いちばん好きな人との過ごし方:中途半端
少し涼しくなってきた。秋でも夏でもない。そのうえ今日は、雨でも曇りでもなかった。そんな中途半端な夜に、すこし居残って、すこし話す。
そこに居るというわけでもないし、かといって帰るというわけでもない。尻は椅子から5ミリほど浮いているし、正直帰りたいと思うが、会話を打ち切りたいほど苦痛というわけでもない。
この隙間の薄い時間が、わたしは好きだ。
それらしい場所で腰をすえて、料理や酒が運ばれてきて、「さあ話しましょう」。こういうときはたいてい、ろくな会話にならない。
年寄りは昔話をしたがるし、若者は萎縮してしまうし、同い年は案外喋ることがない。煮え切らない会話ばかりして、「こんなことなら黙って食事してたほうがいいな、まあこの食事も値段の割に」…なんて、意地の悪いことを考えてしまう。
ところが中途半端な時間というのは、その人自身がそこにいない。年齢や立場という余計なものを使って、心の壁を作る時間がない。だから「素」に接することができる。言葉の奥に、言葉にならないその人自身がいる。
ぽろぽろと、自分が何を話したのかは覚えていない。ただ、相手が何を言ったのかは、面白いことによく覚えている。ただそれは、たとえ同じ内容だとしても、腰を据えて聞いた時より、ずいぶんと棘が少なく感じる。
人間は、「自分自身」がないときこそその人らしいのではないか。そんな気がしないでもない。モノ、学歴、年齢、ジェンダー、そういう価値による裏付けは価値でしかなく、頭で付けた価値は本能で感じる存在とは水と油でしかない、と。
わたしは、自分自身というものを一度なくしてみたい。
と言うと、自分が嫌いだから、自分をなくそうとするものと思われるかもしれない。そうではない。自分自身を灰色の世界に投げ込んだ時、その灰色のなかでまた新しい色が見えてくる気がするのだ。
わたしは10代のころ統合失調の手前までいった。これはすべてが灰色になる病だ。自分と世界がひとつになるし現実と妄想がひとつになる。幸い、治療がうまくいき軽度で済んだが、この経験がわたしを作ったのだと思う。
完全な灰色の世界をわたしは白銀と呼ぶ。わたしはそれに瞬間的に触れることができる。本を書き切った時がそうだ。
いずれすべてが永遠に白銀になるときがくる、それをわたしは望んでいる。そしてそれに向かって生きる。それがわたしの考える白銀主義であり、これからも本を通して、それを表現したいと思う。
それは神がいないとする虚無主義とは違うと予感している。わたしには白銀の神がいる。わたしの白銀は、永遠には決して届かないだろうが、それは永遠に向かって歩まない理由にはならない。