万引き息子に乾杯を



「なんで万引きなんてしたんだ」



ドラマや小説でよく耳にする台詞を、気付いたら口にしていた。
その幼い顔を見た途端、衝動的に、無意識に、問い掛けていた。いや、問い掛けというよりかは、やり場のない気持ちがすっと出てきただけなのかもしれない。
そこまでの憤りもないし、混乱もしていない。
ただ、この場を何事もなく乗り切ることしか考えていない。意外と冷静だ。
電話が掛かってきたときと比べれば、心も体も随分と落ち着いてきた。





 
iPhoneに見覚えのない電話番号が映る。
番号から推測するに、どうやら迷惑電話ではなさそうだ。
6コールほど聞いて、右にフリックする。
 
iPhoneを耳につけてからの時間はよく覚えていない。
耳に入ってくる情報は、若者でも年寄りでもない男の、低くも高くもない声から伝わる。
その男は警官を名乗り、俺との上下関係の線引きを明確にした。
息子が近所のスーパーで万引きしたという、たったそれだけのこと。
息子さんが一向に話をしてくれないので、お父さんと話がしたいという、感情のない提案。
俺はその提案に「はい、わかりました」と答えるしかなかった。
気が動転しているのだろうか、思考が追い付いていないのか。
しかし、どこどこ交番まで来てほしいというリアルな所在地を耳にした瞬間、早く行かなければと逸る気持ちになる。
 
重い腰を上げる。
なんだか上手く立てそうにない。
目の前がクラクラする。自分の中ではそこまで衝撃はないと感じていたが、じわじわと実感が湧いてきたようだ。
少しふらつき、足がよろける。
部屋にある一番まともな私服に着替え、出掛ける準備をする。
口が少し臭うが、歯磨きをしている暇もない。
財布とiPhoneと鍵だけ持って玄関に向かうが、引き返す。
一口喉を潤したい。テーブルに置いてあった缶に口をつけ、流し込む。
缶を持つ手が震えているのは、恐怖心があるからだろうか。たしかに、こんな経験は今までで初めてだ。少しだけ心臓のスピードも早いのは、緊張もしているからだろう。
頭の方もまだ上手く回っていないが、急がなければ。
途中の廊下に掛かる鏡は見ずに、外へ出る。
ドアを開けたときの日光の眩しさに、思わず目を細める。
 
交番へ行くまでの道のり、目的地まで近いはずなのになかなか辿り着かない。
駐車場のハイエース、シャッターの落書き、電信柱のカラス、Uber Eatsの自転車。
過ぎ去る全ての景観が、後ろから俺に視線を浴びせてくるようで恥ずかしくなる。
そのせいか、歩みを進めるスピードが自然と速まる。
もちろん、すれ違う人の視線も気にならないわけがなく、顔を埋める。
誰も俺のことなんか見ていないのに、誰も声を掛けようとしているわけでもないのに、早くこの通りから抜けたい。曲がりたい。辿り着きたい。
逃げるように早歩きで歩いていると、気付いたら白く冷たい交番が立ちすくんでいた。
物腰を低くして、建物をそっと覗く。
 




 

警官と、息子と俺。
三人が作り出す空間は、自分がそこにいるとは思えないほど客観的な映像だった。
まるで夕方のニュース特集をTVで見ているようだ。
自分が発した台詞でさえ、自分の発言と思えないほどに。
息子は何も答えなかった。ただ俯いているだけで、俺の顔を見ようともしない。
元々、もの静かな性格だ。意見を主張するタイプでも、感情を表に出すタイプでもない。
優しくて気弱な性格は、別れた妻に似たのかもしれない。
なんとなく俺に対しても他人行儀で、怯えている様子もあった。
距離感を上手く取られていた。一歩引いて、二歩下がって。まるで親子でないように、父と子の関係を認めたくないように。
 
だから、こんなことをするなんて、万引きをするなんて、正直意外だった。
率直な想いを聞かせてほしかった。
臆病な息子から一番遠い位置にある万引きという犯罪に、手を染めた理由を。
今年で小学六年生になる彼が、分別がつかなかったはずがない。
頭も悪くない。思慮深く、慎重で、計画的に行動するタイプだ。
俺みたいに感情に任せて動くような人間ではないと思っていた。
なぜ、こんなことを。なぜ、こんなものを。
 
息子は沈黙を続ける。
これでは埒が明かないと、警官が沈黙を破る。
「しょうがないですね…今回は初犯のようですし、代金だけ支払って頂いてお引き取り頂いて結構ですよ」
俺は内心ほっとした。特に何事もなく、この場をやり過ごせそうだ。
自分が何かしたわけでもないが、やはり警官服を着た人間と話すのはいかんせん慣れない。
警官は俺の顔を見ながら、こう言った。

「どうやら、お父さん想いの子のようですし…」
 
同情に満ちた目で話す警官に、微かな違和感を覚えた。
なぜ、そんなことがわかるのか。一言も発さず俯く息子に対して、どのような印象を抱いたのか。
臆病で、弱々しくて、静かな雰囲気から、何を読み取ったのだろうか。
考えれば考えるほどわからない。
貧乏揺すりをしていたことに気付いたときには、息子は座っていた椅子から降りていた。
「ごめんなさい…」とぼそっと呟く。
謝るのなら、どうしてやるのだ。喉が乾いてしょうがない。早く家に帰りたいと、焦る気持ちがそのまま行動に映る。
警官に何度も頭を下げ、お金を払う。
まだ手が震えているようだ。掌で小銭が揺れる。
机に置いたチャリンという甲高い音が耳に響く。これで終わりだ。
「もうするなよ」と諭す警官の声が、誰に向けられたものかわからなかった。
気付いたら息子は先に交番を出ており、俺は後についていくように外へ出る。
最後に交番に向けて謝ったとき、まるで警察全体が俺に向けて視線を浴びせているようで辛かった。
「もうするなよ」の声が未だに響いて残っている。
 
短い帰路、俺は息子にもう一度問い掛けた。
「なんで、あんなことしたんだ?」
息子はやはり答えない。
やれやれ、反抗期というものが来てしまったのだろうか。たしかに俺も中学校に上がるときには既に親に反抗していたかもしれない。
そんなことを顧みながら、万引きした商品の入ったビニール袋を覗き見る。
その瞬間、俺の中の時計の針が電話が掛かってくる直前に巻き戻る。
 
 


ポロアパートの六畳半の部屋。真っ赤な顔で酔い潰れる自分。部屋に転がる空き缶の山。ダラダラと流れるTVのバラエティ番組の笑い声。ポテトチップスの空いたままの袋。ゴミ箱に溢れるタバコの吸い殻。丸まったティッシュ。セブンイレブンのレシート。蔓延する酒の匂い。一升瓶。潰された缶ビール。横たわる「いいちこ」の焼酎。別れた妻と息子との三人の写真。アルコール依存症と診断された一枚の紙きれ。
 
 


脳裏にしっかりと焼き付いた診断書の映像がフラッシュバックする。
気付いたら、帰り道に戻っていた。横断歩道に差し掛かる。信号は赤だ。
蘇ってきた光景と眼前の光景が交わり、俺の体の危険信号も灯る。
やばい、そろそろ。手の震えが止まらない。
喉の渇きも限界に近づいている。
飲み込んだ唾さえも、アルコール臭い。
俺は、ビニール袋の中のものを取り出す。
 
 

ストロングのロング缶


 
 
もう手にしたときにはタブを開けようとしていた。ダメだ、力が入らない。
二回やっても開けられず、ふと息子を見る。
最後にもう一度尋ねる。

 
「どうして、お前、こんなものを?」


 息子は少し時間を置き、ぼそっと呟いた。
 

「だって、今日、お父さんの誕生日でしょ」

声が小さく、ほとんど聞き取れなかったが、ハッキリと耳に残る。


「お父さんが一番好きなの、これしか知らなかったから…でも、僕、まだ20歳じゃないから買えないし…」

蚊の鳴くような声で、追い打ちをかけるように。


「お母さんがいなくなって、誰もお祝いする人がいなくなっちゃったから…」
 


そうだ、優しい性格は、あいつに似たんだった。
去年、三人で撮った写真が思い起こされる。
あれはたしか、三人で最後に撮った写真。
俺の誕生日を祝った、記念の写真。
涙が出そうになるのをぐっと堪えようとするが、冷たい雫が頬を伝る。
駐車場のハイエースもシャッターの落書きも、電信柱のカラスもUber Eatsの自転車も、もうどこに見当たらない。
あれだけ俺に対して冷たい眼差しを向けていた人も、誰もいない。
この世界は、誰も俺を見ていない。


もう、泣いてもいいか。
 

人目を憚らず、泣く。
こんな姿を見て、息子がどう思うかはわからない。
でも、もう溢れ出る感情に嘘はつけない。
「ありがとう」の僅かな気持ちと、「こんな父親でごめんな」の有り余る程の感情が一緒くたになって溢れ出る。
涙は無情だ。
咽び泣く声が、虚しく空を抜ける。
 
ダメだ、流した分の水分を吸収しないと干からびて死にそうだ。俺は、持っていたストロング缶のタブに手を掛ける。
震える手で、乾杯をしよう、生まれた今日という日に。



たった一人の、愛すべき万引き息子に。




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