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法廷傍聴控え 覚せい剤密売イラン人グループ事件3

 紅茶パーティーの最中、ラスールが顔をしかめた。「苦い味で頭がふらふらした」と、ラスールは後に公判で供述した。それを、ハミッドとアーマドが笑って見ている。「脱走に気がつけば、ラスールが看守に知らせると思った」(ボゾルギ)ので、睡眠薬を入れたのである。睡眠薬はメマンドらが拘置所の医師から処方されたものを使った。
 午後9時、消灯の時間だ。紅茶パーティーを終えて、8人は布団に入った。睡眠薬を飲まされたラスールは、そのままぐっすりと寝込む。あとの7人は寝床で決行の時を待つ。
 刑務官の巡回は15分ごとだ。ボゾルギは巡回の回数を数える。「1回、2回、3回、……7回、8回、9回」。看守はドアについている視察孔から房内の様子をうかがう。11回を数えると、時間は、午後11時45分を回ったころ。「もうすぐ12時だ。いまから逃げるぞ」とボゾルギが声をかける。
 ハミッドが窓に駆け寄り、窓を開け、下の部分をわずかに切り残した鉄格子を手でひきちぎる。真っ先に頭から抜け出す。ところが、地面までは1メートル以上もあり、ハミッドは頭をうって危ないところだった。二番手のラゾギからは足から抜け出す。
 アーマド、メマンドと続いたところで、巡回を警戒していたボゾルギが、ストップの合図。巡回が去ってから、シャロッキー、バンザーデ。最後にボゾルギが出る。寝ているように見せかけるため、毛布を丸め、その上に掛け布団をかけておいた。
 窓を抜け出て、右へ十数メートル行くと、左には内塀を背にして雑居房収容者のための運動場があり、フェンスで囲まれている。少し離れた右手には平屋の保護房棟がある。運動場と保護房棟の間は空き地になっているが、手前に金網のフェンスがある。かれらは、このフェンスを乗り越えた。
 空き地の先は、高さ約5メートルの内塀だ。
 ところが、内塀の右手をみると、保護房棟と内塀の間は渡り廊下で壁になっているが、その渡り廊下の壁と内塀の間に、わずかに隙間がある。そこをすり抜けて、北側に約40メートル行き、目指す資材置き場に出る。資材置き場といっても、プレハブ小屋を新設するため、さまざまな資材を地面に直接置いておいたものだ。目をつけていた梯子はあった。
 しかし、「梯子の上に鉄のようなものがのっていた。それをどけようとすると、大きな音がするかもしれない」(シャロッキー)。この梯子の利用を断念する。
 そこで、そこにあった4、5メートルの鉄パイプ2本と鉄筋、角材、持ってきたシーツを使って梯子づくりに取りかかる。シャロッキーはイランでソファをつくる仕事をしていた。慣れているだろうと、梯子づくりのリーダーに指名される。梯子が完成したのは、午前2時ごろだったという。
 資材置き場の東側は3階と4階の舎房棟、南側は庁舎もあるし、内塀に囲まれている。西側と北側も内塀だ。西側を乗り越えても、元の北舎に戻ってしまう。行く先は北側の内塀だけ。
「内塀に梯子をたてかけ、梯子の上部につけたロープを反対側にたらし、1人ずつおりた」(シャロッキー)。最後に梯子を引き上げ、アーマド、メマンド、ラゾギが運ぶ。
 内塀を越えて見回すと、長い外塀がある。手分けして、脱走経路を調べることになった。外塀にそって身を潜め、どこから逃げるべきか、長時間周辺を探った。結局、越えた内塀の反対側は、「とても暗く、木がたくさんあり、みんなそちらのほうに行った。後ろ側には壁があり、建物もあって明るかった」(シャロッキー)。
 かれらが向かったところは、広さ約900平方メートルの刑場区画である。刑場の建物が木の生い茂る真ん中にある。処刑はほぼ半年に1回のペースで執行され、1カ月半ほど前の95年12月21日、群馬県内で女性2人を殺した死刑囚の絞首刑があったばかりだ。
 刑場だとはまったく知らず、手前にある2メートルぐらいの仕切り塀を乗り越え、外塀にたどりつく。
「外塀についたら、梯子が少しこわれていた」(シャロッキー)。修理のリーダーは、やはり、シャロッキーだ。外塀は内塀よりも少し高い。修理だけでなく、鉄パイブに角材を継ぎ足して、梯子を長くした。
 もう一つ、“防犯線”対策として、梯子の一番上の踏み段に、短い角材を直角に取りつけ、“防犯線”に梯子が触れないように細工した。
 最後の関門である。次々と梯子をのぼり、ロープを使って壁を滑りおりた。雑居房から直線距離で約200メートルを3時間以上かけて進み、外塀を乗り越えたが、そのとき、“防犯線”が切れたのである。

 午前3時22分、東京拘置所庁舎内の監視セクションにある“防犯線”警報装置のブザーが鳴った。ただちに、担当者が切断個所に向かう。3時27分、外塀に立てかけてあった梯子を発見した。
 後に、国会で脱走事件が取り上げられたとき、法務省の矯正局長は、「まさか逃げられたんじゃないだろう」と、脱走については考えも及ばなかったと答弁した。
 梯子が内側に立てかけられていたが、「外部からの侵入といいますか、あそこは公安関係の被告人、あるいは死刑確定者も含めまして、かなりたくさん預かっているということで、これはいたずらも含めまして、外部から奪還するぞという情報も相当頻々と寄せられております」ので、外部からの侵入を想定した。死刑確定囚では、爆弾テロを引き起こした東アジア反日武装戦線の大道寺、益永、連合赤軍の坂口、永田らが収容されていた。
 そのため、まず、内部点検を行った。しかし、外部からの侵入者は見当たらず、午前4時5分、7人の脱走が確認された。警察に脱走を通報したのは、4時10分。警報が鳴ってから48分経過していた。

 この間、7人は800メートル離れたJR綾瀬駅方面に必死で逃げた。その後、三つのグループにわかれる。
 シャロッキーはつきあっていた日本人女性に会うため、電車に乗り、千葉・行徳方面に向かった。行徳駅から日本人女性の家に電話すると、その女性と母親がやってきた。「どうして、こんなばかなことをしたのか。自首しなさい」といわれたが、食料などを買ってくれ、別に1万円を渡される。その後、上野公園に行き、イラン人の友人に会い、泊めてもらう。
 翌日、その友人に連れられて名古屋に向かう。名古屋でもイラン人に匿われ、各地を転々とする。イランの母親に電話して事情を話すと、泣きだしたという。
 アーマド、メマンド、バンザーデの3人は綾瀬駅南口近くでタクシーに乗り、東京・東尾久に住んでいる知人のイラン人宅を目指した。そのイラン人から1万円を受け取ったバンザーデは、以後、単独で逃走する。
 埼玉・草加のイラン人のアパートに数日間匿われ、名古屋、埼玉では自動車の中で寝泊まりする。生活費はパキスタン人の友人から援助してもらった。「手配の顔写真がいたるところに張られているのを見て、すごく怖かった。夜はあまり眠れなかった」。
 一方、メマンドとアーマドは、東尾久からメマンドのフィリピン人の内妻が住んでいる家にいき、携帯電話と50万円を受け取る。千葉や神奈川などで匿ってくれそうな知人を必死に探し潜伏し、5月ごろからは、山梨の知人方に移る。「共犯者が次々と捕まったことは、新聞やテレビで知った。結局、自分も捕まるだろうと思った」(メマンド)。その後、2人は別行動をとる。
 ボゾルギ、ラゾギは、「たくさんの友だちがいる新宿へ逃げよう。そこで、知り合いを見つけて匿ってもらおう」と、綾瀬駅北口付近からタクシーに乗り、新宿・歌舞伎町のディスコに行く。午前4時40分ごろだった。ここは、イラン人のたまり場だ。少し遅れて、ハミッドもタクシーで乗りつけて、合流する。
 ラゾギがディスコで見つけた知り合いに、タクシー代金を借りる。友人に連結が取れ、ハッサンが迎えにくる。
 ハッサンは、90年11月、正規のイラン政府発行の旅券で初来日したが、窃盗未遂で逮捕、強制送還されたのを手はじめに、日本に3回入国し、3回とも強制送還された。イタリアの偽造旅券で入国した前回は、95年5月、入管法違反で懲役2年執行猶予2年の判決を受けたが、その1カ月半後には、本人の説明によると、「入国ゲートで係官のすきを狙って」、4回目の入国に成功していた。
 ハッサンは3人を連れて、ラゾギの友人の住む千葉・船橋に向かう。そこは、「東京よりも監視の目が薄い」と思われた。代々木駅までタクシー、代々木駅から船橋まで電車。船橋からタクシーで友人のアパートへ行く。アパートの2DKの部屋は、友人と別のイラン人が住んでいた。この友人は、ハミッドとボゾルギとは面識がなく、「すぐ、2人をどこかに連れていけ」という。
 そこで、再び、ハッサンがハミッドとボゾルギを連れ、13日午前0時30分ごろ、アパートを出る。東京・中野のマンションで外国人専門の理髪業をしているコロンビア人男性の家に向かう。そこで、ハミッドとボゾルギは黒い髪を金髪に染めてもらい、青いコンタクトレンズも入れて、目の色も変えた。その後、2人はハッサンの紹介で、埼玉・草加のイラン人の住むマンションに匿われた。

(2021年10月30日まとめ・人名は仮名)



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