デザイナーへの道標
グラフィックデザイナーを名乗って43年。細々とですが今もデザインの仕事をさせていただいています。この歳までデザイナーという職業をできていること、本当にうれしく思います。
今は昔ほど忙しく働いているわけではなく、この備忘録を書く時間もたっぷりあるので、デザイナーになるまでの経緯を思い出したり、懐かしんだりしたいと思います。
石ノ森章太郎
1963年に小学校に入学した頃、手塚治虫の「鉄腕アトム」と横山光輝の「鉄人28号」が揃ってテレビアニメで放送され、世の中の子どもたちは夢中になって観ていました。その時の学習ノートは「鉄腕アトム」と「鉄人28号」の落書きでいっぱいになっており、同級生からその落書きを褒められてけっこう有頂天になっていたことを思い出します。
その後、石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)の「サイボーグ009」のテレビアニメも始まって、これまたどっぷりハマりました。その頃から漫画に興味を持ち出し、「石森章太郎のマンガ家入門」という本も買って漫画の描き方を勉強したりして、漫画家になりたいと漠然とですが想うようになっていきました。
もちろん少年漫画雑誌も隆盛な時代で、週刊では「少年サンデー」、「少年マガジン」、「少年キング」が3大週刊漫画雑誌で、サンデー派とマガジン派で別れていてキングは少しマイナーな感じでした。私はサンデー派でした。今大人気の「少年ジャンプ」は当時は発刊したところで人気はそれほどでもなく、永井豪の「ハレンチ学園」と本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」だけはよく覚えています。
月刊では「少年画報」や「冒険王」などがあり、結構どの雑誌も読んでいましたが、当然全部は買ってもらえなかったように思いますので、たぶん友達同士で回し読みをしていたのでしょう。デザイナーへの一歩目は、きっとこの頃なんだと思います。
榊莫山
小学生のいつ頃に通っていたの覚えていませんが、書道と絵画を教えている塾が近くにありしばらく通っていました。その塾の先生が書家の「榊莫山」でした。塾での先生の記憶はあまり残っていないのですが、私が通う小学校で図画工作の教師もされており、小学校での先生の記憶は鮮明に覚えています。声が大きくて背が高く、また独特な髪型をされており、子どもだった私にとってはとても怖くて近寄り難い存在でした。
小学6年生だったある日、図画工作の授業で近くの公園で写生を行うことになり、みんなが真剣に写生している中、先生は生徒一人一人に声をかけて指導をされていました。私のところにも来られ、何を言われるのかドキドキしていたのですが、すごく褒められたことを昨日のことのようによく覚えています。ゲンキンなものでその褒められたことで、絵を描くことに自信を持てましたし、一気に先生を好きになっていく自分がいました。
大学を卒業しグラフィックデザイナーになって3年ほど経った頃、東京で「榊莫山の個展」が催されているのを知り伺ったところ、たまたま先生が居られ、ご挨拶することができました。小学生の頃、先生の教え子だったという話をさせていただくと、これがなんと覚えてくださっていたので本当に感激いたしました。
永島慎二
中学生になっても漫画家への想いは相変わらずで、いろんな漫画を読みあさっていました。その頃には少年漫画雑誌はある程度卒業して、「ガロ」や「COM」といったような青年漫画雑誌を購読するようになっていました。「ガロ」は漫画家の白土三平が中心となり創刊された月刊誌で、「COM」は「ガロ」に触発された手塚治虫が創刊させた月刊誌です。
「ガロ」のメインは白土三平の「カムイ外伝」、水木しげる、つげ義春、滝田ゆう、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表されていました。「COM」のメインは手塚治虫の「火の鳥」、石森章太郎、永島慎二、松本零士などの作品が掲載されていました。ライバル雑誌だったこの両方の雑誌に永島慎二の作品が載っているのですが、私はこの永島慎二の作品に傾倒していきます。「若者たち」(週刊漫画アクション)は印象深く、後に「黄色い涙」という題名でテレビドラマ(1974年)にも映画(2007年)にもなりました。私はテレビドラマの方しか観ておりません。
作風は独特で、手塚治虫漫画の雰囲気も感じつつ、デザインチックでスタイリッシュなカッコいい漫画でした。今思えばきっと漫画のストーリーよりこの作風に惚れたのだと思います。
伊坂芳太郎
高校生の頃、アメリカ・アイビーファッションの「VAN」と、ヨーロッパのコンチネンタルファッションの「JUN」が2大ファッションブランドで、お互いライバル関係にありました。自分はというと「JUN」派に近い「EDWARD'S(エドワーズ)」をいっちょうまえに指向していました。後に知ったのですが、イタリアン・ファッションの先駆けになったブランドだったそうです。
この「EDWARD'S(エドワーズ)」との出会いが、「自分の人生」を決めるきっかけになったと言っても過言ではありません。「EDWARD'S(エドワーズ)」の広告やショッパーバックに描かれたイラストに衝撃を受けたのです。イラストレーターの名前は「伊坂芳太郎」、小説家の「伊坂幸太郎」ではありません。私はこの「伊坂芳太郎」に感化され、高校3年でイラストレーターになる決意をしたのです。
シーモア・クワスト
イラストレーターになるため美術系の大学を受験することを決め、高校3年から芸大・美大受験予備校の「中の島美術学院」の夜間に通い始めます。そこには同じ目標を持つ多くの同年代の仲間がいて、日々勉強に励んでいました。志望する大学は「京都市立芸術大学」で、デザイン科の募集人員がたぶん30人ぐらいでかなりの狭き門でした。結果、現役での受験は惨敗に終わります。
親に一年だけ浪人することを許してもらい、全日で「中の島美術学院」に通い始めます。そんな時、勉強のためにと購読していたデザイン雑誌「アイデア」があります。新刊で買ったこともありましたが、ほとんどは古本を買っていたと思います。その中に「アイデア別冊 プッシュピン・スタジオ」を見つけ、「伊坂芳太郎」に続き2度目の衝撃を受けます。そのイラストレーターの名前は「シーモア・クワスト」。当時のデザインやイラストレーションの世界的な流れに多大な影響を与えた人物です。イラストレーターになる夢を再確認することになりました。
目指す夢や目標は・・・
翌年の受験は、「京都市立芸術大学」を含めて4つの大学を受けることにしました。結果は2勝2敗、二度目のチャレンジである「京都市立芸術大学」は前年と同じく失敗に終わり、結局通うことになったのは「多摩美術大学」になりました。意気揚々と入学しましたが、入学してすぐにイラストレーターになる夢はあきらめ、目標をグラフィックデザイナーへと変更することになりました。「井の中の蛙大海を知らず」身をもって知ることになったのです。
卒業後、グラフィックデザイナーになってからも後悔はまったく無く、大した才能もないのに、43年もデザイナーとして仕事を続けられたことに満足しています。漫画家からイラストレーター、そしてグラフィックデザイナーへと目指すものは変わっていきましたが、目指す夢や目標が変わるのは決して悪いことだと思いません。時に挫折感も感じますが、それは挫折ではなくきっと次の夢へのステップなんだと思うことにしています。
私は結果としてグラフィックデザイナーという天職につけたのですが、子どもから若者だった頃、その時々で「夢への道標」になっていただいた、石ノ森章太郎、榊莫山、永島慎二、伊坂芳太郎、シーモア・クワスト、今も尊敬していますし感謝しています。そして本当に今でも大好きです。
最後に、ここに載せた個人名は、私にとっては全員「先生」と呼ばなきゃいけない人達ばかりなのですが、文章中はあえて敬称を省かせていただきました。心からお詫び申し上げます。
時代ごとに思い出すことが多くあって、思ったより長くなってしまいました。最後まで読まれた方、ダラダラとした文章で本当に申し訳ありませんでした。
(てべぱ)