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法廷傍聴控え 警察官トカレフ所持事件1

昔、こんな事件がありました。

 1990年代、日本を騒がせた拳銃事件の主役ともいうべき拳銃が、大量密輸で日本に持ち込まれた中国製自動装填式拳銃・トカレフであった。90年代半ばごろまでに、推定密輸拳銃数の大部分が押収される。

 しかし、まだ、トカレフは国内にしぶとく潜んでいた。

 1999年5月19日、東京・霞が関、東京地方裁判所424号法廷の傍聴席に、14、5人の一団が詰めかけた。最前列に陣取るのは、年配の女性たち。被告の妻、母親、兄弟たちのようだ。

 手錠、腰縄つきで入廷する被告は、白髪まじりの頭に金縁メガネ、170センチぐらいか、腹は少し出ている。黒いジャンパーに黒いズボン。東京・多摩地区に住む山田三郎(48)だ。

 山田は、逮捕当時、現職の警察官で巡査長だった。70年3月、都内の高校を卒業し、警視庁巡査となる。71年2月、八王子警察署に配属されたのをスタートに、81年2月、立川警察署、91年3月、青梅警察署と異動し、98年2月から、三鷹警察署に勤務していた。

 三鷹署では、地域課で交番勤務だった。警察官になって28年11カ月、この間、警視総監賞を33回、刑事部長賞を約120回受賞したというベテランである。
 76年、結婚し、妻、1男1女のこどもの4人暮らし。親族にも現職や引退した警察官がいるという。

 検察官が読み上げた起訴状によると、99年2月10日、山田は、中国製の自動装填式拳銃・トカレフ1丁と実弾13発、回転式改造拳銃1丁、実弾3発を自宅で所持したというのだ。
 山田は、「間違いありません」と起訴事実を認めた。一体、山田はどうして、警察官にあるまじき、このような事件を起こしたのだろうか。

 「トカレフのことで聞きたい」と、山田が、警視庁監察官から呼び出されたのは、99年2月8日のことだった。なんでも、「この件をマスコミがしった」ともいわれた。

 この日と9日にかけて、取り調べが行われ、山田は、トカレフとトカレフ用実弾13発所持の件を供述する。さらに、モデルガンを改造した拳銃、実弾3発も所持していることもみずから述べる。

 10日、警視庁銃器対策課は、山田の自宅を捜索し、供述どおり、トカレフなどを押収した。12日、山田は逮捕され、16日には懲戒免職となる。

 マスコミが動いていたというが、山田が監察官に呼び出された3日前に発売された写真週刊誌『フライデー』は、「これが警視庁の『拳銃ヤラセ押収』の全貌だ」というタイトルで、東京・武蔵野署の出来事を紹介している。

 同署員が、「刑を安く(軽く)してやる」と、拳銃所持で逮捕された暴力団関係者に取引をもちかけ、新たに、トカレフ1丁と実弾4発を「ヤラセで押収した」というのだ。同署員は、「こういう事態が起こることは、私も予測していた。(クビになっても)しようがない」とコメントした。

 武蔵野署は、山田の勤務していた三鷹署に隣接している。警察官と拳銃についてのマスコミ報道はこれぐらいなもので、山田の件を事前に察知し、詳細に報道したマスコミは見当たらなかった。

 ともあれ、7月8日には、山田の第2回公判が開かれ、被告人質問も行われた。クリーム色の半袖シャツを着て、さっぱりしている。弁護人からの質問に淡々と答える。事件のメインは、トカレフとトカレフ用実弾の所持だ。

 ──トカレフを自宅においていたのですか。
「はい」
 ──トカレフが自宅にあった事情はどういうことでしたか。
「私が青梅署に勤務していたころ、相沢が立川に住んでいました」

 以下、山田は、その事情を語った。冒頭陳述、検察官への供述なども加えてみると、その概略は、次のようなことだった。

 山田は、八王子署時代、暴力団の捜査も担当していた。暴力団関係者の中にいた情報提供者の1人が、東京・立川に住んでいる相沢という組員だった。青梅署時代も、暴力団捜査も担当していたが、94年5月、久しぶりに、相沢から電話がかかる。

 彼の家に出向くと、「脳腫瘍で1年か2年の命だ。世話になった。拳銃を出すから、死んだら、つけてくれ」ともちかけられた。山田は了解する。

 その後、相沢に会うたびに、「拳銃を出せ」と催促するが、なかなか出さない。同年9月ごろ、ようやく、相沢は実弾を見せるが、「冗談じゃない、タマだけじゃ」と、山田は怒る。

 すると、1週間後、相沢はタオルに包まれたトカレフ1丁と実弾13発を手渡した。受け取った拳銃と実弾を、青梅署の自分のロッカーにしまう。
 相沢が死んだら、連絡が入る手はずになっており、その後、相沢の家の下駄箱の中から押収したことにし、被疑者不詳で立件するつもりだった。
 相沢は病死ではなく、九七年、殴り殺されたというが、そのトカレフが表に出ることはなかった。山田は拳銃を出す「タイミングを逸した」と弁明した。

 ──トカレフを自宅においたのはなぜですか。
「青梅署のロッカーにおいていましたが、97年10月に、生活安全課の署員がきて、『拳銃で自首するものがいるので、拳銃を出してほしい』といわれました。まずいと感じて、自宅に持っていきました」

 山田がトカレフを持っていることは、青梅署内の数名がしっていたという。そのうちの1人が、「拳銃を出してほしい」といってきたのだ。自首する人間に、ついでにトカレフ1丁を追加して、押収拳銃数をふやそうということなのか。

 山田は、自分のいない間に持っていかれては「まずい」と感じたのか。それとも、このトカレフは発射した形跡があり、何らかの犯罪に使われたものだとすれば、「まずい」のか。この辺の真意は不明だが、このことがあって、自宅に持ちかえり、物置の中にあるスキー袋に隠したのである。

 さらに、44口径マグナム回転式拳銃のモデルガンを改造し、発射能力を持つ拳銃も所持していた。

 ──その事情はどういうことでしたか。
「立川署勤務の85年に、ウエスタンショーで改造拳銃を使用したという事件で、三鷹署に本部ができ、捜査応援のため、三鷹署に派遣されました」

 まもなく、捜査は終結したが、この事件で任意提出された複数のモデルガンを廃棄処分することになった。このモデルガンは、銃身に合金製の棒が詰め込まれ、弾を発射できないように細工されている。

「どうせ廃棄するのなら、銃身が外れるかどうか試そう」と、山田は、44マグナム1丁を三鷹署近くの工場に持っていき、ドリルで試したみたところ、簡単に外すことができ、きちんと穴の開いた銃身と取りかえることができる。このときは、試しただけで、改造したモデルガンを三鷹署の担当者に返却した。

 ところが、87年か88年ごろ、「ヤマちゃん、事件も終わったし、後輩の教材にしたらいい、取りにこい」と三鷹署の担当者から話があった。

 そこで、山田は、改造拳銃やモデルガンを持ってかえり、「持ち出し禁止、教材、刑事課長」という貼り紙をして、立川署においた。

 ──改造拳銃を青梅署に持っていったが、何のためですか。
「教材で見せたり、ウエスタンショーの事件の共犯がまだいるので、その事件をやろうと持っていました」
 ──青梅署から三鷹署に転勤しましたが、このときはどうしましたか。
「持っていきません」
 ──なぜですか。
「三鷹署では地域課の交番勤務だからです」

 改造拳銃はほかのモデルガンと一緒に分解して、モデルガンケースに入れ、トカレフと同じ自宅物置にしまった。

 ──実弾3発も自宅にありましたが。
「間違いありません」
 ──その事情は。
「八王子署で勤務していた79年か80年の2月ごろ、退職する上司から、『ヤマちゃん、これ、あとで処分しておいてくれ』とガムテープに巻かれたものを渡されました」

 45口径の実弾3発で、立件できず、宙に浮いたものだった。
 ──断ればよかったのではないですか。
「77年10月に捜査係になりましたが、当時はお茶くみ3年といわれていました。先輩、上司の依頼を断ると、仕事を教えてくれない、相手にもされません。妻を紹介してもくれた人でしたから」

 断りきれなかった。
 ──どうして処分をしなかったのですか。
「川に捨てると、だれかに見つけられる。時機を逸して忘れていました。今回の取り調べ中に、思い出しました」

 この3発の実弾は、81年、八王子署から立川署に異動するとき、自宅に持ちかえり、捜索のときには、自宅の居間のサイドボードの中に置いておいた。

(2021年12月1日まとめ・人名は仮名)


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