A4がフィットしないこの手と運動の深化の道筋について
少し前に体操競技のインターハイにチーム帯同する友人の大会前泊に同行する山形旅行に出かけた。体操競技とは全く関係のない旅行なのだけれど宿泊先で出場するチームに出くわしたりしたことで、話題の中には体操競技をテーマにしたものがいくつかあった。
男子体操競技は、床運動以外の種目では道具というか装置というかそういうものを使う。鞍馬、跳馬、平均台、吊り輪、鉄棒。厳密に言えばあの床も、ただの床ではないしなりを持つので道具かもしれないが、とにかく競技として身体の『インターフェイス』としての道具とのフィッティングが必要になる。
どの種目も、身体のサイズに合わせて道具の高さや長さを変えてはくれない。
そのことが、体操選手の身体の均一化を引き起こしている。
たとえば1メートルの棒と30センチの棒とがあったとして、同じ力をかけて回転させながら放り投げたとき(棒の長軸と垂直に交わる軸まわりに回転させながら放り投げたとき)、その棒が地面に落ちるまでに回転できる回数は違う。それに、回転のタイミングにもよるが、同じ高さまで落ちてきたときの地面までの物体末端の距離も違う。長い棒のほうが、地面に接触するのが早くなる可能性が大きい。
人間に当てはめても同じことで、そりゃ人間の身長は3倍になったりはしないが、体操競技において技の要になる回転という要素ひとつをとっても、身体の大きさが及ぼす結果への影響は大きい。技術云々の前に、いや実際にはある程度の技術向上のあとにチャンピオンゲームに躍り出るようなことになったらそこでは、身体の大きさが決定的な勝敗要因にもなり得るのだ。
多くのスポーツではスポーツ側の提示する人間に対してのインターフェイスが厳密に決められている。ボールの大きさが自由なサッカーはスポーツではなく遊び、だろう。
だからわたしたちは、スポーツをプレイすることを選んでいるようでいて、常にスポーツに身体のフィッティングを試されてもいる。
体操競技では、成績と身長がある一定のレベルを超えると、競技人生に強制的にピリオドを打たなければならないらしい。それ以上を目指すことは不可能だと、大きくなった身体に通牒されることになるのだ。
よく考えてみればこの社会は大体そういう仕組みになっている。既存のものを扱える身体であることを前提に、様々なものが組み立てられている。そこでパフォーマンスを発揮するのに自分の身体が不利か有利かは、まるで自己責任かのように問われているが本当にそうなのだろうか。
わたしは紙に文字と絵を描く仕事もしているが、わたしのその運動はA4の紙にはフィットしない。
紙の大きさ、テクスチャ、厚さ、白の明度による反射。ペンの滑り、太さ、長さ、紙との相性。何かに当てはめて無理矢理パフォーマンスを出すのではなく、自分に道具を当てはめてパフォーマンスを発揮する自由。
スポーツとはなんだろうか。運動にもう少し自由を。