テディベアの魂。オリジナリティのない作品。生きることの「楽しさ」はいろいろだ。
先日シュタイフのテディベアを購入した。青山にある本店にまで行った。わたしは埼玉住みなので渋谷で乗り換えた。マイバッハだらけの青山に行くのに、小汚い、狭苦しい、蒸し暑い渋谷駅を通るというのは、どうにも腑に落ちない。綺麗な場所に行くなら道中もスマートであってほしい。わたしはこのあたりの一貫性にこだわるほうである。
とはいえ、タクシーもそれはそれで面倒であるし、シュタイフの店はそこらじゅうにあるものでもない、「今回ばかりは」と妙な言い訳を自分自身にしながら向かった。
どの子をお迎えするかは、迷わなかった。最初からネットで決めていたし、実際に出会っても揺るがなかった。自分に欲しいものがわかってきたというのは、長生きしてよかったと思うことのひとつだ。
毎晩毎晩、撫でている。事実として生きてはいないが、存在としては生きている、と思う。わたしの指先が、目が、錯覚が、記憶が、それに命を与える。この存在としての生は「魂」と呼ばれるものとおおむね同じだろう。
年甲斐もないといったら元も子もないのだけれど、生きてもいないものに仮想的な人格を見出すというのは、わたし自身が持つある種の「癖」らしい。
自分の小説のキャラクタもそうだ。存在しないし、まして実体もない。だが、それが自分から出たものだ、自分の作為によるものだと感じるかといえば、全くそうではない。自分の中に閉じ込めてしまっている罪悪感がある。
幼少期はあまり楽ではなかった。だから、逃げ場が必要だった。とはいえ、どんなコンテンツも、いつかは終わってしまう。ゲームも映画もそうだ。置いていかないでほしい、といつも思った。だからその続きをよく考えるようになった。
そのたくさんの「続き」が、ひとつにまとまっていって、自分の作品になっていったと思う。だから、どこにもオリジナリティはない。それでもそこには存在があり、魂がある。わたしが頭の中で触れて、書き出すことで与えられるものだ。
客観的に見れば、取るに足らない人間が、がちゃがちゃキーボードを打っているだけの光景かもしれない。それはSNSに載っている人たちほど楽しそうではないし、綺麗でも鮮やかでもないらしい。だからときどき「楽しそうじゃない」「楽しいことをしよう」と言われてしまう。
「自分と違う意見も大事か」と思って、渋々ながらついていくと、まあ思っていたよりも面白い。ああ良いネタができたなぁと思って、もとの制作に戻る。そうするとまた構ってくる。正直、鬱陶しいと思うこともあったが、「案外、良い関係に落ち着いたのかもなぁ」と最近は思うのである。