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慰安婦 戦記1000冊の証言10 慰安所争奪
日本内地での慰安所事情だが、宮崎では、陸海軍の間でみっともない争いも起きた。戦争末期、昭和20年に入ってのこと。第762海軍航空隊主計長の証言。
宮崎基地は出雲の大社に転進することになった。
「宮崎の海軍部隊専用の慰安所は、士官と下士官兵用に区別されていて、周辺の陸軍部隊は絶対に立ち寄れないことになっていたので、以前から陸軍の反感を買っていたのであろう。
士官用5軒、下士官兵用十数軒の料飲店のうち、士官用の方に蚊帳を貸与した処、陸軍の方で、天皇陛下の需品を花柳界に貸与するとは怪しからぬ奴、と全部引き上げて行ったので、
特攻隊員が安眠休息するのに必要だから貸すのだと、即刻取り返して、また貸与したため、対立が表面化してきた矢先、出雲大社基地に移動となり、
慰安所は全部陸軍に明け渡してくれるかと思いの外、士官の方2軒は部隊と共に出雲に移動し、その他は全部これを機に廃業すると申し出たので、陸軍の追求がさらに激化した。
基地移動に女を連れて行くことは不当なり、司令部に報告するぞと申し入れてきたので、私も鹿屋にあった第五航空艦隊司令部に持ち込んだところ、
艦隊主計長は私の中学の先輩で明快な御仁であったが『ヤレ!ヤレ!五航艦司令部が承知したと言え』と激励してくれたので、地元警察の多少の反対も押し切って、前記2軒を同行させることにした。
出雲今市で料亭2軒を解放してもらい、改修の上、これに入居させ、8月11日開店の披露宴を市関係者と士官室全員招待の上開催したが、愈々明日から開業という8月15日終戦となったことは心残りの人もいたことだろう」(1)
広島・長崎の原爆投下も関心事じゃなかったようだ。玉音放送は聞いたのか。
特攻隊と酒と女
鹿児島でも、20年、知覧の場合。
特攻隊員の外泊する旅館の近くに「わらぶき屋根のいなか家があった。そこへ、ひとかたまりになって、飛行服の軍人がはいって行く」
「今しがた、(旅館の)この部屋を出て行った特攻隊の隊長と隊員である。その家が慰安所であった」
「特攻隊になると、誰でも急に、酒と女に近づいた。周囲のものも、できるだけ、そうした機会を与えるように努めた」(2)。
作家の池波正太郎も「特攻隊体験」を持っている。昭和19年2月、横須賀海兵団入隊し、20年5月、山陰の美保航空基地に移る。
「このころの生活を、のちに[厨房にて]という小説にしたが、それによると」
「『明日の知れないいのちには軍律も理性もなくなり、特攻隊員は狂暴になった。たがいに烈しく口論し撲り合い、港町の娼婦を奪い合って拳銃を撃ち合ったり、
そればかりか農民たちにまで迷惑がかかるようなことも起きはじめ、日が暮れると農家では堅く戸を閉ざし、若い娘たちは外を歩かなくなった。
風紀を取締る巡邏隊が強化され、私もえらばれて他の兵隊たちと一緒に、司令部の近くにあるA村の巡邏隊本部へ移った』と、ある」
「正規の軍装に半長靴。拳銃をさげ、棍棒をにぎって巡回するわれわれは、死と生の間をさまよいつつ酒と女におぼれ、乱暴・暴行に走る出撃前の軍人たちを相手に、ま、大立ちまわりもかなりあったのである」(3)
鹿児島・鹿屋ではこんな話もある。内務官僚で、昭和11年4月から翌12年7月まで、鹿児島県警察部長を務めた坂信弥の回顧である。
「鹿屋という町に海軍航空隊があった」「海軍の中でここの少年航空兵がいちばん早熟だったらしい」「ところが適当な遊び場所がないものだから、町の娘たちに被害が及ぶ。
娘の親たちは怒って航空隊に苦情を持ちこむ。隊長の石井静大佐もこれには弱って私のところへやってきた。
こういうことを頼むのはあなたで三代目の警察部長だが、なんとか遊び場所をつくってくれないだろうか』。要するに“赤線”をつくってくれというのだ。
当時、内務省は人身売買をうるさく取り締まっていたので、新しく遊廓を設置するなんてとてもむずかしいことだった。私はこの申し出には弱ったが」「一計を案じた。それは郊外の町有地約5万平方メートルにダンスホールをつくる計画だ」
「ダンサーは客である少年航空兵と意気投合の結果、別室にご案内する」「“恋愛関係の成立”という形式をとることにした。『特殊飲食店』というのはこの時初めてつけた名前である」(4)。
特攻隊員の「三日女房」
どこの特攻隊基地のことなのか不明だが、放送作家の三木鶏郎は東部軍教育隊の主計中尉時代、昭和20年5月ごろか、とある酒場で、こんな会話を交わした。
「ある晩、私は女と酒を飲んでいた」「おそらく津田沼か船橋の一杯飲み屋で、相手はそこにいた女かもしれない。『ねぇあんた、中尉殿、三日女房ってぇの知ってるかい?』と女は酔っていた。『知らないね』と私」
「『あたしゃ特攻隊の基地から流れて来たんだけどさぁ、あの人たちは若くて童貞なんだよ、ほとんどがさ。それが発つ前にさ、必ず女を抱いていくのさ、“お筆下ろし”してくのさ、なかには三々九度の杯を挙げてく人もいる。
結婚して3日目にはあの夜行きということなんだよ。男もかわいそうだが、女もかわいそうだよ。ある男は、一晩中あたしにしがみついて泣いていた。
そして最後に言うことがくやしいじゃないの、“お母さーん”だって。あたしゃその三日女房なんだよ』」(5)。
《引用資料》1,市川浩之助他「二年現役第五期海軍主計課士官戦記」私家版・1970年。2、高木俊朗「戦記作家高木俊朗の遺言2」文芸春秋企画出版部・2006年。3、池波正太郎「青春忘れもの」新潮文庫・2011年。4、日本経済新聞社「私の履歴書・第18集」日本経済新聞社・1963年。5、三木鶏郎「三木鶏郎回想録①」平凡社・1994年。
(2021年12月16日まとめ)