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ブルアカ『カルバノグの兎』2章感想──「何でもしますから」
ネタバレあり(エデン条約1~4・最終編・カルバノグ1~2)
RABBIT小隊が変わっちまった憧れの先輩たちに戸惑いつつも、やっぱ違うだろ!とNOを突きつける展開はシンプルに熱い。一方のFOXもRABBITにかつての自分たちを見出して投降するというのも、ベタながら良かった。思えばこのゲームは学園RPGを謳いながら、こういう直球の先輩-後輩ものをやってこなかったから妙に新鮮だった。
定番の共闘展開も、しっかり格好良いカンナとか新たな掘り下げがあったキリノとか想像を超えて活躍したデカルトとか、見どころは多かった。デカルトは相変わらず穀潰しのままだったし、赤冬のデモもたいがいめちゃくちゃだからこいつらに民意の代表者ヅラさせて良いのかとは思うものの……
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「責任」について。
カルバノグ2章においては相変わらず「責任」の話が展開されているが、ここでの議論はこれまでの話から一歩進んだ問題意識となっている。ここでは、先生とFOX・カヤが対比されている。FOXはRABBITに対して、カヤは他の生徒たちに対して「責任は取るけど意思決定の自由は奪う」ということをやる。責任という面倒ごとを引き受ける代価として相手の権利や自由を簒奪するのは、ペテン師・ヤクザひいては独裁国家の常套手段だ。それは先生のスタンスとは正反対だ。
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先生のやっていることは代価をいっさい求めない自己犠牲なので、責任を取る代価として生徒から何かを徴収したりはしない。その最たるものが最終編でのシロコ*テラー救出だった。一方、不知火カヤはそういう考え方をまったく理解することができないので、先生に対して「私が責任を負ってあげるから権限を移譲しろ」と要求するし、「なんでもするから許して」と懇願する。責任を対価関係でしか理解できないところにカヤの限界があり、おそらく先生はその点に怒っている。
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逆に最終編での活躍を経たカンナが未だに自責を抱えて生きているのはさすが。カンナは今回もずっと格好良かったなあ。
カンナは責任について「これは私が信念を貫いた代償ですので。処罰としては妥当なのですよ。むしろ最初の覚悟と比べたら軽すぎるほど……」と言っている。ここは先生のセリフの「「責任を負う」というのは、自分の行動に後悔がないように──心の荷を解く、楽しいことじゃないとね」というセリフに繋がっているように読める。
先生のセリフは抽象的で意味が取りづらいが、責任を負うというのは自己犠牲であるだけでなく、自分の信念を貫くという、より大きな喜びに向けたポジティブな行動だというスタンスなのだろう。この部分も「責任」概念の再定義に関わる重要な議論をしれ〜っとやっている。
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RABBITについて。
RABBITの話は1章でおおむね完結していたが、ミヤコと彼女を信頼する三人で絶妙なチームワークを発揮できるようになったのは成長を感じた。FOXもRABBITもリーダーを信じてついていくというところでは同じでかなり似た精神性なんだけど、RABBITはみんな自分の信念を曲げないことを選んだ。だから「カルバノグの兎」作戦の場面は熱い。
FOXについて。
他人を無自覚に見下しているカヤと違って、FOX小隊は性格的に歪んでいるわけではない。でも、どういうわけか対価関係の論理に巻き取られてしまっていて、SRT復活のためには己の正義を犠牲にしなければならないと思いこんでいる。なぜ思い込んでいるのかは、しょうじき現時点(2章)ではよくわからない。もし3章があるのならそこで掘り下げがあるのかもしれない。
1章でカンナが己の正義を犠牲にしてしまったのはより大きな正義のためだったわけだけど、2章のFOXにとってSRT復活が正義を犠牲にしなければならないほどのことだったのかはピンとこない。シャーレ襲撃事件あたりの過去が明らかになれば腑に落ちそうなので、そのへんは今後に期待したい。
廃校と復活が絡んでいるという点でSRTの話はかなりアリウスの再話だというのは多くのひとが感じたと思う。ただ、いわば被差別民だったアリウスと、エリートでありながら失墜したSRTは対照的だし、ゲマトリアの介入を受けたアリウスと、自発的に(どこまで自発的なのかはよくわからないけど…)政治紛争に乗り込んでいったFOXとはだいぶ印象が違う。ブルアカは、似たような構図の話を微妙に変えて繰り返す傾向があるけど、このへんの問題意識はまだ自分の中で消化できていないので、個人的な宿題にしようと思う。
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以下考察もどきの余談。
カヤが語る〝超人〟はおそらくプラトンの哲人政治の話だけど、現時点でいちばんその〝超人〟に近いのは失踪した連邦生徒会長だろう。でも連邦生徒会長もけっきょく破滅を回避できなくて先生に解決を託すかたちになったのだから、真の意味での超人ではないのかもしれない。
仮に超人によって統治される国があったとすれば、それは間違いなく楽園(エデン)ということになるだろうけど、楽園の存在は証明できないので、超人による国の実現可能性も証明不能なのかもしれない。
先生が超人かというとおそらく違ってて、そりゃたしかにある意味で超人的ではあるけど、先生は道化であり聖人であり変態であり……という立場を自在に変化させることができるイレギュラーだからこそ上手くいっているのであって、優れたリーダーによる啓蒙的統治!という理想とはだいぶ違うところにいるんだよな。そもそも哲人政治という思想自体が、いちばん偉い優れた超人にすべての責任を押し付けるようなところがあって、やっぱり哲人政治なんてほんとうは実現不可能だし実現されるべきでもないと思える。連邦生徒会長がどうやらすごい人格者だったっぽいのに破局を回避できなかったのも、やはりその地位とか立場ゆえに自由に動けなかったからなんじゃないかという気がする……