身体係数と、健常と、障害と、社会と。
今週、大学のバイオメカニクスの講義で重心推定のための身体係数についての話をした。重心の推定には、例えば前額面で考えるときには、各セグメントの長さと、体重に対する重さの比と、既に過去の研究で明らかにされているセグメントの重心位置の推定結果が必要になってくる。
全身の重心を推定するためにセグメントの重心が推定されている既存の結果が必要になる、という矛盾はあるが、今のところ教室で基本的なバイオメカニクスの授業をやる上では致し方ない。
身体係数というのは、身体を測定することで得られるさまざまな数値のことを表す。身近なところで言えば、体重、身長などは、幼少期から計測されてきている身体係数の例になる。成長期にかけて体重や身長を計測するのは身体の成長の推移を見守るためであるし、成人に達してからはこれらの身体係数を利用してメタボリックシンドロームの危険因子を算出したりしている。(血液検査の結果ももちろん大事だが、HbA1cの値の「実感のなさ」に比べて、子どもの頃から親しんでいる体重や身長から算出されたBMIなどは、患者側の理解度が高いという一点では有用な指標だなあと感じる。医療って、受ける側の理解が大事ですよね。)
バイオメカニクスを学んでいると、もちろん、身長や体重だけでは語れないより細かい身体係数というものを考えることになる。なぜなら、長さや重さ、慣性モーメント(回転のしづらさ)は、運動そのものに直結するパラメータだからだ。
例えば、膝から下の長さや重さが違えば、歩行周期の後半、遊脚側の振り出しの大きさが必ず変わってくる。重さについては足首につける重りを使って簡単に実験できるので、体重の5%くらいの重りを足首につけて試しに歩いてみてほしい。振り出しの際に、足が前方へ持っていかれる感覚とともに、最適な位置で着地するのも難しくなると思う。さらに、障害物のない場所で、閉眼でまっすぐ歩いてみると、最終的に「まっすぐ歩けていなかった!」ということになると思う。下腿が重くなったことで、振り出された下腿は慣性が大きくなって止まりづらくなるので、片足だけ大きく振り出される結果になるわけだ。(人間の身体はすぐに目的の運動に対して補正をかけてくるので、閉眼実験をするときには、開眼で歩く前に(身体が補正を学習する前に)やると顕著な結果が出るはず。)
さて、そんなことを頭に入れて、以下の記事を見て欲しい。
(英語が苦手な方は、DeepLを使うといいですよ。)
この記事は、両下腿に義足を装着しているアスリートの「義足が長すぎる」ことで、健常の大会に出られなくなりオリンピックへの道が断たれたことを伝える記事だ。この形状の下腿義足は、地面を蹴る床反力を大きく得ることができるので(もちろん得られた床反力に耐えられるだけの生身の部分がきちんと鍛え上げられないことには使えないのだが)、俗な言い方をすれば「走るためだけに作られた脚を装着している」とも言える。走る際にバネとしての出力を担うアキレス腱と下腿三頭筋の部分を、走るためだけに特化した道具に付け替えているわけなので、もともと「歩くことも走ることもできる」足部よりも「走る際に有利である」と考えることもできなくはない。
これまでも、走行特化型の下腿義足で走ることは健常アスリートと公平に比較出来るものなのか、という議論はもちろんあったのだが、今回は「長さ」について注目された。写真を見る限り、「脚長いな」と感じる人も多いのではないだろうか。
人間の身体には平均的な「長さの分布」があり、「身長に比例して長くなることが多い骨」などもあるので、下腿がなくなってしまったとしてもある程度生来の(と言っては語弊があるかもしれないが)身長を推定することもできる。(**そのことについては、義足のエンジニアである遠藤謙さんのnoteに詳しく書かれていたので、以下をぜひご参照ください。)つまり、本来のあなたの身長よりも長い義足を取り付けたら、健常の大会には出られませんよ、という結論が一つ、歴史に記された、と言ってもいい。
(ただ、これ、義足の形状に伴って義足の「長さ」というものは変わるものだし、素材や硬さなど他にも様々な検討すべき係数があるわけで、「長ければ有利」かというとそういうわけでもない、ということも過去の研究でわかっているようだ。)
さて、健常アスリートと、義足のアスリート、どのような条件ならば競走することができる、のだろうか。(わたしには、このニュースが「健常者が感じた障害者が健常者を超えることへの恐れ」にしか感じられなかったのだが。)
義足に関わる様々なトピックは、義足を持たない身体の運動についても、様々な示唆を与えてくれる。こういうニュースでも読まない限り、健常な身体がある一定のルールに従って「長さ」を得ている、なんてことは考えもしないだろう。なんとなく「長くないか?」と写真を見て感じるということは、わたしたちの認知も、そのルールに支配されていることになる。
障害を抱えることになった人たちが、健常な人たちよりも「高性能な身体」を持つ、となったときに、健常と障害の言葉の意味さえ曖昧になる。障害、という言葉が、一気に古臭く感じはしないだろうか。今、わたしたちは新しい「常識」を書き記そうとする歴史の真っ只中にいる。
最近、バイオメカニクスを授業で教えるときには、なぜバイオメカニクスを学ぶのか?という質問をGoogleフォームで聞くようにしている。昨年・今年とアスレティックトレーナーを目指す学生の皆さんに聞いてみると、だいたい「必修だから」という答が返ってくるのだが(最初の時点ではバイオメカニクスが何か?も知らないのだから仕方ない)、バイオメカニクスって、自分の身体が重さも長さもあるのにどうして動くのか、動くときにはどういう力が必要なのか、その力をコントロールするためには身体のどのような機能が必要とされているのか、そういうことを学んで欲しいと思って教えている。
そしてその学びが、ひとりひとつ必ず持って生まれてくる身体と、その身体が集まって構成している社会とのインターフェイスになることを望んでいる。人間がどのくらいの速さで歩くのか、どのくらいの力で何を持ち上げるのか、そういうデータで街は作られているのだ(歩行者用信号の青信号時間は平均歩行速度から決定されているし、駅の階段の高さも自動改札機のタッチ速度も人間の身体機能とその平均値を考慮して作られている)。
「え?この街は高性能義足用の街なので、健常の足だと生活できませんよ。」
そんなセリフも、もうフィクションの世界の話ではなくなろうとしているな、と思う。