方を彼に差し出した。
「別にいいと言っただろう」
「いいのよ。私のわがままだから」
 彼女はチューターを付けられること自体に不服だったそうだが、キースに対してはやけに親切だった。
「実は昨日までのチューターがうざったくってね」スティーブのことだ。「部屋に勝手に上がり込んでくるわ、裸を覗くわ、その上しつこく早口でまくし立ててナンパしてくる。もうイヤよあんな男。だから昨日、大学側に報告してきたのよ」
 勝手に上がり込んでいたことは知っていた。状況を考えれば百歩譲って仕方ないとも思う。だがナンパをしていたという新たな事実を聞いて、キースは頭を抱えたくなった。
「一言言っておくが、ほとんどのイタリア人はその男より遥かに紳士的だ」と、キースは紅茶を一口飲む。「それに彼はアメリカ人だ。しかも親戚の叔父はそれこそドイツ系だ」
「そうなの。気付かなかったわ」ドイツ人のカミラは特に気にする様子はなかった。
キースは紅茶を飲み終えた。
「ご馳走さま。美味しい紅茶だった」
 それからキースは彼女に語学のレクチャーを行った。彼が教えたのは主に経済学の専門用語だった。確かに彼女のイタリア語の実力は十二分なものだ。むしろ経済学の分野においては並大抵のネイティブよりも詳しく語ることができるだろう。
 レクチャーが終わるころには時計は4時を指していた。
「今日のレクチャーはこんなところだ」
「すごいわ。結構いろいろ知ってるのね」
「テキストの内容を先取りしただけだ」
「いえ、教え方も丁寧だから頭にすっと入って来たわ。ありがとう」カミラは机に広げていた書類を棚に仕舞った。「ねえ、この後ちょっと出かけない?行きつけのカフェがあるの」

5

 そういうわけでキースはカミラに同行してカフェに出かけた。彼女にはなるべく外出をして欲しくなかったが、断るわけにもダメだと言うわけにはいかなかったので、了承した。
 しかし初対面の家庭教師と出かける生徒というのは他にいるものだろうか。と思いながらテーブル席でコーヒーを味わっていた。
「私ね、父親が科学者なの。だけどいつも研究に夢中で私もお母さんのこともほっぽり出していて。あの人の恋人はお母さんじゃなくて研究だったのよ」
 それらしい相槌を打ちながらカミラの話を聞いていたキースだったが、一部始終は先の任務で全て知っていた。彼女の父であるミハイル博士の経歴や、彼が研究していたことも。そして「組織」に研究を売り渡そうとしていたことも。
「それで科学が嫌いになって経済学を目指すことになった、というわけか」とキース。
「まあそんなところね。個人的に興味があった分野ではあるけど」
 2人が話し込んでいると、黒い車が2台カフェの前で停まった。窓に映る不審な車をキースは見逃さなかった。
ドアの窓ガラスが開く。そこから出てきたのは――無数の銃口だ。
「伏せろ!」キースは咄嗟にテーブルを蹴って盾にし、カミラを引っ込める。コーヒーカップが床に叩きつけられた。
 店に向かって銃口が一斉に赤い火花を散らして吼え始めた。店の窓ガラスが割れ、白い壁がひび割れ、陶器の食器類が粉々に散ってゆく。
 周囲の客が悲鳴を上げてパニックで逃げ惑う中、キースは懐に隠し持っていたグロック17をテーブルの中から突き出して応戦する。それは敵を仕留めることより牽制の意味が強かった。
「店の奥へ逃げろ!」
 キースが頭を引っ込めながら退避するように促すと、カミラは怯えながら逃げていく。キース自身も彼女の後を追うように、牽制射撃しながら厨房へと抜ける。
 カミラは裏口を出たそばでへたり込んでいた。
「なんなのよアレ一体!?」
「連中の狙いは君だ。逃げるぞ」
 キースは彼女を起こし、手を引いて路地裏を走り始める。
「ちょっと待って……!」一体どういうことなの、と言う暇を持たせぬほどキースの足取りは速すぎた。

6

 ボロ絹のように無残な姿に変わり果てたカフェは静寂に包まれていた。窓ガラスは粉々に砕け、美しかった白い漆喰の壁は蜂の巣となり、見るも無残な形になっていた。
 武装集団の本隊が店の前に並んでいた。
「女と護衛の姿が見つかりません」
 店の中から出てきた男が彼のボスに報告した。背が高く、フレディ・マーキュリーのような髭を蓄えた武装集団のボスは、影が深く掘られたような瞳でジロリと彼を一瞥し、静かに頷いた。ボスの名はジュリオ。金さえ渡せばどんな汚れ稼業も担う「パッシオーネ・ロッサ」の統領だ。
 もう一人の男が店から店主を連れてきた。店主はジュリオの眼を見てぞっと青ざめた。
「女と護衛はどこへ行った」
「う……厨房から裏口を突っ切って行きました……!」
 それを聞いてジュリオは腰のホルスターからナイフをおもむろに取り出した。カフェの店主は輝くナイフの切っ先にこの上なく震えた。しかしジュリオはその切っ先を店主ではなく手下の方に向け、左右に弧を描いた。周囲のストリートを取り囲めという指示だ。
 黒い車の列が店のそばから去っていく様子を、ジュリオは静かに見送っていた。そばにいた店主は糸が切れたように膝を着き、身体をわななかせていた。

7

 キースたちが路地裏を抜けると、そこは人で溢れかえっていた。立ち並ぶ白いテント。この一角は市場になっていた。地元の人間だけでなく観光客もこの市場の見物をしている。
 キースは腕時計型のデバイスを操作し、周辺で待機させていた自立型オートバイ・ファルコン200Sを呼び出した。合流ポイントはこの市場を突っ切った先にある。無人で動くバイクは目立つのでなるべく人気の少ない通りで合流したいところだ。
 陽気なざわめきが一転、数発の銃声によって悲鳴に変わった。
「奴らの援軍だ」
 キースはグロックを取り出し、敵に狙いを定めようとする。だが、四方八方へ雪崩のように逃げる民間人の頭がグロックの射線を次々に横切る。
下手に撃てば無関係の人間を巻き添えにしてしまう。一方、黒い防弾チョッキを着た追手たちは遠慮なくこちら側に向かって各々の銃で実弾をばら撒いてくる。
 このままやられる訳にはいかない。ふと、そばの出店で樽にどっさり盛られた青々としたリンゴがキースの目に留まった。これならば殺傷力が弱い。もし時が違えば清々しい香りを堪能できただろう。
「あんた何やってんだよ」と言いたげな店主の男をよそに、キースはリンゴをおもむろに手に取り、コートをはためかせながら追手の一人の頭を目掛けて投げる。
 投げ出されたリンゴは砲弾の如く殺人的な速度で飛んで行く。そしてリンゴは恐るべき正確さで追手のこめかみに直撃し、スパンと快活な音と共に黄色い果肉が炸裂し、男を失神させた。
 コートで覆い隠されたパワードスーツの投擲力がリンゴを恐るべき凶器へと変えてゆく。続いて一投、また一投と次々とリンゴを追手たちに命中させてゆく。スパン!スパン!とリンゴが爆ぜる音が次々と市場を木霊した。
 キースが次のリンゴを手に取ろうとした時、店の主人と目が合った。小太りのその店主は静かに頷き、キースに銀のトレーを手渡した。
 逃げ惑う人々をかき分けるように現れるナイフを持った追手たち。キースは手に持ったトレーを構える。
「ウオーッ!」追手たちがナイフをかざして切りかかってきた。
 パァン!パァン!パァン!トレーが甲高い音を立てて追手たちの顔に連続でカウンターヒットし、失神させた。
背後から迫るもう一人の追手。その手にはやはりナイフだ。
「ヤァーッ!」男が怒声と共にナイフを突き出した。
 パァン!キースは瞬間的にトレーを盾代わりにナイフを防いだ。
「なっ!?」
 パァァン!男はトレーでカウンター攻撃を食らってなぎ倒された。
「トォーッ!」
 キースは空を目掛けてナイフ痕の付いたトレーを全力投球した。強烈なスピンと風切り音を立てながら天に向かって飛翔するトレー。その途中で急激に軌道を変え、群衆に紛れていた追手の脳天を目掛けて急降下してゆく。
 パァァン!
 群衆の雑踏の中で銃を持った男が倒れた。
 彼の人間離れした業を前に、カミラの口は開いたまま閉じなかった。
「今のうちに行くぞ」
 キースは再び彼女の手を引っ張り、人波を掻き分けてバイクの合流場所へ向かった。
 その先の人気の少ない路地でファルコン200Sは待機していた。影がそのまま立体になったような漆黒のバイクは静かな攻撃性を秘めていた流線型のフォルムだった。二人はファルコン200Sに跨った。
「しっかり捕まっていろ」そうキースが言うと、バイクはホイールをスピンさせながら急発進した。
「きゃあ!」
 狭い路地を猛スピードで縫ってゆくファルコン。左右の建物が風のようにカミラを通り抜けていく。必死でしがみ付いていないと吹き飛ばされそうなGが彼女の身体に掛かる。暴れ馬なんてものではない。ジェット戦闘機にしがみ付いている気分だ。
 メインストリートに出ると、あの黒い車が待ち構えていた。
「クソッ」普段一人ならばこのままスピードを殺さずにドリフトで逃げるところだ。しかし後部座席にはヘルメットすら付けていない一般女性を乗せている。
 できることなら彼女に人殺しの場面を見せたくないところだが、やむを得ない。キースはホルスターから銃を正面の敵に向けて撃った。9mmパラベラム弾が男たちに命中し、血を流しながら倒れた。その間、ファルコンはAIで片手運転をアシストしながら動いていた。
 そしてバイクは安全ギリギリの速度で旋回しながらメインストリートに躍り出た。とはいえ、カミラにとっては命がけのロデオであることに変わりはない。
 ファルコン200Sは行き交う一般車両をスラロームしながらストリートを猛進する。その上ローマの道は起伏が激しく、アクセルワークを間違えると後ろのカミラが吹っ飛んでしまう。繊細なアクセルコントロールがキースに要求された。
 ゆく先々で封鎖する追手の車が待ち構えていた。一人ならば起伏を利用してジャンプで飛び越えられるが、やはり彼女がいる手前、不可能だった。
 道路を次々と曲がるバイク。それはどこか誘導されているようにも見えた。

8

 辿り着いた場所は回廊に覆われた広場だった。中央にはローマ神話のミネルヴァ像が建っている噴水があった。奥の時計台に向かって赤くなった夕日は沈みかけ、空は紫色に染まり始めていた。
 キースはドリフトしながらバイクを停めた。
 回廊の屋上から13人のスナイパーが二人を取り囲むように現れた。正門からは一人の男がゆっくりと歩いてきた。武装集団のボス・ジュリオだ。
「キース・マグワイア。小娘を連れただけで手も足も出ないとはな。噂ほどにもない奴だ」
 ジュリオがナイフの先をキースに向ける。
「小娘を渡せ。そうすれば彼女に傷つけることは無い」
 回廊から覗く13人のスナイパーたちは、油断なくキースたちに銃口を向け続けている。その構え方は訓練された兵士そのものだ。
 背後にバック転、そのままアクロバット運動でミネルヴァ像の陰に入り込んで片面のスナイパーたちの射線を遮る。そしてもう片面のスナイパーたちの狙いが定まる前に始末する。――キースの脳裏にそのようなビジョンが瞬時に再生された。だがそれは一人ならばの話だ。奴らならば確実にその前にカミラを仕留める。
 ではカミラをジュリオに手渡すフリをし、不意を突いて倒すか?だが敵はこちらの反撃を許す前に一斉攻撃してくるだろう。
 万事休す。このまま投降して素直にカミラの身柄を渡し、大人しく引き下がってから反撃の機会を伺う方が僅かながら彼女の生存率が高いかもしれない。
 だが、彼女を囮にしたところで後からぬけぬけと助け出せる保証などどこにある?キースに一筋の迷いが走る。
 0.1%でも可能性が高い方を選べ。保証は無いが賭けてみるしかない。
その時――
 大気をハンマーで叩き潰すような音が連続で夕闇の広場に轟いた。全部で13回。周囲のスナイパーたちが全員斃れた。
「ヒーローは遅れて登場する、ってな」
 声の主は時計台から聞こえた。そこにはスティーブが立っていた。右手に持つ銀色に輝くマグナムから硝煙がわずかに。
「あんた、あの時の……」声の主の方へ振り向いたカミラが目を丸めて言った。
「行け!」キースが彼女をスティーブの方へ逃がした。
「命拾いしたようだな、キース・マグワイア」ジュリオが低い声で言った。「やっと足かせが取れた、という顔をしているな」
 一方、カミラは時計台に逃げ込み、建物の中でスティーブと合流した。屋上に出て、対峙するキースとジュリオの様子を見ていた。
「あの人を助けなくていいの?」
「奴の見せ場はここからだ。邪魔するわけにはいかんよ」
 そして広場では冷たいそよ風がキースとジュリオの間を吹き抜けた。キースは無言のまま構えを取る。ジュリオもそのまま構えを取った。その間およそ6メートル。両者の間にジリジリと緊張感が高まってゆく。
 時計台の鐘が鳴り響いた。二人が一斉に動き出す。
 ジュリオの手から一本のナイフがダーツのように放たれた。キースはすんでのところで跳躍して回避、前方のジュリオに飛び掛かりながらナイフを振りかざす。
 刃と刃がぶつかり合う甲高い音が響き渡る。ジュリオがキースのナイフを振り払い、空いた左手でボディーブローを狙う。キースももう片方の手でそれを払う。
 ナイフ手刀が交互に飛び出る。肉迫した間合いの中、両者の間で油断のならない攻防戦が繰り広げられてゆく。
「フゥンッ!」一瞬の隙を突いたジュリオがナイフを横一文字に薙ぎ払う。キースはその軌跡をブリッジで回避した。
「トォーッ!」ブリッジの体勢から、体幹の膂力をバネにしたキックが爆発的な勢いで繰り出された。
 キースのつま先がジュリオの頬を掠めた。ジュリオはホルスターのベレッタM92Fを即座に手に掛かけた。
 キースは連続バック転でジュリオの弾丸を巧みに避けてゆく。タイルには後を追うように弾痕が砂煙と共に刻まれてゆく。そしてキースは中央のミネルヴァ像の噴水に隠れて体制を立て直した。
 着ていたコートに一筋の切れ目が入っていたのが分かった。そこから人工筋肉で盛り上がったパワードスーツが覗いた。あの男は油断ならぬ手練れだ。技量ならば並大抵の者よりも遥かに優れている。だがもはや小手調べは終わりだ。ここで一気に畳みかける――。
 コートを脱ぎ捨てたキースが噴水から空を切って飛び出した。グロックをジュリオに向けて撃ち続ける。
 キースが引き金を引くタイミングに合わせてジュリオは連続側転で避ける。
 尚も突進を続けるキース。ジュリオはキースに素早くベレッタの弾を浴びせた。
 バカめ、血迷って自殺行為に出たか。そう思って照準を下すと、目の前にキースの姿がジュリオの前まで迫っていた。
「なっ」
 さっき当てたはずでは――。先ほどジュリオが撃った時、キースは回避行動を全く取らずに突進してきた。確かにそう見えた。一体どんな手品を使ったというのだ。
 あの瞬間、キースは人智を超えた反射神経とパワードスーツの俊敏性で迫りくる弾丸を全てナイフで切り落としていたのだ。
「トォォーーッ!!」
 一閃。キースのナイフがジュリオの腹部を貫き、赤黒い血がバケツをひっくり返したように溢れ出てきた。ジュリオは力なく跪いた。
「ハァ……ハァ……、貴様を見くびっていたようだ、キース・マグワイア」
「言え、誰に雇われた?」
「ハハ……そんなことは俺にも分からん。ある朝起きたら玄関に大量の札束と一通の差出人不明の手紙が届いていた……。そういえば分かるか……?」
 キースはナイフをジュリオの腹から抜き出した。ジュリオが地面に横たわった。
「だが俺には分かる……あの得体の知れない連中に首を突っ込んだ時点で貴様の運命は……」
 ジュリオはそこで息絶えた。
『こちらジェニファー。キース、聞こえる?』
「こちらキース、どうぞ」
『ミハイル博士の子の件だけど、EUの警察組織が特別に保護することになったわ』
「今回の件は俺の独断行動ではなかったのか」
『それについてだけど、今回は正式な依頼ということで取り消しになったわ。娘さんのDNAと生体反応がミハイル博士の研究ファイルを開く緊急コードになっていたのよ。そういうわけで、あれから彼女の保護依頼が研究会から出ていたんだけど――もう大丈夫そうね』
「そうか」と言ってキースは通信を切った。
 スティーブとカミラが奥から出てきた。
「話は聞いたか?厄介な親父ったらありゃしないぜ。何を考えて娘のDNAをパスワードにしたんだか」
 ことの一部始終についてはスティーブからカミラに説明があった。裸を見てしまった件についてはひとまず仕方ないと思ったようだ。
「それにしても最後の最後まで最悪な父親ね」
 向こう側ではパトカーが次々と到着し、警官隊が降りてきた。
「でも信じてるわ。あんたたちなら、奴らを壊滅できるって。世界中には私みたいに困っている人がいる筈よ。」
 カミラは警官と共にパトカーの方へと向かって行った。別の警官たちはジュリオの死体を取り囲むように現場を封鎖していた。
「俺たち、すっかり期待されているみたいだな」スティーブが葉巻をふかしながら言った。
「だが『組織』の正体をまだ掴めていない。その名前すらも」とキース。「そして奴らを必ず――」
 日がすっかり沈んで暗くなった広場を無数の青いパトランプが照らしていた。

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