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#77 『旅』という装置

2024年11月某日

最近、ふとしたことで、以前感銘を受けた小文を思い出した。たしか、著名なファンドマージャーの方による手記か何かだったと思う。その内容は、「地方の人ほど地方を知らない。そのため、自分の地域のことを相対化できず、本当の地元の良さに気づいたり、その強みを上手に伸ばしたりすることができていない。だから、地方の人ほど、いろんな地方を知らないといけない。そのために、旅をしよう。」みたいなものだった(と筆者は記憶している)。

さて、若かりし頃の筆者は、前述の小文に示された視点に大変感銘を受けたことから、「地域」をフィールドに仕事をしているものとして、意識的に「旅」するようにしてきた。いつしか、色々な地方都市を巡ることがライフワークとなった。そんな中、いろんな地域を訪れて気が付くのは、どれだけ社会の情報化が進んでも、現地に行ってみたいと知覚できない「地域の魅力」が少なくないことである。なにを今さら、という感じなのだが。

その地域を訪れる前と後で一体何が変わるかを考えてみたい。そのひとつに、「意思を持ってその地に足を踏み入れる行為の有無」というものがあるかもしれない。感覚的にはあたり前の話なのだが、このプロセスを経ることで、とたんにその「地域」が「自分ごと」になる気がする。そして、「その地域」や「自分のふるさと」や「自らが支援する地域」との「相対的な位置付け」がだんだんとクリアになるという副次的な効果がある。いつしか、「その地域」のみならず、自分の中の「地域」という概念に対する解像度が上がっていく。ま、あたり前の話なのですけど。

このことは、「旅」は自らの「地域」というスキーマ(構造化された知識の集合)に枝葉の一部として、「旅した地域」の文化や歴史、さらには匂いや温度などの「情報」を付加する装置と捉えることもできそうだ。ようするに、旅を通じて、それらの個別情報を帰納的に抽象化した、大小さまざまな「概念」がスキーマをいろどり、自らの「地域」全体の知識に厚みをもたらすということである。こんな風にして、「旅」をきっかけに、「個別地域の相対化」がすすみ、結果、「地元の理解」につながるのだろう。

とにかく、旅をすると、旅先のよさと地元のよさの双方に気が付くことができる。おトクだ。そうだ、旅をしよう。
ほなら。

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