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慰安婦 戦記1000冊の証言31 女の悲鳴

「私は恥かしながら慰安婦案の創設者である」と告白した岡村寧次大将は、「現在の各兵団は、殆どみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様」なのに、「慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」と嘆いた。(1)

 もちろん、中国での日本軍の蛮行を見分しての嘆きである。
 そこで、中国の状況の一端を見てみよう。
 昭和12年10月、上海の第10軍法務部長に着任した軍法務官の証言。

 昭和12年11月15日、「夜9時頃憲兵特務曹長打合の為来部す。所謂陵辱事件に付」「陵辱事件とは(上海の)金山附近の民家に兵3名が至りたる処、支那の男女2人居合わせたるを見て、女をして腰以下を半裸体と為さしめたる上、2人にて相交接すべしと強迫強要したる事実也と」
「23日」「戦場に於ける特別心理なるか、至る所強姦を恣にし、掠奪を敢てし、放火を悪事と認めず、実に皇軍として恥ずべきこと言語に絶す」「支那人は我々日本人を以て猛獣呼ばはりを為し、日本兵を以て獣兵と唱えて戦慄すると聞く」
「25日」「昨夜3時半、憲兵大尉、深夜にも拘らず重大事件なりとて連絡に来る。同事件は第六師団の兵5名の内1名伍長が、3里程田舎の農村に至り、10幾才より26才迄位の婦女を拉致し、或る他の相当大なる空家に連れ込み、強姦を恣にして且つ拉致するに当り、55才位の女が逃げんとしたるを射殺し、尚女1名に対し大腿部に銃創を負わしめ、その行為、不逞極まり不軍紀も茲に至りて言語に絶す」(2)

 このような「不逞」「不軍紀」の日本軍が、昭和12年12月、南京に突入する。宇都宮第114師団重機関銃部隊の一等兵の証言。
「女が一番の被害者だったな。年寄りから何から、全部やっちまった。下関から20人くらい受け持たせてね。
 倉庫のまわりなど、日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
 赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしをはずして順番を待つんだ。
 いつか、女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ」
「いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よく“なめ殺す”といったもんです」
「強姦をやらない兵隊なんかいなかった。そして、たいていやったあとで殺しちまう。パッと放すとターッと駆けていく。そいつを後ろからパーンと撃つ。
 憲兵にわかると軍法会議だからね。殺したくないけど殺した。もっとも、南京にはほとんど憲兵はいなかったけど……」(3)

 このような強姦を含む南京事件を目撃した南京在住ドイツ人の証言。
 昭和12年12月17日、「アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。『安全区は日本兵用の売春宿になった』。
 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも100人以上の少女が被害にあった。
 いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ」
 12月21日、「日本軍が街を焼きはらっているのは、もはや疑う余地はない。たぶん掠奪や強奪の跡を消すためだろう」
 昭和13年1月25日、「もし強姦した人間が残らず仕返しに殴り殺されたら、日本軍はすでに全滅していることだろう」
 2月3日、「局部に竹をつっこまれた女の人の死体を、そこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえなんども暴行されているのだ」(4)

 弁護士遠藤誠の父は、昭和12年9月、召集され、支那事変に従軍。13年7月、陸軍輜重一等兵のとき、中国・安慶付近で戦死する。戦地での日記を残す。
 昭和13年4月、中国・定遠。「4月8日 午後から入浴に行く。帰りに、U君・A君・Ⅴ君と一しょに支那ピーと日本ピー(原注・ピーとは売春婦の意)の姿を見に行く。最近は、支那ピーが30分で50銭(原注・今の3000円)、日本ピーが30分で2円(原注・今の1万2000円)、それでも満員なので慰安所にはなかなか入れない。U君は、1時間50分やって、9円払って来たとのこと」
「4月14日 鳳陽城西北方の蘆山方面の支那敗残兵を討伐しにゆく」「討伐行軍、徴発というと、必ず支那の女を見つけだしては強姦する。この日も、WとA等は、また強姦をやったそうである」
「4月20日」「鈴木隊の下士官以上は、慰安会と称して支那の女性を強姦する」
 昭和13年5月、中国・蚌埠。「5月15日 W、Ⅴらは、早くも蚌埠の支那街の離れ小島に、支那女性の徴発ピー(原注・強姦同様にして売春婦にされた中国女性を言うらしい)あさりに行き、性交を遂行してきたそうである。
 もと支那軍の将校の妻だった32歳の女と、支那巡査の妻だった32歳の女と、それから34歳の女のいるところへ行って、W君は、50銭を相手の女に与えたら、その女は、Ⅴ君の、軍帽にすがり、軍衣にすがり、5角(原注・今の1万5000円位)の金を要求したそうである。
 しかし『5角出すのだったら、慰安所に行って、公然とやった方がいい』と言って、すがる女の手を払いのけ、20銭でむりやり強姦してきたそうである」(5)

 昭和14年から4年間、中国各地を転戦した兵士の証言。
「突撃して勝ったとき何をするかと言えば、どろぼうするか女をやるしかねえんじゃもん、われわれ20や21の者(もん)には。突撃する、女をやれる、どろぼうできる……。何が天皇陛下万歳じゃ。それが事実じゃもん。それが、わしらの青春じゃったんだもん……」
 所属した中隊には慰安所もあった。「朝鮮から引っぱってこられた女が20人ばかりおったんです」。
「どうして村人を殺(や)ってまでどろぼうするのか。食うことと、慰安所に行くためじゃった。べっぴんを買うんには3円いるんじゃけん。給料は7円20銭だけじゃった」(6)

 昭和14年3月25日、晴後曇、「7時出発、冷たい空気が気持ちよい、部隊本部の落伍者に会う、部落に入るたびに女の悲鳴と豚、鶏の叫び声、これが戦争だと眼をつぶる。私には行軍が精一杯の力なのだ、残念だが仕方がない」(7)
 ある陸軍軍医の嘆きである。日本軍の暴虐は、その後もやまない。
 昭和19年、中国・岳陽で、写真家名取洋之助と出会った従軍カメラマンの証言。
「名取(洋之助)さんとも漢口で別れたあと、一度、洞庭湖の近くの岳陽のあたりの停車場ですれ違いまして。
 名取さんは人夫を連れて、『焼くな、奪うな、殺すな』という宣伝をしておったですね。中国軍へじゃなくて、日本兵に向けての啓蒙宣伝です。
 もう、日本軍のやりかたがあんまりひどいので、名取さんが司令部に直訴して、そういう宣伝班を率いてあの辺りを回っていたわけです。
 私も、そこの停車場にペンキで『焼くな、奪うな、殺すな』と描いていたのをそばで見てました」(8)

「焼くな、奪うな、殺すな」の中に、強姦禁止も含まれているのだろう。
 しかし、ある兵士の証言。
 20年5月ごろ、「全軍指揮官の岡村大将の命で朝礼時、『焼くな、姦すな、殺すな』と唱和することになったが、1人の兵が聞こえよがしに言った。
『あれほどやらせておいて、いまさらそう言っても手遅れだ』」(9)

 満州事変当時の朝鮮軍司令官林銑十郎は、昭和6年10月12日の日記に、こう書いている。
「此日、(朝鮮軍隷下の)歩78ノ兵卒2名、奉天ニ於テ民家侵入、強姦罪ヲ犯セシコトノ通報ニ接ス。皇軍ノ名ヲ傷クルノ悪漢ナリ、将来ノ為メ厳罰ニ処スルノ要アラン」(10)
 どの程度の「厳罰」だったのか。「将来のために」ならなかったようだ。  
 最後に、昭和16年6月18日、作家永井荷風の耳にした「町の噂」話。

「芝口辺、米屋の男、3、4年前召集せられ戦地に在りし時、漢口にて数人の兵士と共に或医師の家に乱入したり。この家には美しき娘2人あり。
 医師夫婦は壷に入れたる金銀貨を日本兵に与え、娘2人を助けてくれと嘆願せしが、兵卒は無慈悲にも、その親の面前にて娘2人を裸体となし、思う存分に輪姦せし後、親子を縛って井戸に投込みたり。
 此の暴行をなせし兵卒の一人、やがて帰還し、留守中母と嫁とを預け置きし埼玉県の某市に到りて見しに、2人の様子、出征前とは異り、何となく怪しきところあり」
「留守中、一夜強盗のために、母も嫁もともども縛られて強姦せられし」
「かの兵士は(漢口のこと)を回想せしにや、程なく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども、衆人の前にても憚るところなく語りつづくるようになりしかば、一時、憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送らるるに至りしと云う」(11)

《引用資料》1,岡村寧次「岡村寧次大将資料・上」原書房・1970年。2,小川関治郎「ある軍法務官の日記」みすず書房・2000年。3,森山康平「証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで」新人物往来社・1975年。4,ジョン・ラーベ「南京の真実」講談社・1997年。5,遠藤誠「弁護士と仏教と革命」長崎出版・1981年。6,読売新聞大阪社会部「中国侵略ー新聞記者が語りつぐ戦争6」角川文庫・1985年。7,岡村俊彦「榾火」文献社・1961年。8,小柳次一・石川保昌「従軍カメラマンの戦争」新潮社・1993年。9,朝日新聞テーマ談話室「日本人の戦争」平凡社・1988年。10、林銑十郎「満洲事件日誌」みすず書房・1996年。11、永井壮吉「荷風全集第24巻(断腸亭日乗・4)」岩波書店・1994年。
(2021年10月14日まとめ)

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