法廷傍聴控え 一橋大学教授轢死事件1
昔、こんな事件がありました。
2001年2月26日、東京都八王子市にある東京地裁八王子支部の3階、同支部で一番広い305号法廷で、満員の傍聴者を集めて、傷害致死事件の裁判が始まった。傍聴席の最前列、検察官席側には、被害者の遺族が座り、弁護人席側には被告の関係者が座る。かれらは、判決の日まで、欠かさず顔を見せた。
被告の名前は、山本正一(44歳)。東京都立川市に住んでいて、個人で運送業を営んでいる。中肉中背で、メガネをかけ、濃い黄土色の上着。下はネズミ色のズボン。
起訴状を検察官が読む。2000年12月4日午後8時25分ごろ、東京都国分寺市富士本1丁目路上で、一橋大学の関直道教授(46歳)の乗った自転車に対して、自分の運転する自動車を故意にぶつけ、関を轢いて、同日午後9時51分、死亡させたというものである。
これに対し、山本はメモを読み上げる。「私は車を衝突させようとしたことはありません。気がついたら、関さんが倒れていました。不注意で事故を起こし、遺族の皆様におわびいたします」などと、遺族に謝罪はしたものの傷害致死を否認した。
裁判長が山本に尋ねる。
──気がついたら倒れていたというが、どういう不注意ですか。
「私がパニックになっていまして、自転車を発見していたら、このようなことにはなりませんでした」
──パニックとは何をいいたいんですか。どういう不注意があったのですか。
「プロのドライバーとしての冷静さを失ったことです」
──車を運転していて、前を見ていなかったのですか。
「はい」
山本に続いて、弁護人が、「傷害致死で起訴されているが、衝突させようと企てたことはない。不注意の業務上過失致死事件(いわゆる交通事故)」であり、不注意とは、「前方不注意につきる」と述べた。
さらに、検察官の冒頭陳述が行われる。その要旨は次のとおり。
──山本は、都立工業高校を中退し、部品会社、ボーリング場などで働く。99年7月ごろ、軽トラックを購入し、赤帽の運送業をはじめる。独身。
00年12月4日、仕事先の神奈川県伊勢原市内から立川市内の自宅に帰宅途中の8時20分ごろ、東京都国立市内のJR国立駅付近で、自転車に乗った男性から自動車の運転を注意されて立腹し、一方通行を逆走中、自転車を見つけ、その男と思い、激昂し、衝突させようと、自動車の右前部を自転車後部に当てて転倒させ、関を轢いて、多発肋骨骨折、肺挫傷を与え、死亡させた──
検察官の証拠請求に対し、弁護人は一部同意した。山本の自白調書に対しては、弁護人は、「警察に対する恐怖感に基づく調書で、捜査官に迎合したものであり、任意性を争う」と一部不同意とした。
赤帽の軽トラックを関教授に故意にぶつけて死亡させた傷害致死なのか、それとも、単なる前方不注意による業務上過失致死なのか。傍聴席で、被害者遺族、山本被告の家族らが見守る中、およそ1年間審理が進められた。
第4回公判(01年5月23日)、第5回公判(6月7日)、第7回公判(8月22日)、第9回公判(10月17日)で行われた被告人質問を中心に、審理のもようを報告しよう。
まず、弁護人から被告人質問が詳細に行われた。
──あなたは、警察や検察庁で事故の真相をありのままに話せましたか。
「まったく話せません」
山本ははっきりとした口調で答える。かなり大きな声だ。
事件当時、山本は、神奈川県の厚木、相模原方面で、携帯電話の運送の仕事を行っていた。12月4日、この日の走行距離は約280キロで、かなり疲れていた。前日も、4、5時間しか睡眠時間がなかった。7時半ごろ、仕事を終え、自宅に向かう。
帰宅路は、相模原から多摩市に出て、JR南武線の谷保駅前を抜けて、国立駅南口交番の前を通り、JRのガートをくぐって、北口に出る。さらに、バス通りを横切り、住宅街に入り、突き当たりを右折し、急な坂を上り、右手にある幼稚園に沿って登り切ったところが四つ角になっている。ここを直進して、国分寺市内を抜け、自宅へ向かう。
この夜も、幼稚園のところの四つ角に来た。四つ角の右手前は幼稚園、左手前は民家、反対側の右手には、2階建てのアパート・メゾンフジモト、左手には民家がある。左右に通る道路は、幅が約3・5メートル、左手から右手への一方通行である。
山本の帰り道は、メゾンフジモトと民家の間の道路を直進するのだが、メゾンフジモトの前に宅急便の車が止まっていた。このままでは通れない。そこで、山本は宅急便の車の後ろに車を止め、宅急便が移動するのを待った。
その後、車のエンジンをかけて発進しようとしたときであった。だれかが運転席のドアをたたく。怒ったような顔で、何かしゃべっていた。さらに、運転席のドアの下のほうもバンバンたたきはじめた。
──その原因は。
「見当がつきませんでした」
山本は、怖かったのでドアをロックし、車を走らせながら、携帯電話で110番し、「窓ガラスをたたいている」などと伝えた。
──その相手は自転車に乗っていましたか。
「わかりません」
──そのときのあなたの気持ちは。
「びっくりしました。ちょっと変な状態で、いわゆる薬物中毒者かなと思いました」
──どういう気持ちから、110番をしたのですか。
「あまりの異常で、普通の人じゃない。自分で解決できないと思いましたので」
とにかく、その道を直進し、200メートルほど進むと、また四つ角に来た。ここで一時停止する。
──その四つ角で何がありましたか。
「前に走ろうとしたら、運転席の窓ガラスをたたかれました」
──相手の姿を見ましたか。
「初めて自転車に乗っているとわかりました」
──それで、どうしましたか。
「パッと頭の中に思い浮かんだんです。右折すると大通り(バス通り)に出る。人が大勢いると」
そこで、右手から左手への一方通行だったが、右折する。40メートルほどで、また、四つ角になっていた。やはり、一時停止する。すると、今度も運転席の窓ガラスを激しくたたかれた。
──どうしてたたくのかと聞きましたか。
「激しくたたいたから、窓ガラスを開けるのも怖かったんです」
──あなたは、3回、たたかれたとき、たたいている人に、車をぶつけてやろうという気持ちは。
「そんなことはありません。変な人がいるという恐怖心だけです。早く警察に来てほしいと思っていました」
3回もたたかれて気持ちが動転し、早く逃げよう、右へ行けばバス通りに行けるとばかり思って、その四つ角を右折する。住宅街の道路を40キロぐらいのスピードで200メートルほど走るとT字路にぶつかった。
この間、窓ガラスをたたいた男の自転車は全然見かけなかった。110番はつながっていた。一時、山本のほうから切ったが、警察のほうからかかってきた。
──そのとき、どういう話をしましたか。
「『いま、あなたのいるところは』『国立です』とだけいいました。パニックでした」
──国立と答えた後、国立のどこかと。
「いろいろ聞かれていると思いますが、パニックで忘れました」
さて、T字路に来た。正面には民家があり、直進の道はない。右へ40メートルほど行けば、メゾンフジモトのある四つ角だ。左折するとバス通り。山本は、右折するとバス通りだと思い込んでいたので、右折した。前述のように、その道路は一方通行で、山本は逆走することになったが、その意識はまったくなく、対向車とすれ違った記憶もない。
──右折して、急発進はしましたか。
「いったんスピードを落とし、逃げるために急発進しました」
──何キロですか。
「検察が主張する(約30キロ)より速く、40キロ出ていました」
──どうしてですか。
「一刻も早く逃げるためです」
すると、前方約5・5メートル先に自転車に乗っている関を見つけた。しかし、「警察との携帯に気を取られて」いた山本は、その時点まで、関に気づかなかった。携帯電話は走りながらかけられるように、マイクは運転席の右側の上にあり、スピーカーは助手席側の左端にある。110番の警察の声は左から聞こえるので、左のほうに気が向いていた。
(2021年11月7日まとめ・人名は仮名)
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