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不幸を選択しているのではなく幸せに挑戦し続けていたこと

母との間に強い心理的葛藤を抱えていた私。

葛藤が大きかったとき、
母のことを

・そもそも母親に向いていない人
・不幸の選択しかしていないから幸せになれない人
・愛を拒否し続けていることに気づいていない人

そんな風にとても残念な存在と思っていた。
(かなり失礼ではあるけれど、当時の正直な気持ちです)。

どうして幸せになろうとしないんだろう?
不幸を繰り返して悲劇のヒロインで居続けるのは疲れない?

母に直接は聞けず、私の中でずっとグルグルと回っていた質問だった。

母はこのままで人生の幕を閉じるのだろうか?
本当の幸せをかみしめることなく「生」を終えるのだろうか?
それを母は本当に望んでいるのだろうか?

私の中に存在する母に問うてみると、即答でNOだ。

母自身はどれほどの自覚があるのかは分からないが、
潜在的にでも「幸せ」になることを望んでいる、と直観的に感じた。

ただ、「幸せのなり方」が分からなくてもがき続けてきただけなんだ、と。


母は異常なほど努力家だ。
ただ、それは「努力したくてしている」ではなく、
「努力しないと自分の存在を認めてもらえないから」という恐怖からだ、と
私は推測していた。

昔の私もそうだった。

努力をしなくても楽に生きられるなら楽に生きたい!と強く思っていた。
でもそれでは世間からはじかれる、恥をかくだけだ、と頑なに信じていた。

本気で「生きるって大変過ぎる」と思っていた。
人生って「苦」以外にない、と。


長年受け続けてきたカウンセリングを通して、
やっと「生きる」ことや「幸せ」や「自分のこと」が
「よろこび」として感じられるようになった。

私の中にこんな「よろこび」自体があることに
自分でびっくりした。

もともと持っていたのだ。
だけど、眠らせてしまっていた。


「よろこび」って純粋にいいなぁと感じる。

命を躍動させたい、というよろこび
愛をたくさん感じたい、というよろこび
愛を届けたい人がいる、というよろこび
ゆっくり私のペースで生きていけるよろこび
与えられた課題をクリアしていくよろこび
悲しみを純粋な悲しみで感じられるよろこび

「幸せ」を選択できる自分に成長できているなぁと
自画自賛している。

「幸せ」に向けてしたい努力ができている。
もちろん、あっ!!やってしまった!!と痛い目をするときも
まだまだある。

それでも、「幸せ」が自分のスタンダードだと、
しっかりと自覚できるようになった。

「幸せ」の着地点が感覚的に掴めている。

ときどき、踏み外してやらかしてしまうこともあるけれど、
最終的なとても大切な場所に、どのようにして帰りつけばよいのかの方法も
身に付けられるようになってきた、と思っている。

私、、、、努力してきたなぁとしみじみ。


ふと、母も同じでは?と思った。

私が幸せになりたくて何年かけてでも取り組んできた努力。
私がそうだったように、母も幸せになりたくて、努力を重ねてきたのでは?

ただ、母は幸せのなり方が分からなった。
私は運よく信頼できるカウンセラーさんに出会い先導していただいたから、努力の仕方を身に着けてこられたけれど。

だとしたら、母は「不幸を選択しよう」と思っていたのではなく、
「幸せになりたい」という一心に向かって、異常な努力を積み上げてきたのではないかな、と。

母の努力をとてつも愛おしいものに思えた。


幸せは技術だ。
つくづくそう思う。

才能も年齢も性別も学歴も収入も一切関係ないことだと分かる。

母には心の底から感じられる幸せを伝えていきたいと思っている。






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